第14話 我、泊地ニ陣地ヲ構築セリ
――リオラの森泊地。
その名は、今や伊163潜の乗員たちの間では通称として用いられるようになっていた。地図も無ければ、行政区画も無いこの世界において、名を与えるという行為は、同時に領有を意味するのかもしれない。
小野瀬艦長の判断により、この地が拠点化されることとなったのは、艦の補修と維持、そして今後の行動拠点の確保という三つの理由からである。
まず最初に手が付けられたのは、崖上への物資運搬手段の確保だった。
「よーし、いいか。あの巨木の枝を切り落として、滑車をかける梁にするぞ!」
「おう! やるぞ!」
先導したのは、航海科の古参兵・阿部一等兵曹である。
元々、船乗りである航海科員は、索具や帆柱など木材加工の経験を持つ者が多く、鋸や鉈を手にした姿は様になっていた。
手始めに、湾岸の斜面に面した崖下から延びる老木が選ばれた。
この老木は斜面に沿って傾いており、運搬索の滑車を設置するにはうってつけの形状だった。
「オーライ、そこだ、止めろ!……よし! 支点決定!」
声を張り上げるのは機関科の若手班長・谷村兵曹。
彼は重い滑車や鋼索を運び上げる作業の陣頭に立ち、伊163に備え付けられていた簡易デリックの一部構造を分解・再組立して崖上へと移設していた。
かくして、崖下から木材や水、補給物資を吊り上げる小規模な輸送設備が整えられた。
続いて、防衛線の構築が始まる。
砲雷科の小森太吉少尉の指揮により、伊163に備えられていた2丁の7.7ミリ機銃のうち、1丁が分解され、高台の岬へと運ばれた。
搬送には10人以上の人手を要し、さらに周囲の切り株や岩場を削っての設置作業は困難を極めたが、最終的に湾内全体を見下ろす絶好の位置に、機銃座が据えられた。
「よし。俯角、射界確認……問題なし!」
「固定完了! 弾薬箱設置済み!」
配備を終えた若い砲雷員たちは、汗を拭いながら顔を見合わせ、拳をぶつけ合う。
――これで、例の飛行生物が再び現れても、初動対応が可能となる。
同時に、崖上の段丘には機関科と航海科が協力して丸太と縄、布製の防水幌を用いて簡易な家屋と防柵を築いていた。
十数人が一時的に寝泊まりできる掘っ立て小屋に加え、炊事用の簡易かまど、物資保管用の掘立倉庫まで整備され、リオラ泊地は“駐屯地”の体を成し始めていた。
一方、艦長室には静かな時が流れていた。
小野瀬艦長と山田軍医は、療養を終えたリューリャから、彼女の出自とこの世界の生態系についての話を聞いていた。
「……この森には、三つの支配する者がいます」
少女は静かに語り始めた。
「一つはリオラの主と呼ばれる古き木々たち。それは私たちの言葉では“シラアナ”といいます。意志を持つ大樹で、森に住むものたちの命を守る存在です」
「意志を持つ……植物が?」
山田が思わず眉をひそめる。だがリューリャは頷く。
「はい。彼らは話せませんが、私たちは夢や幻で語り合うのです。森と繋がる者は、彼らの声を感じることができます」
「……なるほど、我々の理屈では捉えられぬ世界だな」
小野瀬は煙草に火をつけ、紫煙をゆっくり吐きながら耳を傾ける。
「二つ目は飛び獣、ドラッゲア。彼らは森の北辺から来た、魔力に侵された獣です。……私の村を襲ったのは、その中でもアザルと呼ばれる古の眷属でした」
小野瀬と山田は目を合わせる。
――やはり、あの飛行生物が。
「……奴は、どうして貴女の村を襲ったのだ?」
「……私たちの一族は、魔を封じるために生まれました。森の中に古くから存在する封印を維持する役目を持っていたのです。
けれど、最近、森の奥で封が揺らぎ始めて……その影響で、魔が表に出て来たのだと思います」
「封印……?」
山田が思わず聞き返すと、リューリャはうつむき、小さく頷いた。
「……森の北の奥に古き門があります。それを超えた者は、もう戻れないと……。私たちは決して近づきません。けれど、最近になって、何かがそこから流れ出てきているのです」
その話に、小野瀬は息を呑んだ。
何かが開いている――それは、つまりこの世界と我々の世界を繋ぐ裂け目の存在を示唆しているのではないか?
「その門の場所は分かるか?」
「……ええ。でも、近づくなら、気をつけてください。
私の父は、森の北で異邦の者を見たと言っていました。……人の姿をしていたけれど、あれは人ではないと」
小野瀬はその言葉に、得体の知れない焦燥感を覚えた。
もしそれが、他にもこちら側から来た者だとしたら――あるいは、迎えに来る者であったなら。
「……貴重な話をありがとう、リューリャ。
君の話は、我々にとっても重大な意味を持つ」
小野瀬は静かに言う。
リューリャはうなずき、小さな声で答えた。
「……私は、もう一人になりたくないんです。
私の家族も、村も、全部、奪われてしまった……。
だから、今度は――皆さんを、守りたい」
その言葉に、山田は目を伏せ、小野瀬は静かに目を細めた。
――少女の背負った痛みと、今、自分たちが立っているこの場所。
いずれこの森の封印が解ける時が来るのならば、自分たちがこの世界に干渉せざるを得ない未来も、そう遠くはない。
その時、伊163は――この艦は、誰のために、何のために、動くべきなのか。
今はまだ答えは出ない。だがその問いは、静かに小野瀬の胸に灯り続けていた。