第1話 山奥の屋敷
江戸のはずれにある、人が寄り付かない深い深い山奥に、その屋敷は建っていた。
山の中を、木々と木々の間を掻き分けてひたすら駆けていた与次郎は、森の中に突然現れた広い平地と、そこに建っている立派な屋敷の外観に、目を見開いて驚いた。
「……なんと」
思わず、与次郎は声を漏らした。
目の前にある屋敷の荘厳な門構えに、思わずため息が漏れた。
与次郎は、八尺はあろうかという、巨大な白狐の姿であった。
尾が三つに分かれ、生成色をした美しい毛並がさらさらと靡いていた。
与次郎の背に跨っていた白い狩衣姿の男が、与次郎が立ち止まったのを確認し、その背からゆっくりと降りた。
「与次郎。
ここまでの長旅、御苦労でありました。
どうぞ。中へ入って、しばらく休憩いたしましょう。
後ほど、屋敷内を案内いたしましょう」
与次郎の背から降りた屋敷の主が、微笑んで言った。
風折烏帽子に白い狩衣を纏い、気品のある凛とした姿の男であった。
貌はくっきりとしたふたえ瞼で瞳が大きく、眉はきりっと太く山形。鼻筋はスッととおっていて、なんとも端正な顔立ちをしていた。手には牛の肝臓と、竹筒に入った五十鈴川清流の水、稲荷鮨、団子を持っている。
名は、蒼頡といった。
江戸の町では知る人ぞ知る、名高い陰陽師であった。
与次郎は、
「有難うござります」
とひと言礼を言うと、美しい巨大な白狐の姿からしゅるしゅると小さくなり、人間の姿になった。
その貌は切れ長の目に白い肌、唇は小さく童顔で、快男児であった。身体は鍛え上げられていて、脚の筋肉が特に発達していた。
蒼頡と共に与次郎が門の前まで歩いていくと、門の上に、白い石でできた狛犬が座していた。
その狛犬の頭の上に、一匹の雨蛙が乗っている。
普通の雨蛙より一回り大きく、体の表面がつやつやと濡れて、緑色に輝いていた。
狛犬を見た瞬間、与次郎は、
(あ!)
と気づいた。
「狛、御苦労でありました。
苗も、一緒に屋敷を守ってくれていたのだね。
二人とも、有難う」
蒼頡が、狛犬と雨蛙に向かって声を掛けた。
蒼頡が狛と言った狛犬は、与次郎が蒼頡と初めて出会った時に和紙から飛び出てきた、あの狛犬であった。
「何か、変わりは無かったかな」
蒼頡が問うと、狛犬と雨蛙は同時に口を開けた。
声は出ていなかったが、二匹とも口をぱくぱくと動かし、どちらもまるで喋っているかのような動きであった。
「……ふむ。
ではその話は、中に入って少し休みましたら、ゆっくりと伺いましょうか」
蒼頡が言った。
役目を終えた狛犬は、石のように動かなかった門の上からようやく動き出し、そのまま地面にすとん、と降りた。
雨蛙は、狛犬が動き出してもびくともせず、狛犬の頭の上にぴったりと張り付いたままであった。
「……打ち解けたようですね」
狛と苗に向かって、蒼頡は笑顔で言った。
蒼頡と狛犬の後に続き、門から中に入った与次郎は、さらに驚いた。
門の中には、なんとも立派な数寄屋造りの武家屋敷が、厳かな雰囲気を醸し出しながら、与次郎の目の前にどん、と建っていた。
建物の中に入っていくと、中の造りはまたさらに立派で、部屋の一つ一つが全て広い。
奥に進んでゆくと、次の間(※控えの座敷部屋)がいくつもあった。
さらに奥へ行くと広縁があり、中庭が見えた。
なんとも美しい中庭であった。
桜の木が何本も綺麗に並び、松の木も綺麗に剪定されていた。紅葉や梅の木も、その場所に上手く調和されるように植えられている。大きな池があり、赤や白、白に赤い斑模様の入った鯉などが、何匹も優雅に泳いでいた。
広縁の途中、中庭が最も広く見える場所に、五十畳程の広々とした座敷があった。
畳の快い匂いが、香ってくる。
「与次郎。
ここで自由に、寛いでいなさい」
蒼頡はそう言うと、買ってきた稲荷鮨を与次郎に差し出した。
「有難うござります」
与次郎は差し出された包みを受け取り、その広い座敷内で適当な位置に座ると、稲荷鮨の包みを丁寧に開けた。
きつね色をした稲荷鮨が、綺麗に四つ、並んでいる。
与次郎は、その四つあるうちの端のひとつを手に取って、まず一口、小さく齧った。
それを、もごもごと確かめるように何度も噛み締めたあと、その齧った稲荷鮨を、今度は丸ごと、一気に頬張った。
……うまい!
