二章 三話 「私が君を追いやった理由について、察しは付いているか」
王城は、まさに「白亜の城」といった外見をしていた。
ゲーム本編の背景としても登場していたのだが、実物は思わずため息をついてしまうほどの美しさである。
だが、その中身は質実剛健。
謁見の間などといった外向けに「煌びやかにしなければならない場所」こそ華やかで美しいのだが、それ以外の場所は常在戦場といった様子であった。
窓などもなく、長柄物を振り回しにくい狭く入り組んだ廊下。
そこかしこに配置されている、ガチめな装備の警備兵。
いつでも撃てるように準備されているらしい魔法の大砲を見たときなどは、ルシアは思わず短い悲鳴を上げてしまった。
「そりゃそうですよね。この国、めっちゃ軍事寄りですもんね。お城もガチガチの要塞仕様ですよね」
「城ですもの。戦支度をしてあるのは当然ですわ」
城というのは戦のためのモノ。
当然と言えば、当然のことなのだろう。
だが、前世でも今世でも「戦」などというモノとは縁遠かったルシアには、なかなかの衝撃であった。
どこか観光名所や、それこそゲームの「お城」のイメージが強いからだろう。
実際に「戦いのための城」として機能しているのを目の当たりにして、かなりの驚きを覚えた。
「貴族や軍の方々にとってみれば当然かもしれませんが、何しろそう言ったところと縁遠い生活をしていましたから。お城と言うのは、なんだか煌びやかで優美な場所なんだろうな、と想像していたもので」
「まあ、社交場としても機能していますし、パーティなども行われてはいますわね。庶民の目はそう言った方に向かうものなのかしら」
「そうです、そうです。どんなきれいなドレスを着てるのかなぁ、とか。どんなごちそうを食べてるのかなぁ、とか」
「のんきですわねぇ。城と言えば最後の守り。様々な仕掛けや武器が用意された、国の威信をかけた軍事拠点でしてよ」
「そういわれれば、その通りなんですが」
そんな話をしながら、ルシアはちらりと前方に視線を送った。
エルザルートとルシアの前を歩いているのは、全身鎧に兜まで被った、兵士の姿。
二人の後ろにも、やはり同じような装備の兵士が歩いている。
完全武装の兵士に、前後を挟まれた格好だ。
この日、エルザルートとルシアは、王城に来ていた。
宰相であるガウリウス・エルドルド侯爵に呼び出されたからだ。
完全武装の兵士達は、案内役である。
城の中は複雑に入り組んでいるので、案内が居ないと迷うことになるのだ。
それ以外にも、「客」が妙な悪さをしないよう、見張る役目もあるのだろう。
この王城という場所は、国の中枢機関でもある。
王様の居城であり、軍事的な拠点であり、政治的な拠点でもあるのだ。
そこの中を歩くのだから、外から来た人間に監視が付くのは、当然の事だろう。
「只中を歩くだけで、フル装備の兵隊さんが監視に付いてくる位、ここは重要な場所ってことですよね。うっ、胃がキリキリとっ」
「何を繊細そうなことを言っていますの」
「繊細そう、じゃなくて、繊細なんですよ僕は」
「下級貴族ならペコペコ頭を下げるような大商人相手に平気な顔で立ち回ってる人間の言う事じゃありませんわね」
「ていうか、なんで僕ここに居るんですかねぇ? エルザルート様だけでよかったんじゃ」
「あなたも呼び出されているからですわ」
「なんで僕なんかが。宰相閣下みたいなお方からすれば、路傍の石と変わらないはずじゃぁないですかぁ」
「あなた、自分がミンガラム男爵家の筆頭家臣だということを忘れていませんこと?」
そう、悲しいことに今のルシアはミンガラム男爵家の筆頭家臣。
出来立てほやほや、未だにやること満載の新興貴族家の中間管理職なのである。
本当ならさっさと退職して、領地の隅っこで畑でも耕してスローライフでも送りたいのだが。
「ミンガラム男爵領で人が住める場所って、草木も生えない土地だけなんだよなぁ」
現状、ミンガラム男爵領で人が住めるのは、巨大モンスターグリトニーの吸収魔法によって、不毛の地となった場所だけである。
それ以外の場所は、放っておくと2,3日で高さ10m位の木々が生い茂る森になってしまうので、住むのにも畑にするのにも全く適していない。
問題は植物の浸食だけではなかった。
魔獣の類も、次から次へと襲い掛かって来る。
とてものんびりスローライフなどできる環境ではないのだ。
「いいから、さっさと行きますわよ」
「ああ、すみません」
足が重くなっていたルシアは、エルザルートに急かされ、慌てたように小走りになった。
案内されたのは、重厚な石造りの部屋であった。
前線近くにある砦の会議室です、と言われたら納得しそうな作りである。
一応、明り取りや空気の入れ換えのためと思しき窓があるのだが、ごく小さいものであった。
室内が明るいのは、魔法の道具と思しき明かりがあるおかげだ。
ランタンのような形状で、かなりの光量を発している。
いくつも並べられたそれを、ルシアは半ば呆然とした顔で眺めていた。
部屋の中を照らすために相応の数が並ぶそれは、たった一つでもルシアが腰を抜かすような金額の高級品なのだ。
