ソーニャン節
「猫がソーラン節を踊れるわけがない」
傲慢である。
猫がソーラン節を踊ろうとして、
何が不都合なことだろうと思われるのが心外だった。
猫は自分自身が踊れる存在であることを
示すために、努めてソーラン節を試みるが、結果的に猫は人間にできて、自分にはできないということを、覆したくて動いているが、
どうにも、ソーラン節というものは
人間の動きに合わせて動かすことに精一杯で、対して自分というものは、その反応に適応できずにもがいていた。踠くうちに何か、閃きが生じていく。
ソーラン節はソーラン節であるべきなのだろうか。猫はソーラン節をソーニャン節として
踊る。たとえ、この単発じみた躍りで、端から見たらつまらないと思われることでも猫は努めて踊ることに全力を注いだ。自身の魂を躍りに込めて歌って踊った。その結果、猫はソーニャン節として人々には受け入れられたものの、見ている者にとってはお道化、暇事のように受けいられるかもしれないが、今後とも踊っていきたいと思った。