第18話 三つの条件
「お聞かせ願いましょうか」
蒼頡が鯈䗤に向かって言葉を返すと、大蛇の口が、ゆっくりと開いた。
「ふむ……。一度しか言わぬから、ようくお聴きくだされ。
今から話す三つの条件は全て、蒼頡。そなたに対して、西王母様が一心に期待しておる願いである」
大蛇は一呼吸置くと、話を続けた。
「まず一つ目の条件は────陸吾殿を式の契約から解放し、再び崑崙の地に戻すことじゃ」
「────えっ」
与次郎が驚きの声を漏らした。意外な一言であった。
思わず、陸吾の顔を見る。先ほどの険しい表情から、何一つ変わってはいなかった。陸吾の顔つきを見るに、まるでそう言われるであろうということを、すでに予想していたかのようであった。
「陸吾を崑崙の地に戻す……と。それは一体、何故ですかな」
蒼頡が鯈䗤に聞いた。
「……く、く。蒼頡よ。わかっておるくせに、あえて問うてくるか。
言うまでもないことじゃ。陸吾殿御自身も、重々承知されておる件であろう。まあ……仕方無し。今一度、しかと聞かせてやろうか。
陸吾殿が崑崙の丘から去ってしまわれたせいで、西王母様の棲まう崑崙山の宮殿に建つ九つの門を守るものが、今や誰もおらぬのだ。そのため、陸吾殿が居なくなった圓囿が少しずつ荒れ始めておるのじゃ。このままでは、天帝の庭が大きく荒廃してしまうじゃろう。庭に生えている神仙の果実や豊富な木の実は徐々に枯れ果て、自由を謳歌していた美しい鳥や獣たちはみるみる死に絶えるであろう。やがて外界から魑魅魍魎が続々と現れ、聖域である圓囿を跋扈するであろう。この事態を防ぐには、陸吾殿に再び崑崙山に戻っていただくしかないのじゃ。今一度、陸吾殿に九つの門の統率を執ってもらいたいと、西王母様は願っておられるのじゃ」
「知ったことか!」
陸吾が叫んだ。
「あの場所には二度と戻らんと決めてんだ。奴の力なら、園囿の維持なぞ何とでもできるだろうよ。それにだ。俺の代わりなぞ、奴の周りにいッくらでもいるだろうがっ!」
陸吾が吠えると、大蛇は首を左右に二度、三度と振った。
「いいや、他に代わりはおらぬ。西王母様は、陸吾殿でなければ崑崙山の統率は図れぬと仰っておるのじゃ」
「────二つ目の条件は」
横から、蒼頡が話を遮った。
「ふん。そう急かすでない。
二つ目の条件は────狡を式の契約から解放し、玉山の地に戻すこと」
鯈䗤が、淡々と言った。
またしても、与次郎の心臓がどくりと跳ねた。
「狡を……。何故に」
蒼頡が問いかけた。
「く、く────。瑤姫を御存知かな?」
大蛇が、もったいぶるように言った。
「瑤姫?」
陸吾が聞き返した。
「左様。瑤姫というのは、西王母様の二十三番目の娘君じゃ。
いつからかは存ぜぬが……、瑤姫は、実は狡のことをかねてよりお慕いしておったようなのじゃ。狡がこの地へ来たきり一向に帰ってこないため、姫は毎夜狡を想い焦がれて泣いておられるそうじゃ。最近では食べ物も喉を通らず、次第に衰弱しておられると聞いた。不憫に思った西王母様が、瑤姫がこれ以上悲しまないためにも、狡が玉山へ帰ってくることを、切に願っておられるのじゃ」
大蛇がそう述べると、
「……瑤姫が狡を……。へえ! 驚いた。狡と接点なんてあったのか?」
と、陸吾が声を上げた。
「最後の条件は」
蒼頡が、鯈䗤に向かって問うた。
「ふむ。最後の条件────これが一番厄介であろう。
条件の三つ目は、蒼頡。主の持つ力で華胥の国に行き、西王母様が配置した方位を司る四匹の聖獣を探し出すことじゃ」
その瞬間であった。
蒼頡の瞳が、きらりと大きく輝いた。
「────華胥の国だと?」
陸吾が、再び声を上げた。
「おい、糞爺。今、華胥の国と言ったな? まさか……行くことはおろか、見つけ出すことすら容易にはできぬぞ。この世に存在せぬ、仙界の地だ」
険しい表情を見せながら、陸吾が言葉を続けた。
「……詳しくお聞かせいただけますかな」
蒼頡が鯈䗤に向かってそう言うと、大蛇がゆっくりと、口を開いた。
「西王母様は、華胥の国に四匹の聖獣を送り、四方位に振り分けて布陣させておられたのだ。
東に翼望山の鵸鵌──鶏に似た、目覚めの獣。
西に泰戯山の䍶䍶──眠りを誘う、羊の獣。
北に北囂山の鷭儚──梟に似た、偵邏の獣。
南に南山の白澤──悪夢を啖らう獏じゃ。
この四聖獣を振り分けることで、理想郷である華胥の国の秩序はより強固に保たれておったのじゃ。ところがこの春、四匹の聖獣が全て同時に、跡形も無く、突然消えた」
「……消えた」
蒼頡が繰り返した。
「左様。そうして今、華胥の国の秩序がもの凄まじい勢いで乱れておるとのことなのじゃ。人民は悪夢に魘され、心の余裕を失い、不安と不満、我欲と猜疑心が生まれるようになった。ついに、国の為政者達が仲間を集って、今にも戦を起こそうとしておるらしい、と────。
西王母様は、華胥の国から消えた四匹の聖獣を探し出し、再び仙界の地の安寧を取り戻したいと願っておられるのじゃ。蒼頡……そなたの力でな」
「何故、わたくしにそのような大儀を」
蒼頡が問うた。すると大蛇が再び、目を細めた。
「……西王母様は、こう仰っていた。
『これはもはや、蒼頡。そなたの宿命である。────華胥の国にこそ、そなたの心内の片隅に小さく灯る光明の手がかりがあるだろう』と」
大蛇がそう告げた瞬間であった。
蒼頡の諸目に深い光が宿り、次第にじわじわと力が籠っていくのを、与次郎は蒼頡の顔を見つめながら、その時無意識に感じ取っていた。
『華胥の国にこそ────』
この言葉の真意を、その時の与次郎は露聊かも、掴み取ることなど、できなかったのであった。