与次郎はこの好物を何ヶ月かぶりに食べたような気がして、あっという間に蕩けそうな、幸せな気持ちになった。
蒼頡は、団子と五十鈴川清流の水が入った竹筒を三本持ち、中庭に出た。
まず、中庭に座していた狛犬の狛に、団子を一つぽんと投げた。
狛は団子を口で器用にキャッチし、そのまま美味しそうにごくんと飲み込んだ。
次に蒼頡は、狛犬の頭の上にぴったりと張り付いてじっとしている、苗と呼んでいる雨蛙に、竹筒に入った水を一滴、二滴、かけてやった。
雨蛙は水を受けて、さらにつやつやと輝いた。
終わると、蒼頡はくるりと後ろを向いた。
庭には綺麗な白百合、少し離れた場所に美しい白菊、また離れた場所に水仙が、艶やかに凛と咲いていた。
蒼頡はその白く美しい花々達に水を優しく注ぎ、庭に咲いている他の花々にもその水を注ぐと、最後に、団子で汚れた自分の手を、残りの水で濯いだ。
与次郎が二個目の稲荷鮨を食べ終わり、中庭にいる蒼頡のその様子を座敷からぽーっと眺めていると、どす、どす、どす、と、奥の間からこちらに近づいてくる大きい足音が聞こえてきた。
やがて座敷の目の前の広縁に、
「……遅いぞ蒼頡!!」
と、頭に牛の角を生やした男が、怒鳴りながら現れた。
白地に豹のような黒い斑点がついた、変わった服を着ている。眉毛が綺麗に生え揃い、一重で大きな黒い瞳、鼻筋もとおり、貌はなかなかの男前であった。
雷獣を斃し、与次郎と蒼頡の命を救ってくれた、式神の狡であった。
その狡が、広縁から中庭に向かって、吼えていた。
「どれだけ待ったと思ってる!!」
“ごうっ……”
と、空気が振動した。
与次郎は、凄まじい剣幕で叫ぶ狡のその大声に、少し圧倒された。
「狡。目当てのものはそこにあるぞ」
蒼頡が、座敷の中を見やって言った。
与次郎の側に、牛の肝臓が和紙に包まれて置いてあった。
狡は素早く後ろを振り返ると、その包みに目を止めて、(与次郎のことなどはまるで無視をして、)その和紙に飛びついた。
包みを乱暴に剥がすと、狡はその肝臓を生のままガツガツと口に運び、あっという間に平らげた。
与次郎がその様子を呆然と眺めていると、狡が与次郎を見た。
与次郎は、狡と突然目が合ったため、心臓が一瞬ばくんと跳ねた。
「……やっぱりな」
狡が言った。
「え?」
与次郎が聞き返した。
「蒼頡がおめーさまを気に入ったみてえだったから、ぜってえにこの屋敷へ連れて帰って来ると思ってたぜ!」
狡が、中庭にいる蒼頡に聞こえるように、声を張って言った。
「すぐ連れて帰ってきやがる」
狡が、今度は鬱陶しそうに言った。
「……狡様もまた、わたくしと同じように……?」
与次郎が聞いた。
「けっ!」
狡は両手を後ろ手でついて胡座をかき、姿勢を崩した。
「俺が暴れ回ると、江戸どころかこの国を丸ごと潰しちまうだろうからなあ!
式にして俺の動きを見張ってんだろおよ。蒼頡さまは!!」
狡が言うと、中庭で桜の木を見ていた蒼頡が、狡と与次郎がいる座敷に向かって声を掛けた。
「狡。
そなたこの場所が、居心地が良いのであろう。
式として働くことが、嫌いではないのだろう」
蒼頡がそう問うと、狡は、
「なに!?」
と叫んだ。
なんだか、さっきからずっと怒っているような声である。
「誰がこんな! 窮屈な屋敷! 狭い国! 貧相な山!!
