雪と日課
ほんのりと街に降り積もる雪は見ていて心地いい。特に朝は少し高いところから街を見渡して見るといい。町中の家の屋根に雪が降り積もって、全部同じ色に揃えたみたいに真っ白になる。雪の日は毎朝真っ白に模様替えされるのだ。その様子を見ているとなんだか元気が出てきて、私の中に1日を頑張る気力が湧いてくる。一番いい場所でその景色を見るために、早起きして寒い中ランニングに出かけるのが私の冬の楽しみである。
スッスッハッハッ スッスッハッハッ
2回吸って、2回吐く。ランニングに適した呼吸法らしい。理論は分からないがお父さんに教えてもらったからという理由で意識して呼吸している。
口から出てくる吐息はすっかり白く染まり、季節がすっかり冬になってしまったことを実感する。手袋をしてきて良かった。
早朝にランニングをする、という日課は中学生の頃から始めた。もっと正確に言えば中学二年生の夏。きっかけはお父さんに言われたからだったと思う。「ランニングは良いぞ!全身をくまなく鍛えれるんだ」とか言われたけど、そんなのはどうでも良かった。
「走るうちに色々な世界が見れる。色んな人とも出会える」
その一言で私はランニングを始めることを決めた。
お父さんは根っからのスポーツマンで、仕事が終わった後、地域のバレーボールクラブでコーチをしている。当然私にも運動をさせようということになるので、私は小学生の時はお父さんの教えているクラブでバレー、中学生の時は部活でバスケをしていた。
お父さんは自由意志の尊重とか言ってどのスポーツをするかは私に選ばせてくれた。云はく「スポーツに貴賤なし」だそう。でも結局スポーツをする、という大きな視点から見ればあまり自由ではないのでは?と気づいた時、少しスポーツとして体を動かすことが退屈に思うようになった。今思えば、一種の反抗期みたいなものだったのかもしれない。
そんなわけでスポーツに飽きた私はお父さんを何とか押し切り、高校では部活に所属せず勉強に専念している。とはいえ、身についた日課は健康的で止める必要性を感じないため続けている。そのおかげでお父さんもなんとか黙っているのではないかと、私は考えている。
お父さんに倣って私も座右の銘を決めるとしたら「運動に貴賎なし」だろう。
家を出て、人気のない住宅地をしばらく走ると新聞配達のお兄さんとすれ違う。オーソドックスな自転車のリアキャリア(座席の後ろのことである。以前気になってお父さんに聞いてみたら教えてくれた)にはこれから町の人に届ける新聞が山のように積み重ねてビニール紐でガッチリと縛ってある。彼が仕事を始めたのがだいたい二年ほど前からなのだが、初めてその様子を見た時はよく自転車を漕げるものだと驚いた。
私が毎日同じ時間に出発し、彼もまた同じ時間に業務を行っているので出会わないことは稀で、ほとんど毎朝会っている。
「おはようございます」
「おはよう」
ただまあ、毎朝すれ違うと言っても、結局は相手のことをよく知らない他人同士。お兄さんは時間に余裕が無いのだし、私たちは一言だけ言葉を交わして互いの世界に戻る。私は日課、お兄さんは仕事。中学校の頃は何か心ときめく事件を期待していたけど、結局そんなものはなかったし、世の中案外そんなものだ。
家に帰るといつも、お兄さんが届けた新聞をお父さんが読んでいる。それがお父さんの日課みたいなものだ。それを横目に、母は朝ごはんの用意をしているのである。それもまた母の日課みたいなものなのだ。
誰しも日課を持っている。それが私が四年間日課を続ける間に得た持論だった。
一瞬足を止めて、何の気なしにチラッと後ろを振り返ると、雪のカーペットの上に私の小さな足跡と、お兄さんの自転車のタイヤの跡だけがおしゃれな模様のように残されている。
住宅地から市街地へと出る際のあたりに、同じ高校に通う友人の家がある。何度か遊びに行ったことがあるほど仲が良く、もちろん彼女は私の日課についても知っている。生真面目なんだね、と言われた時にはあまり私のこと好きではないのかと疑ったが、どうもそうではないらしく、私のそういうところを気に入っているらしい。
「じゃあ私の日課はトトに餌をあげることなのかな?」とは彼女の言である。
トトというのは彼女がペットとして飼っているジャンガリアンハムスターのことで、名前の由来はエジプト神話の神様にあるらしい。
ジャンガリアンハムスターと言えばなんだかすごい種類のように思えるが、実は一般的に飼われているハムスターである。クリーム色の毛をツヤツヤと光らせるトトはそれはもう愛くるしく、遊びに行った時は必ず撫でさせてもらう。最初は少し怯えていたのがだんだんと懐いてきて、初めて自ら私の手の上に乗ってきてくれた時には嬉しくて飛び上がりそうになった。
しかしまあ、ジャンガリアンハムスターについて私は詳しく知っている訳ではないけど、餌をあげるのはある種義務のようなものだと思う。
しかしそういう形の日課もあるということは肝に銘じておかねばならない。一概に日課と言えども、その形は様々あって良いと思うようにしている。
一度彼女に新聞配達のお兄さんの話をしたことがある。目をキラキラさせて脈アリとか脈ナシとか聞いてきた彼女に私は、「案外そういう感じにならないんだよね」と言ったものの、未だに疑惑は晴れていないようで、稀に「最近彼とはどう?」とか訳知り顔で聞いてくる。その様子はなんだか面白いが、何もないとしか答えることができないのが残念である。
市街地の端には、見晴らしのいい高台のある公園がひっそりと佇んでいる。車一台が通れるかどうかというくらいに舗装された道路の脇を駆け登った先にあるその公園。最近はもう子供達が寄りつくこともなくて遊具の多くに鯖付いている箇所があるのが分かる。
小さな頃にお父さんが連れてきてくれたから私はこの場所を知っているし、こうして毎日走って来ている。
ちょっと酷いかも知らないけど、ずいぶん寂しいその空気感も含めて、私はこの場所が好きだ。
そこにある高台から街の様子が一望できる。高台の前方は大きく開けていて、私の家も見えるし、友達の家も見える。流石に新聞配達のお兄さんの姿は見えないけど、新聞を配っていることだけは確かだ。
町中に浅く降り積もった雪で真っ白な表面がやっぱりとても綺麗に見える。何も書かれていない新品のノートにも見えるし、ペンキで塗りたての壁にも見える。
新しくて、誰にも汚されていなくて、でもこれから消えていくものかなしさをひしひしと感じる
この辺りの雪は1日で積もって溶けてを繰り返す。東北地方のようにずっと雪景色が見えることはない。
それに雪が降るのも一月末までだ。あと一月もないと思うと悲しい。
学校の帰り道に雪がすっかり消え去った街を見ると、ほんの少しだけ寂しく感じるけど、だからこそ朝のこの景色が、まるで宝物のように見えるのだと思う。
もしも大人になって私がこの街を出て、この景色を見れなくなるかもしれないと思うと不思議な気持ちになるが、多分日課のランニングはどんな場所に住み着いても続けていると思う。雪景色じゃなくても、頑張ろうと思える景色を探して日課を続けるのだと思う。
「よし。今日も一日頑張ろう!」
1日を頑張る活力が湧いてきた私は踵を返して高台を降り、来た時と同じ小走りで公園を後にした。