出入りの商人から金額を聞いた時、ルシアは思わず白目を剥きそうになったものである。
「あんなのがうちの領地でも気軽に使えるようになればいいのになぁ」
そんなことを考えながら、ちらりと視線を動かす。
隣にいるのは、エルザルートである。
視線をさらに動かすと、そこにいるのは初老に見える男性。
眼光鋭く、周囲の空気が帯電しているのかと錯覚するほどの威圧感を発している。
なるべく目を合わさないようにしたいところだが、そうもいかない。
何しろ、初老の男性。
エルザルートとルシアを呼び出した当人であるところの宰相は、思い切りルシアの方を凝視しているのだ。
「もしかして宰相閣下って、視線だけで人を殺したこととかあります?」
などと聞いてみたい衝動に駆られるルシアだったが、流石にそれをそのまま口に出すようなことはしない。
真顔のまま肯定されでもしたら、この場から全力で逃げ出してしまいそうだったからだ。
エルザルート、アールトン、ノンドといった面々も、なかなかの迫力を持ち合わせてはいた。
実際、アールトンと敵対していた時など、ルシアは睨まれただけで腰を抜かしそうになったものだ。
だが。
宰相閣下はそういったレベルを、完全に逸脱していた。
全身から発せられる迫力、存在感が桁違いなのだ。
この世界は「乙女ゲー」修正があり、美形が強くて優秀である。
宰相は美形では全くない、マフィアのボスとかヤクザの大親分、あるいは魔王か何かかといったような、威圧感のある顔立ちをしていた。
特に目が強烈で、冗談抜きで睨まれた眼力で殺されるんじゃないかというほどである。
オーラとでもいうのだろうか。
もはやルシアの目には、宰相の周りに何やら立ち上るエネルギーのようなものが見えるようであった。
「いや、本当に見えてる!?」
もちろん、ルシアの心の中の叫びである。
そう、最初は気圧されてそう見えているだけなのかと思ったルシアだったが、どうも本当に宰相の体から何かエネルギー的なものが立ち上っているようなのだ。
ルシアはこそこそと小声で、エルザルートに尋ねた。
「あの、あの、エルザルート様。宰相閣下のお体から何かが立ち上っているように見えるのですが」
「ええ。立ち上っていますわね」
「えっ、いや、っていうか、アレは一体?」
「魔力に決まっているでしょう。強力な魔力を持っているモノは、それが体から漏れ出して大気が揺らいで見えることがあるのですわ。まあ、わたくし程度ではまだそこまでは行きませんけれどね」
衝撃の新事実に、ルシアはカタカタと震えた。
つまり宰相は、アホ火力魔法使いであるエルザルートより、はるかに魔力を保有しているということになる。
ルシアが調べた限り、宰相は剣を得意としているはずであった。
両手に様々な種類の剣を握り戦場を切り裂く姿は、さながら稲妻の如く。
とかなんとか。
そんな宰相が、果たして強力な魔力とやらを持っているモノなのだろうか。
いったんはそう考えたルシアだったが、すぐに「いや」と考え直した。
魔力というのは、ゲーム的に言えば「MP」の事である。
ゲームでは「魔法」だけではなく、物理攻撃技を使用する際にも「MP」を使っていたはずだ。
つまり、この世界では剣士も、魔力を持っているに越したことはない、ということになるのだろう。
「トキメキ戦略シミュレーション ファルニア学園キラ☆らぶ戦記」では、「魔力回復薬」や特別なアイテムなどによる補助がない限り、魔法や技を連発するようなことは不可能であった。
あるいは、宰相はそういった補助なしで、魔法や技を雨あられと使用できるのかもしれない。
いや、恐らくは出来るのだろう。
ルシアは部屋の中に、視線を走らせた。
置かれているのは会議用と思しき大きな長机と、いくつもの椅子だけである。
室内には、エルザルートとルシア。
そして、宰相の三人だけ。
護衛が入ってこようとはしていたのだが、宰相が一言「必要ない」というと、そそくさと出て行ってしまったのだ。
それでいいのか、と思ったルシアだったが、今になってようやくその理由に察しがついた。
必要ないのだ。
例えばこの部屋に入れる人数、六人程度の護衛であれば、居ない方がましなのだろう。
その方が、「宰相本人が動きやすい」のである。
例えばエルザルートとルシアが命を狙って襲い掛かったとしても、宰相一人でどうにでも対処できるのだ。
現状戦闘能力を持たないルシアにして見れば、「猛獣の檻に放り込まれた」のと変わらない。
護衛はむしろ、自分にこそ必要なのではなかろうか。
そんな風に思うルシアだったが、相手は「救国の英雄」にして現役の「宰相閣下」である。
吹けば飛ぶような立場であるルシアに、護衛など付くはずもない。
細く息を吐く、極々わずかな音に、ルシアは体をビクリと跳ね上げた。
部屋の中が静かだったから、ただの呼気が妙に響いたのである。
「さて。本来であれば、会話を楽しむ、などということをせねばならんのだろうが。あれこれと駆け引きをするなどという時間の無駄も省くべきだろう」
そう切り出した宰相の言葉に、エルザルートは楽し気に微笑み「そうですわね」と頷く。
ルシアの方はと言えば、全く別の所に気を取られていた。
