二章 二話「王都でもまれにみるデブでハゲでしたわね」
ガウリウス・エルドルド侯爵。
この国の宰相を務める人物である。
元々は一領主に過ぎなかった彼が国の重鎮に収まったのは、数十年前のとある出来事がきっかけであった。
当時、国は危機的状況にあった。
四方八方の周辺諸国から同時に攻め込まれ、戦線を維持する戦力にすら事欠くような状況になっていたのである。
それ以前から軍国家として多くの敵を作ってきたのが、災いした形だった。
だからといって、ただ潰されるのを待っているわけにはいかない。
状況を打開しようと、多くの貴族家が奮戦。
ついには、国王が直々に軍を率いて最前線に出なければならないような状況に陥ったのである。
国王が直接戦場に立てば、士気は向上。
前線を押し上げるどころか、場合によってはそのまま敵を押しつぶすことも可能。
そんな思惑があっての、国王の出陣であった。
これが他国であれば、かなり甘い見積もりであると言わざるを得ないだろう。
だが、ことこの国の王族に関して言えば、そうではない。
何しろ、直接神によって王権を授けられた一族である。
掛け値なしに、単騎で大群を押し返すような、尋常ならざる奇跡的な戦力を、国王は有していたのだ。
もちろん、「強力な力を持っている」のであって、「無敵」というわけではない。
戦いの中で命を落とす恐れもある。
参戦当初はその圧倒的な武力から大いに前線を押し上げた国王だったが、それが災いした。
敵陣の深くで、孤立してしまったのだ。
いくら力があろうとも、矢尽き、剣折れ、食料もなくなってしまえば、戦い続けることはできない。
もはやこれまでか、といったその時、援軍が現れた。
僅かな手勢に補給物資を持たせ、自ら剣を振るい敵軍を切り裂き、国王を救出。
その人物こそ、ガウリウス・エルドルド侯爵だったのである。
「当時から宰相閣下は、周辺諸国との戦争に消極的でしたわ。それよりもまず、国内のことを優先すべきだ。そうお考えだったわけですわね」
この国では、ものが足りなければ奪えばいい、という考え方が蔓延している。
食料にしてもそうで、生産量を増やす努力をする、というのはごく少数派。
ほとんどの貴族が、足りなければ他国から奪えばいいと考えていた。
実際、他国領地に侵攻し食料物資を奪うことを「狩猟」などと称し、定例のように毎年行っている貴族は少なくない。
「当時の国王陛下も、同じような考え方だったのですわ。足りなければ奪えばいい。食料も武器も、何もかも敵陣で調達すれば問題ない。そう思っていたわけですわね」
「それは、なんというか。どこかしらで破綻しそうだなぁ、などと素人ながらに愚考するのですが」
「まあ、冷静に考えたらそうなりますわよね。ですが、国王陛下があまりにも強すぎたがために、それまではそれで成り立っていたのですわ」
相手国は、そのことをよく知っていた。
そして、対策をして戦に臨んでいたのである。
結果、策は功を奏し、国王の首まであとわずか、というところまで迫られたのであった。
「以前から警告をお出しになっていただけあって、宰相閣下は国王陛下の出陣に際し、物資補給路の確保を強く進言されたそうですわ。でも、聞き入れられなかったわけですわね」
今までうまく行っていたものを、無理に変える必要がどこにあるのか。
国王も含め、誰もがそう考えていたのだ。
結果、国王が前線に出なければならないような状況になり、命まで脅かされた。
そして、今の宰相がそれを救い出したのである。
「宰相閣下は、手勢で王都と前線との補給路を確保。救出された国王陛下は補給と治療を受け、前線に復帰。すぐさま敵国軍を押しに押しまくったのですわ」
一度回復してしまえば、やはり国王の力は圧倒的だった。
敵国の首都は数日で陥落。
国王はそのまま別の戦場へと動こうとした、のだが。
「攻撃を仕掛けて来ていた周辺諸国は、一斉に停戦。あるいは白旗を上げたのですわ。国王陛下の力を思い出した訳ですわね」
周辺諸国を敵に回しての戦争は、結果的に国の大勝という形で終結した。
とはいえ、手放しで喜ぶことが出来るようなものではない。
「国王陛下はエルドルド侯爵閣下の進言を聞き入れてこなかったことを、大きく後悔なさったのですわ。そして、宰相という地位を与え、その手腕を存分に振るうようにとお命じになったのですわ」
