狐の嫁入り
高校生の時に書いた小説を手直ししました。
後味は悪いと思うので何でも読める方向けです。
昔、狐の嫁入りを見た。
その日は青空が広がっていたのに、霧のように細かな雨が降っていた。
日照雨だった。
私を見ると笑っていつも遊んでくれる拝殿に座った真白の青年がおらず、帰ろうと思った時だった。
少し塗装の剥げた朱の鳥居の向こうから、しゃん、しゃん、ちりーんと涼やかな鈴の音が聞こえて振り向く。
同時に誰もいないはずのそこから、じゃり、じゃりというたくさんの足音も聞こえてくる。
不思議に思って目を擦った瞬間、どこからか楽しそうに笑い、狐の面をつけた子供たちが桜色の紙を撒きながら目の前を駆けていく。
その紙は地面に落ちることなく、淡雪のように消えていった。それに続いて、豪華な着物を着た女たちがしゃなり、しゃなり提灯を持って歩いていく。
夢を見ているのかと思った。
しばらく、この現実とは思えない光景にあんぐりと口を開けて魅入っていた。
ずっとそうして子供たちを見ていたからだろうか、その中の一人と目が合う。お面のはずなのに、狐の顔がニンマリと笑ったように見えた。
「おや、ニンゲンの子。おかしいな。呪いをかけたはずなのに」
子供の体から出たとは思えないほどの嗄れ声だった。怖くなって思わず後ずさりをした時、木の根につまずいて尻もちをついた。
落ち葉がガサッと音を立ててしまい、子供たちが一斉に振り向き私をとり囲んだ。
その中の一人が私をじっと見つめた後、微笑んで丁寧にお辞儀をした。
「ああ。――の妹君か。これは、これは。大変失礼いたしました」
張り詰めたような空気が一気に和らいで、私はやっと一息ついた。
「主殿の妹君、なるほどそうでありましたか。大変失礼いたしました」
「本日は誠にめでたい日。道中を見ていって下され」
「めでたい、めでたい」
「わらわの主が妻を娶ったので」
「ほおら、あの方がわらわの主殿よ」
そう指さされ、振り向くと鳥居よりもずっと鮮やかな赤と眩しいほどの白が目に飛び込んでくる。
豪華な着物を着た若そうな女に赤い傘を差されながら、白無垢を着た女が白い装束の男に抱きかかえられていた。
おとぎ話の中に飛び込んでしまったかのような二人の麗しさに、今までの恐怖を忘れて息をのむ。
それが誰かに似ている気がしたのに、私は何も思い出せない。
その後どうやって家に帰ったのか。
そして毎日遊んでくれていた、真白の青年が誰だったのかも。
***
突然だが、私は毎朝通学中にパン屋の前を通るのを楽しみにしている。
パンの焼ける、バターが少し焦げたような香ばしい匂い。そこで幸せをチャージして、学校へと向かうのが日課だ。
テスト前後や嫌なことがあった時にはあえて遠回りをして、庭先を整えている素敵な家の前を通って帰る。
そこの植込みの花が纏うほのかな香りを嗅ぐたびに、心が穏やかになるから。
けれども、電車やエレベーターなどの人が多く集まった密室のところの柔軟剤や香水の匂いは頭が痛くなるから苦手だし、ご飯屋でトイレの芳香剤が漂ってくるのはすごく嫌だ。ご飯が不味くなる。
人一倍、匂いに敏感であるからなのか。私は幼い頃に嗅いだ香りをずっと探していた。
ぼんやりとした記憶の中、それだけは鮮明に覚えている。
温かいお日様みたいに優しくて、でも大人っぽくて。芳しい花々を溶かし込んだような甘やかな香り。
一体、誰が纏っていた香りなのだろう。両親も、祖父母もそういったことに興味がなかったのに。
大学受験を無事に終えて大学に進学するにあたり、私は京都に一人暮らしをすることした。買い物に出かけたとき、道端で嗅いだことのある匂いに思わず足を止める。
「お香屋?」
普段なら絶対に入らない、重厚な外観の店に入る。
並べられたお香を何個か嗅いだ後、白檀の香を手に取った。
これが探していた香りだと気が付くのにそう時間はかからなかった。そして、この香りが幼い頃よく遊んでくれていた青年の纏っていた香りだということも思い出した。
華やかで艶のある香り。
もう少し甘い印象があったのだが、こんなに大人っぽい香りだったとは。
忘れかけていた楽しかった記憶が蘇る。
私がまだ甘えたがりの小学校二年生の時に弟が産まれた。