「いや、めちゃめちゃ良い声なんかいっ!!」
もちろん、心の中の叫びである。
この世界が「乙女ゲー」の世界と完全に同じであるかどうか、ルシアにはわからない。
ただ、今まで実際に確認してきた事実として、乙女ゲーならではの不文律があった。
一つ、イケメンは基本的に高性能。
そしてもう一つが、良い声の人も基本的に高性能、というものだ。
乙女ゲーの事情でいえば、ぶっちゃけた話「声優」的な事情である。
良い声の有名俳優が採用されるようなキャラクターは、重要な役回りであることがほとんど。
つまり、「優秀」なのだ。
繰り返すが、この世界で「乙女ゲー」であった「トキメキ戦略シミュレーション ファルニア学園キラ☆らぶ戦記」の法則が適用されるかは、わからない。
しかし、少なくともルシアが観測する限り、「イケメン」と「良い声」が優秀である、という法則は、間違いなく適用されていた。
つまるところ、もはや宰相の優秀さは疑う余地がない、ということになる。
「私が君を追いやった理由について、察しは付いているか」
「宰相閣下の派閥に所属していたものの邪魔をしたから。という表面的な理由ではなく、ということですかしら?」
話が進んでいることに気が付き、ルシアは気を取り直そうと首を振る
幸い、エルザルートも宰相も、ルシアの方を見ていなかったようだ。
「あまりにも軍事一辺倒な軍閥貴族派を押さえるための牽制。見せしめ。その効果は思いのほか出ていたようですわね。周辺諸国との開戦を主張していた貴族の多くも、静かになったようですわ」
これでもかというほどのドヤ顔で話すエルザルートだが、無論これらすべてルシアの入れ知恵である。
今朝早くから城に向かう馬車の中までの間で、ルシアは調べてきたことを説明し続けた。
流石に時間が足らず、詳細な内容は伝えられなかったが、必要十分なことは伝えられたらしい。
表情一つ動かさないものの、ルシアは心の中でほっと溜息を吐いた。
エルザルートへのレクチャーは、上手く行ったようである。
「と、ルシアが言っていましたわ。正直わたくしはほんの少し前まで、宰相閣下の目的は自分の派閥の邪魔をしたわたくしの排除だと思っていましたけれど」
「ちょっぶごふっ!! ごほっ! えっほっ!」
あまりにダイナミックなネタバラシに、ルシアは奇怪な声を上げてむせ返った。
「あの、エルザルート様っ! わざわざそんなこと言わなくてもっ!」
小声で言うルシアに対し、エルザルートは肩をすくめる。
「宰相閣下がおっしゃったでしょう。駆け引きは時間の無駄ですわ。大体、わたくしが考えたり、状況から推察したり、筋を読んで結論を導き出すといったことが苦手だということは有名でしてよ。よく脳筋、脳筋と言われていましたわ」
どこか自慢げにいうエルザルートに、ルシアは思わず絶句する。
確かにゲームでのエルザルートは、いわゆる脳筋なキャラであった。
とりあえずぶん殴っとけばどうにかなるという、この国の貴族としては平均的な思考の持ち主だったのである。
「魔法キャラなのに脳筋ってどういうことだよ」
ゲームとして遊んでいた頃はそんな風に言って笑っていられたのだが、いざ現実に目の前にすると、そうもいっていられない。
衝撃で混乱しているルシアに、宰相が視線を向ける。
あまりの鋭さに質量でも持っているのではないかという視線に、ルシアは体をビクつかせた。
「ミンガラム男爵が領地近くで拾った少年。ルシアといったな」
「はいっ!」
椅子に座っていたルシアだったが、反射的に立ち上がり背筋を伸ばした。
表情は完全に引きつっており、冷や汗をダラダラと流している。
「ミンガラム男爵領に出現した巨大モンスター。グラトニーの討伐では、君が大いに活躍した。いや、君が居なければグラトニー討伐はなかっただろう、という報告を受けている」
「できうる限りのことをさせて頂いたつもりではありますが、そこまでのご評価、汗顔の至りです!」
「オーク族の集落の説得、吸収。作戦立案。武器、物資の調達指示。その他諸々。初めて報告を受けたときは、俄かには信じがたかったが。複数の証言や事実から、間違いないのだろうと確信した」
どうやら、宰相閣下はすでにルシアについて調べ終えていたらしい。
ルシアは冷や汗を通り越して、真っ青な顔になっている。
ついでに若干膝も震えているのだが、何とか直立の姿勢は崩していなかった。
「君のこともある程度は調べた。ごく普通の、違法奴隷商による襲撃を受け壊滅した村の出身者。両親は早くに死亡。村では忌避される白い髪であったことから村八分にされ、幼少から自活をしてきた」
いつの間にそんなことまで調べたのか、と思うルシアだったが、すぐに考え直した。
相手は一国の宰相である。
その気になればそんな程度の事、いくらでも調べられるのだろう。
「君のしたことは、とても生い立ちと釣り合うものではない。何らかの教育を受けていたとしても、相当に優秀な部類と判断せざるを得ない類のものだ。だが、そういった形跡は一切見つからなかった。これはどういうことか。何か理由があるのかね」
まさか、「それは転生者で、前世の記憶があるからです」とも言えない。
ルシアは引きつる顔を意志力で何とか落ち着かせながら。