地位と発言力を手に入れたエルドルド侯爵、現在の宰相は、一気に改革を進めた。
それまで各貴族家に委ねられていた軍権を一部統合し、国軍を大幅に強化。
構造を大きく刷新し、強力な軍事態勢を確立。
ファルニア学園も、この過程で設立されたものである。
そして、農業などの一次産業にも力を入れ、国の生産能力を大きく向上させた。
「農業に力を入れたことで、大半の領地が食料に困ることが無くなったのですわ。おかげで、他国へ狩りに行かなくて済むようになり。より内政に力を入れることが出来るようになったわけですわ」
「つまり。控えめに言って救国の英雄。ってことですかね」
「そういうことになりますわね」
ルシアは青い顔で、頭を抱えた。
エルザルートとルシアがいるのは、学園のカフェテリアである。
そこで、今回呼び出してきた相手。
宰相閣下というのがどういう人物なのか、説明を受けていたのだ。
既に授業は始まっているのだが、宰相閣下の呼び出し。
それも、敵対派閥。
エルザルートをド辺境、亜人の領域に送った張本人となれば、それどころではない。
「相当な大物じゃないですか、宰相閣下って!」
「そうですわね」
「なんで呼び出されっ、っていうか、敵対派閥!? なんでそんな人と敵対っ!? いや、派閥ってことは派閥として宰相閣下と敵対してる人達がいるってことですかっ!? なんで!?」
「落ち着きなさい。そんないっぺんに答えられませんわ」
エルザルートは優雅なしぐさ、とは程遠い鷲摑みスタイルでお茶の入ったカップを手にすると、豪快に中身を飲み干した。
すぐに自分の行儀の悪さに気が付き、顔をしかめる。
「いけませんわね。気を付けるようにしているのに、貴方といると領地で魔獣相手にやり合っているときの感覚になってしまいますわ。ええっと、まずは派閥についてですかしらね」
現在この国の貴族は、大きく分けて二つの派閥に分かれている。
一方は、旧来の国柄に沿った「ものがなければ隣から奪って来ればいい」という、貴族というより蛮族寄りな、かなり攻撃的なもの。
もう一方は、宰相のように「このままじゃ立ち行かないから、内政を頑張るべきだよね」という、ルシア的には至極真っ当な意見のように思えるもの。
それぞれ、「軍閥貴族派」「文官貴族派」というような呼び分けをされてはいる、のだが。
「ぶっちゃけたところ、軍閥と文官というより、脳筋勢とそれなりに書類仕事ができる勢、といった感じですわね。貴族というのはそれぞれの領地を自分達で運営していますわ。そして、それを国王陛下が取りまとめている」
とはいえ、王一人ですべての仕事ができるわけではない。
実務的なところは、宰相や大臣、多くの文官達が行っている。
今まで国はかなりおおざっぱな仕事しかしてこなかった。
というより、様々なことを貴族に丸投げしてきたのである。
「宰相閣下はそれを改め、領地経営に関しても国側から口を出すようにしたわけですわね。例えば農業技術に関して。あるいは道などの普請について。罪人の処罰方法、あるいは何が罪であるかの判断について。かなり的確で、他国では当たり前になっているようなことばかりですわ」
元々、この国に所属していた貴族というのは、かなり放漫な領地経営をしていたらしい。
なにしろ足りないものがあったら「隣の国から奪って来ればいい」というのが先に立つようなものばかり。
自分の領地を改善する、という発想がなかったというのだから、さもありなんといったところだろう。
そんな貴族達に領地経営を丸投げしていたわけだから、お世辞にも統治がうまく行っているとは言い難かった。
これまで何とかなって来ていたのは、ひとえに王権神授による威光と、それぞれの貴族家が持つ圧倒的武力によるものだ。
「先の戦争での出来事で国王陛下は、それではこの先立ち行かない、と判断なさったのですわ。ゆえに、宰相を始めいわゆる文官に多くの権限を与えたわけですわね。実際それは有用で、我が国の国力はそれはもうもっさりと増強されたわけですわね」
「もっさりと、ですか」
「ええ。他国に侵略しなくても食うに困らないぐらいですわ」
「それは、なんというか。すごいですね」
「その通りですわね。その宰相閣下の言葉や行動に賛同し、それに追随しているのが、文官貴族派というわけですわね」