両親は体の弱かった弟にかかりっきりで、しょっちゅう風邪をこじらせては入院する弟に付きそって家を空けた。そのため、私は弟が幼稚園に入るくらいまでほとんど祖父母に育てられていた。大学も奨学金を借りず一人暮らしをさせてもらえるくらいだ。大切にしてもらっていることは分かっているが、何となく弟中心の暮らしに寂しさを感じていたのだ。
少し耳が遠い祖父と礼儀作法に厳しかった祖母から逃げるように、家の前の小高い山の上にある神社を遊び場にしていた。今考えれば褒められた遊びではないが、この神社で白い服に身を包んだ青年が遊んでくれた。昔話をしてくれたり、昔の手遊び歌を教えてくれたりして共に日が暮れるまで遊んだ。彼の話は大抵おどろおどろしい妖怪の話ばかりで怖かったけれど、それはそれとしてすごく楽しかった。
そして、彼はいつも何かしら面白い物を持っていた。
乾燥するとビーズみたいにひもを通せる草の実、茶色いコスモスなど沢山あった。
草の実ではブレスレットを作った。茶色いコスモスは、普通の白いものから手品で枯らしたように見せたものだからびっくりした。嗅いでみなよと言われ、それがチョコレートの匂いがして驚いた私を見て子どものようにすごく喜んだ。
ずっと遊んでいたはずなのに、いつからか彼は姿を消した。
私も習い事を始め、すっかり山の神社には行かなくなった。弟が小学校に入学して、身体も丈夫になって落ち着いたため祖父母宅を離れて引っ越しをして、いつの間にか忘れていた。
こんなにも楽しい思い出だったのに。
「これひとつください」
気が付いたら、店で一番と言ってもいいくらい高級なお香だったが買っていた。
お陰でその日のお昼ご飯は食べ損ねたし、買う予定だった冬物のコートを買わずに家路についた。
***
今月は三連休が多い。
明日から三連休だったが、偶然バイトも休みだったので、思い出の地に行ってみようと思った。思い立ったら吉日とネットで購入し、新幹線の自由席に乗って東京で乗り換えをして向かう。こういうときの行動力には自信がある。
行かなければならない。なぜかそう強く思った。
誰かに呼ばれているような気がしたから。
祖父母の家があったところに行くのは何年ぶりだろうか。
私が中学校に上がるころ、祖父が亡くなり、祖母は認知症になって施設へ入ることになり家を片付けたため、もう何年も行っていない。景色をぼんやりと眺める。
峠のトンネルを超えたあたりから、車窓からの景色も無機質な街並みから田園風景へと変わっていく。
北へ進むごとに、先ほどまでは青々と茂っていた木々たちとは異なり少し色づいているのが見え、季節が着々と夏から秋へ移り変わっているのを感じた。
「次は――。――。」
***
ホームに降り立ち、改札を抜けて外に出る。
昔はもっと栄えていたと思ったのに、今では多くの店にシャッターが下りていて、駅前通りは寂れていた。もう十年近く来ていなかったのだ。それもそうかと肩をすくめる。
「本当に見渡す限り山なんだよなあ」
そう呟きながら、後先考えず近場に足を運ぶような、普段から使っているバッグだけの格好で来た自分がおかしくなって笑った。
駅の構内を出る。
なぜか晴れているのに、雨が降っていた。
ビニール傘をコンビニで買い、山に吸い寄せられるように歩いていく。
昔は畑ばかりで家なんて建っていなかったのに、いつの間にか私の遊び場だった山を残して家やマンションが立ち並んでいて、改めて時の流れを感じた。
閑静な住宅街に囲まれた木々の生い茂るこんもりとした山。奥にたくさんの山々が連なっているからだろうか、その山だけ間違って飛び出してきてしまったかのような印象を受けた。
石造りの鳥居をくぐると、石段の上を千本鳥居がずらりと神社の方まで続いている。
昔もかなり古かった鳥居はさらに色褪せ、中には柱の足元が腐食しているものもあった。
石段は雪でやられたのかでこぼこで階段としての役目をほとんど果たしていなかった。
「意外と、急だ……!」
昔は走って登れた階段も、普段の運動不足の所為かすぐ息が上がり、汗が流れ落ちた。
「もう、来ては駄目だと言ったのに。――君は本当に、仕方のない子だ」
ずっと足元ばかり見ていたせいで人が昇った先にいることに気が付かなかった。呆れたような声が聞こえて、思わず顔を上げる。
崩れかかった拝殿に、記憶の中の彼と寸分違わぬ姿で、でも今は少し泣きそうな顔をした真白の青年がいた。