「いえ。コレと言って心当たりはありません。自分はただ、必死に生きて来ただけですので」
宰相はじっと、ルシアの顔を見据える。
そのあまりの圧力に思わずのけぞりそうになるルシアだったが、じっと耐え忍ぶ。
どのぐらいの時間だったかわからないが、宰相はスッと目を閉じた。
おかげで視線が外れ、ルシアは安堵したように大きく息を吐く。
「命の危険にあって才能が研ぎ澄まされる、か。稀有ではあるが、前例を聞かぬではない。だが、いざ自分の間近に現れると、少なからず驚きがあるものだな」
宰相はしばらく考えるように目を閉じ、再びルシアに視線を向けた。
「君は我が国の貴族には、どんな能力が必要であると考えるかね。何を言っても、無礼だ、などとは言わん。忌憚なく答えたまえ」
ルシアは素早く「はいっ!」と返事をすると同時に、高速で対応を考え始めた。
何も答えられない、というのは最悪である。
絶対に何かしら答えなければならない。
無礼だ、などとは言わん。
ということは、逆説的に「何かしら無礼と思われるようなこと」を突っ込んで答えなければならないということだ。
当たり障りのない、耳当たりのよさそうなおべんちゃらや誤魔化しは悪手である。
では、どう答えるべきか。
今まで考えたことがない内容の質問であれば、少なからず考える時間が必要だ。
しかし、幸いにも「この国の貴族に必要な能力を答えろ」という宰相の質問は、実はルシアは既に考えたことがある問いであった。
ルシアは一応、ミンガラム男爵家の筆頭家臣である。
立場上、他の貴族家と付き合うことも出てくるだろう。
その時の基準として、あれこれ考えた中の一つがまさに「ソレ」だったのだ。
一応答えのようなものは自分の中で出たのだが、それが正解かどうかはわからない。
とはいえ、宰相をお待たせするわけにもいかないだろう。
ダメで元々、ルシアは覚悟を決めた。
「まず一つ。言わずもがなの事ですが、個人の武勇。あまりにも当然のことですが、だからこそまずこれを挙げねばならないと考えます」
この世界はゲームのように、「一騎当千」が現実に起こる世界であった。
例えばエルザルート、アールトン、ノンドのような、一個人ですさまじい戦闘能力を有する者は、少なくない。
何しろ「モンスター」という、文字通りの化け物が存在する世界でもある。
それらを退けられる存在が「特別なモノ」として扱われるようになるのは、ある種当然だろう。
また、この国は自他ともに認める「戦闘国家」である。
武力があることをもって是とする風潮が強くあった。
というかそもそものはなし。
誰あろう、王権を神授された初代国王陛下が「我が国の貴族は強くあらねばならない」と定めているのだ。
そうなればもう、否応もない。
誰が何と言おうと「そうあるべきだから、そうあるべし」なのだ。
「今一つは、優秀な人間を見極め、それを使う能力。であると考えます」
どんなことでも万能にできる人間というのは、存在しないだろう。
まあ、ゲームっぽい世界だからあるいは探せばいるかもしれないが、全貴族にそれを求めるのはあまりにも非現実的な夢物語である。
現実的に貴族、組織の頭に求められる能力というのは、つまるところ「組織を維持しつつ円滑に運営させる」というものだろう。
組織というのは人の集団であり、円滑に運営させるには「適切な人間」を「適切な地位」に付けることが必要になる。
言うは易しというヤツで、これが凄まじく難しい。
まず、「適切な人間」というのを見極めるのだけでも、驚くほどに困難を極める。
どんなに公平であろうとしたとしても、人間というのはどうしても贔屓目というのが出てしまう。
翻って、気に入らない人間は絶対に低く評価したくなるものなのだ。
そう言ったモノを完全に排し、本当に「公平に」人を見ることが出来る人間など存在しないだろうと、ルシアは思っている。
まあ、よほど優秀なのか、あるいは人間の心が無いようなタイプならば、あるいは可能かもしれないが。
大抵の会社や組織が段々と綻んでいき、崩壊していくところを見るに、なかなかままならないものなのだろう。
「ほかにもあれば美徳であろうと思われる能力は、挙げればきりがありません。ですが、この二つだけは、絶対に必須。逆に言えば、これさえ出来るのであれば、多少汚点があろうと問題にはならない。と、考えております」
宰相は目を瞑り、ルシアの言葉を反芻するように数回うなずいた。
それから、ゆっくりと大きく息を吐く。
「今まで何人かの人間に、この質問をしてきた。頭を抱えるような回答の者も多かったが、そういった連中に君の言葉を聞かせてやりたくなるな」
どうやら、合格点がもらえたらしい。
内心ほっとするルシアに、宰相は改めて向き直る。
「今しがた、君が言ったとおりだ。エルザルート・ミンガラム男爵は確かに迂闊なところがあり、思慮に欠ける部分がある。だが、それを補う人間を自分の補佐という立場に置いて使っている。先ほどの男爵の言葉は、それを表したものにすぎず、問題になぞならない」
先ほどの、エルザルートの言葉でルシアが咽せたことを言っているらしい。