実際に国務に携わる者の多くが、この派閥なのだという。
「とはいえ、いくら功績を上げようと、新しいやり方がどうしても気に食わない。という層は一定数いるものなのですわ。人というのはつくづく感情の生き物ですわね」
確かに、宰相は国王を救出するという武功を上げ。
国力を大きく増強するような政策をいくつも成功させ。
多くの貴族にとって有益な事業を行っていた。
その偉業はもはや疑う余地もなく、文句の付け所もない。
だからといって、感情面で納得ができるかといえば、別問題だ。
「確かに宰相閣下の言う事は正しいが、それを安易に認めればこれまで自分達がしてきたことを否定することになる、と考えるモノ。あるいは、国力増強もいいが、戦でどうにかなることなら戦でどうにかすればいいと本気で思っているモノ。それが、軍閥貴族派なのですわ」
それは軍閥うんぬんではなく、ただの蛮族なのでは。
思わずそうこぼしそうになったルシアだったが、ぐっとその言葉を飲みこんだ。
「今思うとかなり蛮族的な考え方ですわよね」
自分が我慢した言葉をサラリとエルザルートに言われ、ルシアは何とも苦い表情になった。
「実際、今までそれで何とかなってきましたし、貴族家の内外で戦による略奪で物事が成り立つようにしてきた仕組みがある、というのは間違いありませんわ」
「そうでなかったら、とっくの昔に国が滅んでいるわけですか。となると、利権、既得権益の問題も出て来たでしょうね」
「ずいぶん損をする連中はいたはずですわよ。戦に必要な物資の職人、商人。略奪品の買い付けをしてきた者達も居ますわね。そういった連中がごっそり実入りを落とすことになりましたわ」
これまでが異常だったのだろうが、だからといって得られていた利益を失った者達にとっては、面白くないだろう。
そう言った者達の後押しもあり、軍閥貴族派はかなり力を持った派閥なのだという。
「というより、大半は軍閥貴族派ですわね。文官貴族派は少数派ですわ」
「良いんですかそれ。蛮族が多数派って、せっかく宰相閣下が国内を安定させようとしていらっしゃるのに」
「はっきり言いましたわね貴方。まあ、それはおいといて。あまり問題はなかったですわね。何しろ国の実権は宰相閣下が押さえていますもの。中央官庁は殆ど文官貴族派でしてよ」
「なるほど。いくら軍閥貴族派の数が多くとも、実権を握っているのは宰相閣下の派閥。ということですか」
「ですわね。そもそも、軍閥貴族派は宰相閣下のお言葉を無視できませんわ。多大なる武功を上げていますもの。それを無視すれば、戦働きの功を否定するようなもの。自分達の存在否定になりますわ」
それなら最初から逆らうなよ、とルシアとしては思わなくもない。
まあ、まさにエルザルートが言った通り、人というのは感情の生き物、ということだろう。
頭ではわかっていても、ムカつくから反発するわけだ。
「で、エルザルート様はその宰相閣下の派閥に喧嘩を売って、亜人の領地を平定することに?」
「まるで人をチンピラか何かのように。まあ、事実だから何とも言えませんわね」
ここで、ルシアの頭にある疑問が浮かんだ。
前に聞いた話と、今聞いた話。
少々、どころではない違いがあるように思われたのだ。
「あの、前に聞いたお話では、エルザルート様を領地に飛ばした原因を作ったのは、自分の利益しか考えていない連中。という話だったはずでは?」
確かに、そんな話をしていた。
何しろ記憶力に関してなら、ルシアは自信がある。
おそらく転生特典のようなモノのおかげで、ものを覚えることに関してだけは、凄まじい補正がかかっているのだ。
「言いましたわね」
「文官貴族派というのは、宰相閣下の派閥のはずですよね?」
「ああ。ルシアの気持ちもわかりますわ。宰相閣下の派閥なら、そんな輩はいないのではないか、と言いたいのでしょう? ですが、実際はそう上手くもいかないものですわ」
「と、言いますと?」
「上が優秀だからと言って、下も皆優秀とは限らない。ということですわね。文官貴族派の八割がたは自分の利益優先のクズどもですわ。下の大多数の無能を、上のごく少数がまとめ上げている。そういう形なわけですわね」
「宰相閣下の下になら、優秀な方々が集まりそうだと思うのですが」
