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『はやくはやく!』
『まってよ~』
彼女はいつも僕よりも前を走る。追い付こうと必死に足を踏み出しても、なかなか差が縮まらない。
『こっちだよ、慎!』
彼女はこっちを振り返りながら楽しそうに手を振る。その笑顔を目指してさらにスピードを上げてみるけれど、二人の距離は変わらない。彼女が速すぎるのか、僕が遅すぎるのか、分からない。僕が追い付くのはいつも彼女が立ち止まった時だけだ。
急に周りが暗くなり、彼女の姿が見えづらくなる。『こっちこっち』という彼女の声を頼りに僕は走る。そういえば、僕たちはどこに向かっているのだろうか。
『ねぇ、どこいくの?』
彼女は答えない。僕に背を向け、走り続ける。
『まってよ……おいてかないで……』
声に涙が混じる。手を伸ばしても、彼女には届かない。僕のことなど見えていないのだろうか。
『まって! おいてかないで! ねえちゃん!』
ハッと目を覚まし、ゆっくりと起き上がった。頬に触れて濡れた感触がないことに安堵する。どうやら泣いてはいないようだ。代わりに額にうっすらと汗が滲んでいた。
「……もう十年か」
僕は起き上がってカーテンを開けた。昇ったばかりの日がうっすらと空を赤く染め、その光を畑や田んぼが反射してきらきら光っている。
時計を見るとまだ六時前だった。いつも起きる時間よりも一時間近く早いけれど、妙に目が冴えていて、二度寝する気にはなれなかった。
軽く伸びをしながら深呼吸すると、炒め物の匂いがした。ばあちゃんが朝ごはんと弁当の準備をしてくれているのだろう。僕は制服に着替えて部屋を出た。
「おはよう。ばあちゃん」
「おはよう、慎。今日は早いね。もしかして起こしちゃった?」
「いや、たまたま目が覚めただけ。じいちゃんは?」
「モモの散歩に行ってるよ」
モモはうちで飼ってる柴犬だ。僕が小学生の頃からこの家にいて、朝の散歩はじいちゃんの日課になっている。
「手伝うよ」
僕はばあちゃんの隣に立って溜まった洗い物に手を付けた。
「ありがとうね」
ばあちゃんはそう言ってボウルに卵を割り入れる。朝ごはんと弁当用に卵焼きを作るのだ。手間がかかるはずなのに、ばあちゃんはいつも何重にも巻かれた卵焼きを作ってくれる。
「学校はどう?」
「別に、普通だよ」
「その普通を教えて欲しいんだよ。慎は学校のこと全然話してくれないから」
「普通の男子高校生は学校の話なんてしないよ、たぶん」
自分が普通の男子高校生かは分からないけれど。
「そんなにばあちゃんには話したくないのかい?」
ばあちゃんは大げさに寂しそうな声を出した。
「そういうわけじゃないよ。本当に話すことがないんだ」
「ほんのちょっとしたことでいいんだけどねぇ」
ばあちゃんはそう言って卵を焼き始めた。甘い香りを放ちながら固まっていく卵を慣れた手つきで巻いていく。
「ちょっとしたことか……」
なにかあったかな。洗い物をしながら考えて、あっ、と気づく。ひとつだけ思い当たるものがあった。
「そう言えば、ついこの前同じクラスに転校生が来たよ」
「そうなの? なんだ、話せることあるじゃない」
ばあちゃんはうれしそうに言った。だけど、これ以上はあまり話せることがない。なにせ、その転校生とは多少会話しただけで特別仲が良いわけではないのだ。
「慎はその転校生と話したのかい?」
「少しはね。席が隣だし、今月は掃除当番も一緒だったから」
「席が隣なのかい? それじゃあ話をする機会はこれからもたくさんあるだろう。仲良くしなさい」
「仲良くか……」
別に彼女のことが嫌いなわけではないけれど、だからといって自分から積極的に仲を深めようとは思えない。彼女に限らず、他人とは最低限の関わりだけで済む方が僕としては気楽だ。
「いつか一目でもいいから見させておくれよ。慎の友達」
ばあちゃんはそう言って、出来上がった卵焼きをまな板に移した。きれいに四角く形作られていて、表面にはほんのりと焼き色がついている。切り分けると湯気と香りが立って食欲がそそられる。
「善処するよ」
洗い物を終えて、手を拭きながら僕は言った。余計なことを言ったかな、と僕は少しだけ後悔した。
僕はこれまで一度もこの家に友達と呼べる人間を招いたことがない。高校生になっても僕に親しい人間の影すら見えないことに、ばあちゃんは(おそらくじいちゃんも)心配しているのだ。
二人を安心させたい気持ちはあるものの、同時に厄介な宿題を出されたと憂鬱にもなった。僕は深く考えるのはやめ、ひとまずばあちゃんの手伝いに精を出すことにした。