ルシアは背筋を正し、何とか「恐縮ですっ」と絞り出した。
段々緊張で意識が薄れてきているルシアだったが、表面上は全く変化しないのが彼のすごい所である。
「さて、先ほどの続きだが。いかにも、君が言った通り。私は軍閥貴族派の動きを鈍らせる、いわば見せしめとして君を使った。当時君は地位があるわけでもなく、役割があるわけでもなかったが、知名度だけはあった。であるからこそ、見せしめとして使うに有用だった」
宰相は本当に、駆け引きに時間をかけるつもりが一切ないらしい。
通常なら言いにくい、あるいは別の言葉を選ぶようなことを、全くの直球で口にしていた。
「実際にことはうまく行き、君が彼の地に行ってから軍閥貴族派はずいぶん静かになった。君がミンガラム領を平定し戻ってきたことで多少うるさくなりつつあるが、今はまだ許容範囲であり、しばらくは落ち着いているだろう。問題は、私がなぜそんなことをしてまで軍閥貴族派を静かにさせようとしたか、についてだ」
エルザルートは微笑みすら湛えて、宰相の話に聞き入っている。
だが、こういう時のエルザルートは、話の半分ぐらいしか理解できていないということを、ルシアは経験からよく知っていた。
あとで自分が説明せにゃならんのかと、いささかげんなりした気持ちになるルシアだったが、これも仕事である。
「我が国の貴族の気質は、ミンガラム男爵もよく知っているだろう。無ければよそから奪えば良い、戦争するのが手っ取り早い。それを変えなければならない時期に来ている、と、私は考えている」
恐ろしいことに、実際にこの国はそれで成立して来ていた。
かなりの大国であるこの国がそれでどうにかなってきたということに、ルシアなどは少なからず衝撃を受けたものである。
何しろ、生産量を増やす努力などは初めから考慮に入っておらず、「足りなければ奪う」が大前提になっているぐらいなのだから、筋金入りだ。
どうやら宰相は、それを変えようと考えているらしい。
「常に戦をしていた今までの状態を改善し。その余力を農業や製造業の増進に当てる。戦をして奪わなければならぬほど足りぬ。そんな状況を打開できれば、頻繁に他国と戦を繰り返す現状を打開できるはずだ」
奪う必要がないならば、戦などしなくていい。
当然の理屈だろう。
「無論、他国からの侵攻などもある。全く戦をしなくてよい、などという状況にはならないだろう。だが、戦が少なくなれば、兵を育てる時間も、物資を揃える余裕も出てくる。そうなれば、今までよりよほど戦が楽になる。不必要な戦を減らし、不可欠な戦に注力することで、被害も減る」
宰相の言葉を聞きながら、ルシアはある言葉を思い浮かべていた。
「富国強兵、ですか」
「聞いたことのない言葉だが。それは?」
宰相に聞かれ、ルシアは知らぬ間に口に出していたことに気が付いた。
日本では比較的有名な言葉だったので、こちらでも似たようなものはあるのかと思っていたルシアだったが、どうやらそうではなかったらしい。
「はいっ! 経済発展により国、国民を富ませ、その地盤を以て兵。つまり軍を強化していく、という政策の事。と、以前読んだ書物に書いてあったと記憶しております!」
「富国強兵。富国強兵か。なるほど」
宰相は考えをまとめるように小声で何事か呟くと、一つ大きく頷いた。
「私が目指さんとしているのは、それであるだろう。奪うだけに頼る国など、先が見えている。国を豊かにすることでの、軍備拡張。それを成してこそ、我が国は今後も発展を続けることが出来ると、私は判断している。だが、こちらの話に耳を傾ける気すらない貴族も、少なくない。いや、それが多数派なのだ」
「軍閥貴族派、ですわね」
なるほど、というような顔で言うエルザルートに、宰相は「その通りだ」と肯定を示す。
「産業に力を入れ、経済を発展させる。私は自分の領地で様々な方策を試した。無論、成功も失敗もあった、が。食料生産量は上がり、産業も大きくなった。結果的に、軍備に費やせる金も増え、新装備の設計や製作も行うことが出来た。これ等の手法は、国中の貴族家に公開している。奪うのではなく、作ることを考えるのもよいのではないか、とな」
「話の流れから察しますに、結果は芳しくなかったのでございますわね?」
「その通りだ、ミンガラム男爵。いや、それどころではなかった。そもそも興味がないのだ」
自分の領地を豊かにすることに興味がない貴族なんぞ居るのか。
居たとしても、そんなもの少数派だろう。
少なくともこの世界に転生したての頃、ルシアはそう思っていた。
というより、つい最近まで、本心からそう思っていたの、だが。
この国の大半の貴族にとって、そんなものは「大したことがない」、さほど気にするほどでもない出来事でしかなかったのである。
今年は不作だというから、ちょっと多めに略奪してこようかな。
物資が少ないという話だったから、そのあたりを重点的に奪ってこよう。
それで、すべて事済んでしまうのである。
「ある貴族に、領地改善策を提案したことがある。帰ってきたのは、困ったような苦笑だった」
君がそういう趣味に労力を割くのは自由だよ。
だが、貴族であるなら戦で領地に食料や物資をもたらすのが本筋だろう?