「貴方のような野生の優秀な人材というのは希少生物なのですわよ。優秀な人間というのは大体、相応の教育を受けて育つものですわ。そして、この国でそういった教育を受けるモノは大抵貴族。それもきちんとした教育を施せる程に裕福な貴族家というのは、大抵が軍閥貴族派ですわ」
上質な教育を子供に受けさせられるのは、大抵が軍閥貴族派の貴族。
教育を受けた子供達がそのまま軍閥貴族派になっていくのは、想像に難くない。
「かくいうわたくしもその口ですわよ。宰相閣下の功績と、政策は確かに国力増強に繋がりましたし、正しい部分もあると思っていますわ。ですが、ぶん殴ってすむならその方が早いし、我が国の貴族たるべき姿である、と確信もしていますわね」
「でしょうね」
エルザルートの普段の行動を見ていれば、言葉に偽りがないということはよく理解できた。
すべて暴力で解決するというのは、問題があるようにもルシアには思える。
だが、ルシアがその恩恵を受けているのは間違いない。
そもそもそれがなければ今頃、労働奴隷としてどこぞに売り飛ばされていたのだ。
「それに、文官貴族はかなりの数が腐っていますのよ。仕事は優秀なものが多いのは認めるのですけれど、その上でろくでもないことをしているのですわ」
「ろくでもない事? ですか」
「例えば、わたくしが今の領地を戴くきっかけになったと思しき件ですわね。あくどい商売で儲けようとしていた商人と貴族を、わたくしがまとめて吹き飛ばしたのですわ」
「あくどい商売って、なにしようとしてたんです?」
「奴隷売買ですわ。あら、そういえば地味に貴方と縁がある商売ですわね」
嫌な予感がする。
ルシアは基本的に自分の勘を信じないたちなのだが、これに関してはある種の確信があった。
「ちなみに、その貴族様ってすごく恰幅がよく、頭髪が寂しい感じだったりなさいますか?」
「王都でもまれにみるデブでハゲでしたわね」
ルシアは思わず額を押さえる。
ゲームの中のルシアは、とある貴族に愛玩奴隷として囲われていた。
絵でこそ出てこないその貴族だが、特徴はしっかりと語られていたのである。
ゲームの本文曰く「デブでハゲ」。
奴隷売買をしている貴族でデブでハゲというのは、まあ、一人だけというわけではないだろう。
だが、こういう時は案外「当たる」ものなのだ。
「なんで知っていますの?」
「いえ、なんか噂を聞いたことがあったようななかったような気がしまして」
まあ、事ここに至っては、自分を所有するはずだった貴族のことなど、どうでも良くはある。
時系列的にも、本来なら十年ぐらい前に買われていないといけないはずなのだ。
ただ、悔しさはあった。
「その貴族に買われていたら、あんな辛く苦しい生活をせずに、たまにデブハゲ貴族に変な目で見られるだけで蝶よ花よという生活が送れたというのにっ!」
口には出さず、ルシアは心の中で叫んだ。
保護者も居ない、住むところもない、食べるものも自力で調達しなければならない、という生活は控えめに言って地獄であった。
もしルシアに前世の社畜経験がなければ、早々に怪我や病気、栄養失調、心を病んだりして人生をドロップアウトしていただろう。
こうして生きているのは、ひとえにルシア自身の生き汚さの賜物である。
もちろんある程度手を貸してくれた村人も居たには居たのだが、そんな手助けだけで生きていけるほど、ド辺境村八分生活は甘くない。
「ああ、すみません、脱線しました。それがきっかけでエルザルート様は宰相閣下に目を付けられ、ご領地を頂くことになった。ということですか」
「そうなりますわね」
納得したようにうなずくルシアであったが、「それだけではないだろうな」と考えていた。
おそらく、エルザルートにはわからない。
あるいは考えてもいないような事情があったのだ。
こういっては何だが、そもそもエルザルートは周りの情報などを気にしなさすぎる。
恐ろしく興味の方向性が偏っているうえに、性格がおおざっぱすぎるのだ。
自分の政治的立場、などという小難しいことを、正確に把握しているとは思えなかった。
それが証拠に。
「それで。宰相閣下がエルザルート様を呼び出した理由に、何か心当たりなどは?」
「全くありませんわね。まあ、どうせ明日会うわけですもの。その時直接聞けばいいのですわ」
エルザルートのあっけらかんとした言葉に、ルシアは頭痛を覚えて眉間に指を当てた。
よくわかんないなら、直接聞けばいい。