この狡様が、日本の陰陽師なぞに良いようにこきつかわれて、居心地良いことがあるか!」
狡が、大声で喚いた。
蒼頡は、今度は池の鯉を見やりながら、
「なんだ、狡よ。
そなた、西王母の所に戻りたいのか。
そんなに言うなら、玉山に帰るか」
と聞いた。
すると、狡が弾けたように、
「まさか!」
と、また大声を張り上げた。
「蒼頡。
俺は二度と、西王母の所へは戻らんぞ」
低く太い声で、腹の底から絞り出すように、狡が言った。
与次郎は、その時に狡から出た物凄まじい気を、びりびりと感じ取った。
「……その言葉、もう千回は聴いたか」
蒼頡は、まるで太陽のようにぱっと明るく、爽やかにはっはっは、と笑いながらそう言うと、
「狡。
そなたが必要だから、側に置いている。
ここにいてくれよ」
と、宥めるように言った。
狡は、すくっと立ちあがり、ふん、と鼻を鳴らすと、その場を立ち去ろうとした。
「……狡さま!」
与次郎が、狡を呼び止めた。
「あ?」
狡が不意を付かれたように止まって、振り返った。
「あの時、烏山の雷獣から助けていただき、有難うござりました」
与次郎が礼を言った。
狡はついこの間、烏山でもののけをあっという間に斃し、襲われかけた蒼頡と与次郎を見事助けていた。
「……なんだ。そんなことか」
狡は、全く興味が無いと言った顔をしてからため息をつくと、
「礼なぞいらんわ」
とけだるそうに言い放ち、左手をひらひらとさせて、その場を離れた。
広縁に出てから、狡は蒼頡に、
「……そういえば、聞いたか。
虫が出たみてえだぞ」
と言った。
松の木を見ていた蒼頡は、狡の方に向き直ると、
「……ふむ。そのようですね」
と言った。
(虫……?)
と、与次郎が思った時、
「直に、瑠璃が来るでしょう」
と、蒼頡が言った。
狡はそのまま、どす、どす、どす、と大きい足音を立てて、広い屋敷の奥の方へといなくなった。
蒼頡が、中庭から与次郎のいる座敷に戻ってきた。
そのまま与次郎の真向かいに腰を下ろすと、急に奥の襖がすっ、と開いた。
そこから、美しい白い髪に白い小袖を着た若い女が、音も立てずにそろそろと、お盆に茶を載せて現れた。
与次郎と蒼頡の前に茶をそっと置くと、蒼頡は、
「有難う」
と礼を言った。
与次郎も、女に頭を下げた。
白い髪の女は、与次郎に向かって薄く微笑むと、肩より少し長い髪をひらりと靡かせて、元の奥の間にそろそろと戻って行った。
「水仙といいます」
蒼頡が言った。
「……あの方も、蒼頡様の……」
与次郎が言い終わる前に、
「式の一人です」
と、蒼頡が笑顔で言った。
(……いったい、全部で何人(何匹?)いるのだろうか……)
と与次郎が思っていると、まるで与次郎の思いを察したかのように、
「他の者たちも、後ほどまたゆっくりと、ご紹介してゆきますので」
と、お茶を口に含んで味わってから、蒼頡が笑顔で言った。
……と、その時、蒼頡が、ふ、と中庭に目をやった。
「……来ましたかな」
蒼頡の言葉を聞き、与次郎も中庭を見た。
誰が来たのかと中庭を見つめていたが、人の気配が無い。
やがてそこに人ではなく、なんとも美しい一羽の大きな黒い揚羽蝶が、ひらひらと宙を舞いながら、中庭に現れた。
黒い翅の表面が緑色に光り、かと思えば、陽の光の加減で鮮やかな青色にも見えた。ひらひらと舞う度に、翅は青にも見え、かと思えば緑色にも光り、また青色に光った。
なんとも美しい蝶である。
その揚羽蝶が、突然ふ、と消えた。
すると、座敷から中庭に向かう広縁に、黒地の小袖を着た女性が音も無く突然目の前にすうっ、と現れた。
身体は細く肌は白く、唇は小さく、その唇に鮮やかな紅を差していた。
腰まである、黒く長い美しい髪を自然に垂らし、ひとつにしている。黒地の小袖は振り袖が大きく、その振り袖には、緑色と青色が混ざったきらきらとした鮮やかな装飾が施されていた。
「瑠璃といいます」
蒼頡が、与次郎に言った。
「こちらは、与次郎です」
蒼頡は、今度は瑠璃に言った。
瑠璃は与次郎に向かって上品に頭を下げると、蒼頡の隣にすっ、と静かに座った。
美しい女性が突然現れ、与次郎は少しどぎまぎとしていた。
瑠璃は蒼頡に向かって、紅を差している小さい口をぱくぱくと動かした。
声は出ていない。
……が、蒼頡は、
「……ふむ。そうか。……わかった」
と、瑠璃に向かって相槌を打っていた。
やがて、
「瑠璃、有難う。
よし。……与次郎。
今から少しだけ江戸まで付き合ってもらいますが、よろしいかな」
と、蒼頡が与次郎に聞いてきた。
与次郎が、
「えっ」
と聞き返すと、蒼頡は、
「……疲れておりますかな」
と言った。
「いえ、疲れてはおりません」
与次郎は即答した。
……しかし、いったいどのような用事で……と与次郎が言いかけると、蒼頡は与次郎が問う前ににっこりと笑顔になって、
「……では、この稲荷鮨と団子を頂いてお茶を飲み終わりましたら、ゆきましょうか」
と言うなり、蒼頡は残っていた稲荷鮨を一つ、ぱくんと旨そうに頬張ったのであった。