「愕然とした。全くの本気で、本心からそう思っているのだ。一人だけではない。提案したほぼすべての貴族が、そういった反応を示したのだ」
ルシアからしても頭を抱えたくなるような話である。
だが、この国はソレで済んできたのだ。
あまりにも馬鹿げた、暴力的な解決方法で、全て解決してきた。
「確かにこれまではそれで済んできた。しかし。国の地力を上げない限り、必ず限界が来る。それが十年後か、五年後か。来年なのか。そう遠くない未来のはなしであることは、間違いないだろう。ゆえに。そうなる前に、一人でも多くの貴族に興味を持たせなければならない。領地を運営し、富ませるという、我が国の貴族常識とはかけ離れた行為に」
そこまで言うと、公爵は一度ルシアに視線を向け、それからエルザルートへと戻した。
「ミンガラム男爵。君の領地で何が行われているか、情報を集めた。通常の我が国の貴族であれば、まずは要塞を作り、武器をできうる限り手に入れようとするだろう。だが、君の領地ではそうではない」
「そうですわね。材木やモンスター素材などを商人に売るための設備を整えていますわ。それと、住民用の食糧庫ですわね。兵士のためのものではなく」
「モンスター素材の加工も行っているそうだな」
「武器や防具もそうですけれど、装飾品や調度品も作っていますわ。タイニーワーウルフしか持っていない技術で作られた品が、高値で売れているそうですわね。そうでしたわね、ルシア」
「はいっ! 今まで入手困難だったモンスター由来の素材を使った品々に、領地の森でしか手に入らない薬草など! 商人達からの評判は上々です!」
尋ねられると、反射的にすらすらとこういった返答が出てくる。
まるでつっかえることもなく滑らかに動く口に、ルシアは我が身ながら若干呆れてしまった。
「君の領地は食料生産力が低い。それを補うために、製造方面に力を入れている。そうだったな」
「その通りですわ。食べ物がなければ生きていけませんもの。モノを売って食べ物を買う。はじめは大変でしたけれど、今はずいぶん安定してきていると、ルシアから報告を受けていますわ」
「まず領民の生活の安定を図る。我が国の貴族としては、異例の行動だ」
「まず軍備。その他雑多の事は後からついてくる。それが一般的な認識ですわね」
ルシアの感覚からすれば、そんな馬鹿な、と思うのだが。
どうにも本当に、それがこの国に置ける「普通」のようなのである。
「ミンガラム男爵家のその行動は、筆頭家臣の影響。そうだな?」
「ええ。わたくしの責任の下、領地の舵取りを任せていますわ」
「君自身は、まず軍備を整えようとした。そう報告を受けている」
「ですが、そんなモノよりまず食糧だ、とルシアに叱られてしまいましたわ」
ルシアは再び冷や汗がにじみ出てくるのを感じていた。
確かに、そんなことを言った覚えがある。
武器やらなんやら用意するのも大事ですが、人は飯を食わなきゃ死ぬんですよ、とかなんとか。
ルシアが行った領地安定の手順がこの国では稀有なものだと知ったのは、ずいぶん後になってからの事であった。
「ミンガラム男爵領で行われた。いや、行われているという統治体制は、私が推し進めようとしているモノに非常に近い。私の目から拙く見える部分もあったが、逆に勉強させられた部分もあった。皮肉と言えば皮肉だな。軍閥貴族派を抑え込む見せしめにした君が、私が最も欲していることを行って見せたのだ」
この後の展開を予測して、ルシアはゴクリと喉を鳴らした。
話の流れは、やはりルシアの予想通りになりつつある。
「貴族に必要なのは、圧倒的な武力。そして、部下を選ぶ目と、それを使う器量であると、私も考える。そして、エルザルート・ミンガラム男爵。君はそれを十全に持ち合わせていることを、行動を以て示した。実に素晴らしいことだ」
褒めてくれているはずなのに、全然入ってこない。
ルシアはむしろ、刃物でも近づけられているような恐怖感を覚えていた。
褒められて心底恐ろしいと思ったのは、これが初めてである。
「だからこそ、エルザルート・ミンガラム男爵。王国宰相として、君に。ミンガラム男爵家に、協力を仰ぎたい。今後、国内貴族の意識を改革していくために、君の領地を見本の一つとしたい。無論、見本たり得ると内外に示すため、いくつか面倒ごとを頼むこともあるだろう。それに見合う報酬、優遇は、用意するつもりでいる」
全く落ち着いた宰相の言葉に、エルザルートは何事か考えるように、微笑みながら目をつぶった。
既にエルザルート自身が納得しているとはいえ。
宰相はエルザルートを亜人の領域へ追いやった、張本人である。
それを恨みに思い、この申し入れを受け入れないのでは。
以前のルシアであれば、そう考えたかもしれない。
しかし。
「宰相閣下。ガウリウス・エルドルド侯爵様。もちろん、喜んでお引き受けいたしますわ。貴方は国王陛下から宰相として任命され、その権限を以てわたくしへ協力を要請なさったのですもの。それは国王陛下がこのわたくしに命を下されたのと同じこと。それを受け入れられぬのであれば、このエルザルート・ミンガラム。貴族としての地位をお返しして、そっ首献上いたしますわ」
どこの蛮族の価値観だ、と言いたくなるが、エルザルートは全くの本心本音でそう思っている。
国王陛下は絶対であり、その国王陛下から国の運営を任されている宰相が、その立場から要請したことであるならば。
喜んでそれを受け入れなければならない。
そこにあるのは、ただ「国王陛下から役目を賜った」という喜びだけなのである。