実にわかりやすい解決方法ではある。
が、ルシアとしては事前に少しでも宰相閣下の思惑を探っておいて、対策をしたいところであった。
エルザルートの安全のため、領地の安全のため。
それを守ることこそが、今のルシアにとっては身の安全を図る最高の手段なのだ。
「エルザルート様、意見具申をさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「認めますわ」
「宰相閣下がエルザルート様をお呼び出しになった場所は、宰相閣下が王城内に所有なさっている部屋とのこと。いわば敵陣であるわけで、そこへ何の情報も持たずエルザルート様を送り出すわけにはまいりません。せめて少々なりと、情報収集をするご許可を戴ければ」
「それもそうですわねぇ。何かわかるなら、それに越したことはありませんわね。ということは、今日は貴方、授業に出ませんの?」
「宰相閣下のお呼び出しは、明日とのことでしたよね。そうなりますと、流石に時間が無かろうモノかと」
そう、宰相閣下からの呼び出しは、明日なのだ。
なんでエルザルートはそんな大事なことをもっと早く自分に伝えてくれなかったのか、と思ったルシアだったが。
そもそも宰相閣下から知らせがあったのが、今日だったのだとか。
なんでもっとのんびりと「一週間後に」など予定を組まないのだろう。
武力に偏った国ならではなのか、どうもこの国の貴族はせっかちが多いらしい。
兵は拙速を貴ぶ、とは言うが、限度があるのではなかろうかと、ルシアは思っている。
「良いですわ。今からどの程度のことが出来るとも思いませんが。ルシア、宰相閣下との謁見前に、できうる限りの情報を集めなさい。エルザルート・ミンガラムからの命令ですわ」
「はっ。さっそく取り掛かります」
ルシアは席を立つと、さっそく仕事にとりかかろうと歩き出した。
そこで。
「ルシア殿。一つ」
エルミリアが声をかけてきた。
それまでずっとエルザルートの後ろに黙って立っていたのだが、ここで初めて口を開いたのだ。
「はい。なんでしょう?」
「誤解があるようなので修正しておきますが。ルシア殿も宰相閣下の所に行くのですよ」
一瞬、ルシアは何を言われたのかわからなかった。
宰相閣下に呼び出されたのは、エルザルートのはずである。
それがなぜ、ルシアまで行くことになるのか。
「困惑した表情をされていますが。当然でしょう。貴方はミンガラム男爵家の筆頭家臣。それに、事務関連のお話があるかもしれないのですよ。エルザルート様だけでどうにかなるとお思いですか」
エルザルートが眉間にしわを寄せて、エルミリアに視線を向ける。
「書類や数字に弱いのは貴女もではありませんの」
エルザルートもエルミリアも、どちらも書類と数字に弱かった。
とはいっても、そこまで不得意、というわけではない。
ある程度の読み書き計算はこなせるわけで、普通に生活をしたり多少の仕事をこなす程度では、まるで問題がなかった。
ただ、領地運営という大仕事の前に、「多少の仕事をこなす程度」の能力というのは、あまり意味をなさないのだ。
ちなみに、ルシアは書類仕事や事務仕事が大得意である。
おそらくは転生特典と思しき「記憶力」をフルに使い、ありとあらゆる書式やらなにやらを記憶し。
元から持ち合わせている「地味な仕事をこなし続ける」能力を合わせ、今ではルシアが居ないと「ミンガラム男爵領」は回らない状態になっていた。
ルシアとしては早く文官を雇い入れて、仕事を引きついでしまいたいのだが。
文官というのは、要するに領地内部の数字やら書類やらを見聞きする立場である。
身元のしっかりした、信用が出来る人間でなければとてもやらせることなどできない仕事なのだ。
それでいて、当然読み書き計算に長けていて、領地内のことに詳しく、周辺領地の役人、出入り商人などと問題なく付き合うことが出来なければならない。
まあ、そんな人材がそんなに簡単に見つかるわけもなく。
ミンガラム男爵領は絶望的な文官不足に悩まされている真っ最中であった。
それはともかく。
「え? ってことは、僕もエルザルート様と一緒に、宰相閣下にお会いするということですか?」
「そうなります」
ルシアは形容しがたい顔で体をねじると、次々に表情を変え始めた。