驚きのあまり声も出ずただ立ち竦む。
そんな私にとりあえずこっちに、と手を差し出す彼からふわりと、ずっと探していた甘やかな香りがした。
懐かしさに泣きそうになり、慌てて鼻をすする。
そうだ、思い出した。
あの景色を見た後、魂が抜けたようにそのまま座り込んでいる私を見つけた彼は急いで駆け寄ってきた。怪我はないか、何か取られていったものはないか、としつこく聞いた。何にもされていないと言うと彼は安堵して言った。
「いいか。君はもうここにきては駄目だ。もう一度会ったら、二度と……だろうから」
途中で強い風が吹いて声がかき消されたのか、記憶がない。
「なんて言ったの?」と聞こうと口を開いたとき、彼から「怖かっただろうから、今日はもう帰りな。さあ、ほらおかえり」と背中を押され帰りを促された。彼は日が暮れそうになると焦ったように私を家に帰した。
その日は念を押すように「後ろはもう振り返らずに」と、いつもは千本鳥居の手前まで送ってくれるのに、その場で私を見ようともせず別れを告げられた。
それが拒絶だと思った私は、寂しくて、悲しくて、ああきっと私は見てはいけないものを見てしまったから嫌われてしまったのだと思って泣いて帰ったのだった。
天気雨に降られ、尻もちをついたせいで泥だらけになって汚れ、泣いて帰ってきた私を見た祖母は、それから絶対に山に遊びに行くことをよしとしなかった。
そうだった。楽しい思い出だけではなかった。
苦々しい、失敗した記憶。
あれからずっと、ずっと、私はあなたに謝りたくて……。
「ごめんなさい。――竜胆」
ずっと忘れていたはずなのに、突然彼の名前が口から零れ落ちる。
彼の装束の裾が、ふわりと風が吹いていないのに舞う。光に包まれたかと思いきや私の服も普段着から白無垢へと変わっていた。一段と濃く甘いあの香りがして突然自分の体が持ち上げられる。いつの間にか私は竜胆に抱きかかえられていた。
「えっ、わ、わぁっ、竜胆?!」
「……ずっと、君に会いたいと思っていた。まさか、君の方からこうして会いに来てくれるとはなぁ」
くしゃりと泣きそうになりながら笑って言う竜胆に、私は泣きながらすがりつく。
一通り泣いた後、涙を拭い、思い出してからずっと気になっていたことを聞くことにした。
「ねえ、竜胆。そういえば、あの時なんて言ったの?」
「ん?ああ、そっか」
竜胆が短く口笛を吹くと、竜胆の声をさらっていった時のような強い風が吹いてかすかに声が聞こえた。
『もう一度会ったら、二度とこの手を離せなくなるだろうから』
「……なあ、本当にいいのか。日が暮れたらもう帰れない。今なら元の世界に戻れる。この先は君がどんなに泣いても、もう帰してやれないよ」
「いいよ。連れてってよ。これから、竜胆がずっと一緒にいてくれるんでしょう?」
「ああ、もちろんだ!ずっとな」
お互いに破顔したあと、子供のように指切りをする。
竜胆は私のことを見つめて微笑んだ後、また口笛を吹いた。
その音に呼び寄せられたかのように、どこからともなく子供たちと美しい女たちが集まってくる。
雨はまだ降りやまない。
いつの間にか日が沈みそうだった。
太陽に照らされた竜胆の瞳が、金色の光を湛えている。
しゃん、しゃん、ちりーん。
しゃん、しゃん、しゃん。
鈴の音があたり一面に響き渡る。
先頭を走る子供たちの笑い声とともに。
「ああ、めでたや。今宵は嫁入り」
「竜胆とその妹君」
「狐に嫁入りした、美しの妹君」
「めでたしめでたし」
沈んでいく太陽を追いかけるように、私は竜胆に抱きかかえられながら、彼岸花が道標のように咲く道を進んでいった。
二人でなら、もう何も怖くない。
夕焼けに染まる街並みに別れを告げ、私は喜びに浸りながら、思い出の中の甘くて優しい香りに包まれて彼の腕の中で目を瞑り、そっと竜胆の首に手を回した。
***
「――続いてのニュースです。けさ、○○山の山中で意識不明の女性を登山客が発見し、110番通報がありました。女性は病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。女性の首が紐で縛られていたことや、衣服や持ち物に乱れがなかったことから警察は自殺とみて捜査を進めています。」