ルシアが調べる限り、正直なところここまで国王に入れ込んでいる貴族というのは、稀である。
ただ、その稀の範囲は、どうやら高位の貴族に固まっているらしい。
宰相は、静かにうなずいた。
「献身、高く評価する」
「一つ、種明かしを。ご存知の通り、わたくしは基本的に迂闊で思慮が欠けている部分があります。そのわたくしが今回のことに動揺しなかったのは、我が家の筆頭家臣が宰相閣下の要請を、事前に予期していたからですわ」
「そのようだな」
自分で言うのもどうなのかと思うが、どうもエルザルートが迂闊で思慮に欠ける、というのは共通認識らしい。
とはいえ、ルシアが表立ってそれを口にするわけにはいかないだろう。
宮仕えって大変なんだな、と、ルシアは現実逃避気味に思った。
「国内、特に王都には多く、私の密偵が放ってある。そこから、ミンガラム男爵家の筆頭家臣に動きがあると報告が上がってきた。私のことについて調べているようだ、とな」
昨日のことである。
ルシアはどうせ自分の動きは察知されるだろうと思っていたのだが、まさか動いている間に宰相に報告が上がっているとまでは思っていなかった。
思っていたよりも、宰相の耳目は広く、早いようだ。
その事実を突きつけられ、ルシアはもうおうちに帰りたくなっていた。
愛しのミンガラム男爵領へ帰り、のんびりと野草とかを摘みつつ、装飾品の加工などを習って暮らすのだ。
まあ、そんなことをしたことは一度もないので、完全な現実逃避なのだが。
「木っ端貴族では入るのも躊躇うような大商家に当然といった顔で訪れ、下にも置かぬもてなしを受けていた。聞いて回っていたのは、宰相。つまり私のことについてだという。聞いていた内容も、ある程度は探ることができた。ルシア。君はやはり面白い人物だな」
「汗顔の至りです!」
実際、だらだらと汗を流しながら、ルシアは直立不動で声を上げた。
多少裏返っているのは、緊張ゆえである。
「そういった報告を受けていたから、君。ルシアが私の意図を察するであろうことは予測することができた。しかし、その内容をミンガラム男爵に的確に伝えることができるというのは、いささか意外だった」
「わたくしに的確に伝えられたこと、ですの?」
「ミンガラム男爵。私も宰相という立場に立って初めて知ったのだが、自分の考えを相手に伝えるというのは、実に難しいことなのだ。特に、複雑で多分に推測などを含んでいる場合は、特に。私はそれを、領地改革の推進時に嫌というほど味わってきた」
不思議そうな顔をするエルザルートを見て、宰相はわずかに考えるように視線を上に動かした。
「君は他人と魔法の扱いについて話すとき、なぜこんなこともわからないのだろう。と思ったことはないか」
「確かに。ございますわね」
「それと似通ったものだ。君の筆頭家臣はいくつもの情報の蓄積を、高い能力を以て精査したうえで推察を導き出した。膨大な知識の裏付けがあったうえでのことだ。それをすばやく説明しようとすれば相手にも同じだけの知識と能力が必要になる」
「なるほど。魔法について詳しい人間と、そうでない人間。会話をするとき、知識と技術の差からくる認識の違いや、理解のできる出来ないといったものを感じたことは、確かにありましたわね」
「ミンガラム男爵は、私の思惑について全く理解していなかった。当然、協力要請など埒外だっただろう。にもかかわらず、ルシアはわずかの間にそれを君に分かるように説明し、理解させてのけた。これは実に稀有な能力なのだ」
「確かに。なるほど、確かに、言われてみれば。その通りですわ」
初めて重大な事実に思い至ったというように、エルザルートは目を見張っている。
ただ、ルシアに言わせれば、日本でブラック企業に勤めている若者ならば、大なり小なりその手の能力は持っているモノなのだ。
なにしろ、こっちの説明を理解するつもりのなさそうな顧客、仕事を覚える気がなさそうな後輩、とりあえず説教して悦に入りたいだけっぽい先輩、そろそろ手柄になりそうだから口先だけ突っ込みたい上司。
そういった人々を相手にする機会にだけは、片時も事欠かないものなのである。
こちらの話を真剣に聞こうとしてくれるだけ、エルザルートへの説明などむしろ簡単な部類と言えた。
「君の筆頭家臣は優秀なようだ」
「ええ、本当に。拾い物でしたわ」
「一つ、言っておく。君が貴族として必要十分な能力を有しているというのは、間違いないと私は判断した。だが、君が貴族として優秀かと言えば、話は別だ」
「合格ではあるが、優良はいただけないわけですわね」
「君個人への評価は、そうなる。だが、ミンガラム男爵家への評価は、優良としておこう。ただ。切れすぎる剣は時に使い手を殺す。ルシア筆頭家臣の扱いには注意するように」
「肝に銘じておきますわ」
エルザルートと宰相のそんな会話を、ルシアは表面上は特に変わらず。
内心でもだえ苦しみながら聞いているのであった。
「それで、エルザルート様。ルシア殿はなんであんなに、その、喜んでおられるのですか」
王都の屋敷に戻ってきたルシアは、喜色満面といった様子で手にした書類に目を通していた。
エルミリアに胡乱気な目をむけられているのだが、全く気にしていない。
「宰相閣下から、色々と優遇措置を戴いた。らしいですわ。正直わたくしにはよくわからない分野なので、ルシアに丸投げしたら、あんな感じになったのですわ」
「何かよほど良いことでも書いてあったのでしょうか」
良いどころの騒ぎではない。
日本でサラリーマンなどをやっているとあまり気にするものも少ないのだが、この世のありとあらゆるものには税金が掛けられている。
