第20話 夢告
蒼頡、与次郎、狡、宵の四人が同時に声のした方を振り向くと、中庭に出る広縁の上に、泰重が立っていた。
「────これは、泰重殿。ご無沙汰しております」
蒼頡が立ち上がって、声を上げた。
「久しぶりだな蒼頡。夏以来か。
また、増えたな」
宵の方をちらりと見やりながら、泰重がそう言ってからからと笑った。縹色の袍を品よく着こなし、春の季節がよく似合う爽やかな御方だと、与次郎はこの時改めて思った。
「いかがなされましたか」
大広間の中に入るよう促しながら、蒼頡が泰重に問うた。
泰重が蒼頡の屋敷に直に訪れるなどというのは、滅多に無いことであった。しかし俗人がこの屋敷に来ること自体が皆無に等しいので、泰重はむしろ唯一この屋敷に来ることが許されている、無二の存在であった。
与次郎は少しだけ、胸がざわついた。この男が現れる時は大抵、何かしらの難しい事案を一緒に連れてくるのが、常であった。
泰重が真剣な顔つきになった。
「ああ……。
蒼頡。江戸殿が、そなたをお呼びだ」
「えっ」
与次郎が思わず、驚きの声を上げた。
江戸殿────大御所・徳川家康公である。江戸殿が直々に蒼頡に使者を送ることがあるのかと、与次郎は驚いた。
「江戸殿が……。一体、何故でござりますか」
蒼頡が訊ねた。
「うむ。
この件については、極めて内密に動かなくてはならない。
まあそなたの事であるから、他所に口外することなどはまずあるまいがな」
泰重がそう言って、さわやかな笑顔を浮かべた。
「……江戸殿が、幼い頃のそなたの夢を見たそうだ」
泰重が続けた。
「幼い頃の私……でございますか」
蒼頡が返した。
「左様。齢はちょうど八つ────そなたが江戸殿に初めてお会いした頃と同じ姿であったそうだ。
目の前に現れた幼いそなたが、夢の中で江戸殿にこう言ったそうだ。
『江戸殿。お伝え申し上げます。
秀忠殿の和子が、今、華胥の地に囚われております。
このままでは、御子息はこの世に生まれてくることができませぬ。これはこの国にとって、まことに深刻な事態にござります。
この御方がお生まれにならなければ、江戸もこの国も徳川家も、何もかも全てが崩落し、新たな戦乱の世が再び巻き起こることになるでしょう。
この事態を、未然に防がなくてはなりませぬ。
私が、華胥の地から秀忠殿の御子息をお救いしてまいります。
事は一刻を争います。
江戸殿。この夢から御目覚めになりましたら、どうか私を、駿府の城にお呼びください。必ず────お呼びくださいませ────』
とな」
泰重がそう言い終えた瞬間、蒼頡の瞳が、きらりと大きく輝いた。泰重の言葉に、与次郎は驚きを隠せなかった。
「秀忠殿の御子息が華胥の地に囚われている……と。
夢の中の幼い私が、江戸殿向かって、そう告げたのでございますね」
「ああ、そうだ」
泰重が頷いた。
「華胥の地に────秀忠殿の御子息が……」
与次郎が違和感を覚え、思わず呟いた。
“────この世に生まれてくることができませぬ────”
まだこの世に生まれていない秀忠の子が華胥の地に囚われていると、夢の中の幼い蒼頡が述べている。一体、どういうことか。
与次郎が理解に苦しんでいると、泰重が、与次郎の顔を見た。泰重と目が合った瞬間、与次郎の心臓がほんの少しだけ、どきりと跳ねた。
「岡部局殿を知っているか。
秀忠殿の乳母だ」
少し間を置いて、泰重が口を開いた。
「その岡部局殿の側に、静という名の侍女がいる。
その静が今、懐妊している。
────秀忠殿の和子だ」
「なんと」
与次郎が驚いた。
「静の腹は大きく、中の赤子は順調に育っている。何事も無ければ、あとひと月ほどでこの世に産まれてくるはずだ。
しかし赤子はこの時期になっても、腹の中で一切動かぬという。中で腹を蹴ることも無いそうだ。
おそらく、静の腹の中にいる赤子の“魂”が華胥の地に囚われていると、夢の中のそなたは言っておるのだ。肉体から離れた赤子の魂が、華胥の地で囚われておるのだ」
泰重は続けて、
「この件については一切、口外は許されぬ」
と付け加えた。
蒼頡は黙したまま、深く頷いた。
「ふむ……。承知いたしました。これは、一刻を争う事態でござります。
すぐに支度をして、駿府の城に向かいましょう」
蒼頡が神妙な顔つきでそう言うと、泰重は小さく頷いた。
「あとひと月でお生まれになる────ということはつまり、残りひと月で華胥の地から秀忠殿と静様の御子の魂をお救いし、肉体に戻さなければなりませぬ」
蒼頡は続けて、
「……泰重殿。ここまで、御足労をお掛けいたしました」
と、頭を下げた。
華胥の地に、生まれる前の一国の将軍の赤子の魂が囚われている────。
もしかすると、西王母が言っていた、四方位に布陣させていた四匹の聖獣が消え去ったこととの因果が、何かあるかもしれない。
与次郎はなぜか、心の中で無意識にそう感じていた。
「……華胥の地へ行く理由が、またひとつ増えてしまいましたな」
蒼頡が、与次郎、狡、宵の三人に向かってそう言った。その双眸はいつにも増して、深く、激しく輝いていた。
こうして、蒼頡は家康が待つ駿府の城へ向かうこととなった。
この謁見が、これから先の未来において、今までとは比べ物にならないほどの壮絶な死闘を繰り広げることになる激戦の幕開けになろうとは、この時の与次郎は未だ、知る由も無かったのであった────。
【第8障 -完-】