何とも感情がわかりにくい所だが、とりあえず嬉しそうでない事だけはわかる。
「面白い顔芸ですわね」
「ルシア殿は多芸なようです」
しばらく悶えていたルシアだったが、すっと表情を引き締めた。
エルザルートとエルミリアに向き直ると、優雅に一礼する。
「では、改めて。行ってまいります」
言うが早いか、ルシアはすさまじい勢いで振り返り、走り始めた。
その速さは、エルザルートも思わず目を丸くするほどだ。
「あんなに速く走れましたのねぇ」
「だんだんルシア殿の扱い方がわかってきました」
呆れたようなエルザルートの横で、エルミリアは一人納得したようにうなずいていた。
最初は嫌だったが、一度やってみると吹っ切れてしまい、二回目以降はそれほど嫌ではなくなる。
世の中にはそういったことが往々にしてあった。
だが、逆に一度味わってしまったがために、もう二度と同じ思いをするのは嫌だ、と思うようになることもある。
ルシアはまさに、後者であった。
「二度と死んでたまるかぁ!!」
ほかの人にとってどうかはわからないが、少なくともルシアにとって死とは絶対に避けるべきものになっていた。
どんなに生き汚いと言われようが、死ぬのは絶対に嫌だ。
「死なないためだったら、死んでもいい」
一体何を言っているんだと思われるかもしれないが、とにかくそのぐらい死にたくなかったのである。
何が何でも死にたくない。
そんな強い思いが、ルシアのリミッターを完全に破壊した。
思いつく限りのコネと、エルザルートから与えられた権限。
その他もろもろ思いつく限りの全てを駆使して、ルシアは情報を集めに集めまくった。
とりあえずあらかたのことを調べ終えたのは、朝方になってからである。
「おはよっ、って、なんですの貴方!? そんな燃え尽きた灰みたいに!」
国から王都での滞在用に与えられた屋敷の居間。
そこで呆然と突っ立っていたルシアを見たエルザルートは、悲鳴のような声を上げた。
立っていただけのルシアだったが、疲れ果てた雰囲気からだろう。
エルザルートが言った通り、燃え尽きた灰、あるいは幽霊のような雰囲気を醸し出していた。
「おはようございます、エルザルート様。今日も清々しい良いお天気ですね」
「そんな死にそうな顔で言われても響いてきませんわ。どうしましたの貴方。すごい顔色でしてよ?」
「ご心配頂きありがとうございます。一日不眠不休で動き回った程度ですので、死にはしません」
「生きるか死ぬかしか基準がありませんの。もっと広い視野で人生を見つめ直しなさい」
「常々そうしたいとは思っているのですが、なんだかんだ仕事がかさみまして」
ルシアの言葉に、エルザルートは苦い表情を浮かべた。
近くのソファーに腰かけると、足を組んで唸る。
すぐにエルミリアが、お茶の用意を始めた。
「現状貴方でないとどうにもならないものが多すぎて、仕事を減らせとも言えませんわね」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。近いうちに仕事を任せられる文官を雇い入れようと思っておりますので、リストが出来ましたらチェックをお願いします」
「ああ、それも貴方の仕事でしたわね。本気でどうにかしないと、洒落じゃなく死にそうですわね、貴方」
「そんな縁起でもない。ともかく。ガウリウス・エルドルド侯爵。宰相閣下の事ですが」
「何かわかりましたの?」
「ある程度のことは。それと、あくまで予測ではありますが。お話の内容にも見当が付きました」
用意されたお茶を手にしようとしていたエルザルートだったが、その手が止まった。
「貴方がそういうからには、かなり高い確率で確信があるからなのでしょうね」
「そう、自分では思っております」
エルザルートはお茶を持ち上げると、優雅に一口口に含んだ。
ゆっくりと味わうように飲み込み、コクリと頷く。
「構いませんわ。宰相閣下の呼び出し理由。貴方の推測をお話しなさい」
ルシアは「はい」と返事をすると、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
「結論から申します。おそらく、エルザルート様の取り込み。といいますか、共同戦線の構築のようなものを望んでいらっしゃるのだと思われます」
「共同戦線?」
ルシアの言葉に、エルザルートは大きく首をかしげた。