物を送るのにも税金が掛かる場合があるし、土地を持っているだけでも、温泉に入るだけでも税金が掛かる。
それはこの国でも同じで、様々なものに税金が掛けられていた。
ミンガラム男爵領は領地が平定されたばかりであり、ある程度の免税措置がされていたのだが。
それでもすべてが免除されているわけではなかった。
例えば、領地の外にある街道を使うための税、他貴族家の領地に入るための税、街に入るための税、村に入るための税、水飲み場を使うための権利を得るための税に、実際に使ったとき払う税。
宰相がくれた優遇というのは、そう言ったモノのかなりの部分を免除する、というものだったのだ。
「あっはっはっはっは! 見てくださいよこれぇ! 街道通行税に運河利用税! ミンガラム男爵領から王都への主要都市の入場税の免除まで! あれもこれも、それもこれも! 痒い所に手が届く! えっ! こんなのまで免除して頂いていいんですかぁ!? もう、宰相閣下万歳! 宰相閣下万歳!!」
「大丈夫なんですか、あれ」
「わたくしに聞かないで欲しいですわ」
ミンガラム男爵領から王都への移動で思い知ったのだが、この国では長く移動するだけで相当な金が必要であった。
特に高かったのが、「他の領地への入場税」である。
この国の貴族にとって、土地というのは持ち物であり、貴重な財産だ。
そこに足を踏み入れるのならば金を払え、というのはまぁ、当然の権利だろう。
だからこそ他者には、それにケチをつけることなどできない。
それこそ、国王に信任された宰相閣下でもない限りは。
「流石宰相閣下ですよ! 僕が出したくない、惜しいなぁ、と思った税をかなりの数、免除してくださっています! もちろん期限はありますが、それでも領地の財布には大助かりです!」
現在、ミンガラム男爵家はカッツカツの状態である。
収入源はいろいろあるのだが、何しろ出ていく金も多かった。
今は領地発展のために、僅かでも金が惜しい。
「はぁああああ! これで浮いた金額で、アレもそれもできるぅ! 宰相閣下大好き! 愛しています! ラブ! L! O! V! E!」
「ダメそうですわね」
「働きづめでしたから」
この世の春とでも言いたげなルシアだったが、その動きがピタリと止まった。
手にした書類の一枚を、怪訝そうに睨みつける。
「んん? ああ、教会誘致の書類ですね」
この国は王権を神授された関係上、非常に国教を大切にしていた。
そのため、領地には必ず教会を誘致する必要がある。
これは国王への忠心を示すことにもなるため、領地を平定する際にはかなり重要度の高い案件であった。
「えーと、確か宰相閣下の紹介で、それなりに大規模な教会を建てて頂けるって話でしたよね」
なんと、ワープゲートまで抱えるような、本来なら大きな街にしかないような教会が来てくれる、ということだった。
だが、どうもルシアの認識とは、異なることが書いてあるのだ。
「なんか、この書類の書き方ですと、教会の建築費はミンガラム男爵家持ちのような感じになってるんですが。こういうのって教会側がお金を出すものなんですよね?」
「いいえ? 教会を誘致する貴族家が費用を出すものですわよ?」
「あくまで貴族家側が請うて来ていただく。という形ですから。建築費等は寄付の一部ということになります」
この国の教会建築には、一定の仕様があった。
使用する建材や規模などが、ある程度決まっているのだ。
ミンガラム男爵領内で賄えるものならばいいが、外から輸入しなければならないものもある。
となると、当然相当な金がかかった。
それだけではない。
「あの、大工さんとかのお給金は」
「当然、ミンガラム男爵家持ちですわね」
当然のように返された言葉に、ルシアは頭痛を覚えた。
そして、すぐに問題はそれだけではないと気付く。
ほかの建物ならばともかく、教会となると外部から大工を呼ばなければならない。
これについては、すぐに思い当たった。
だが、その大工が寝泊まりする場所、飲み食いするモノ、必要であろう息抜きのための娯楽。
そう言ったモノは、誰が用意するのか。
普通の町であれば宿屋に食堂、歓楽街などがあるだろう。
だが、ミンガラム男爵領にそんなものはなかった。
宿泊施設があるにはあるが、出入り商人相手で手一杯である。
となると、当然それらを金をかけて用意しなければならない。
何しろ、寝る場所も食事も娯楽も用意しなければ、まともな人間はミンガラム男爵領に行こうなどとは思わないだろう。
教会を。
それもワープゲートまで抱えるような「大教会」を誘致するには、一体何がどれだけ必要なのか。
一瞬、ルシアの目の前が真っ白になった。
「ちょっ、ルシア!? あなた大丈夫ですの!? ルシア!?」
「はっ!? 大丈夫です。ちょっと気絶しかけただけですので」
「そうですの? これから忙しいのですから、気をしっかり持たなければなりませんわよ」
エルザルートはシレっとした顔で、さも他人事のように言う。
まあ、実際他人事と言えば他人事なのだ。
非常に、凄まじく残念なことに、エルザルートにはそっち方面の実務能力が皆無である。
それ以前に、学園に通わなければならない。
何しろ貴族にとって、学園へ通うことは「権利」ではなく「義務」なのだ。
つまり、完全に戦力外ということである。
「ひどい。あんまりだ。こんなことなら、普通に学園に通って授業でも受けてる方がましじゃないですか」
「笑ったり驚いたり気絶したり泣き出したり。忙しいですわね」
あまりの世の理不尽に、ルシアはさめざめと泣くことしかできないのであった。