第16話 再来
屋敷の広間は激しい炎に包まれ、天井はいよいよ崩れ落ちる寸前という危局にまで迫ってきていた。
人間に成り変わった金烏に向かって、陸吾が矢のように突っ込んでいく。
陸吾の後に続き、鴣鷲も、火の粉が舞い散る屋敷の中へと躊躇無く飛び込んでいった。
狂ったように自分の顔面に爪を立てている金烏の首根っこをがしりと引っ掴むと、陸吾はぐい、と腕一本で金烏の身体を軽々と持ち上げ、自身の肩にくの字に抱え上げた。
金烏は激しく混乱し、
「や、やめろ……っはな、離せっ!」
と叫びながら、陸吾の肩の上で、じたばたと暴れた。
陸吾と金烏には目もくれず、鴣鷲は倒れている与次郎を素早く抱き起こした。与次郎の片腕を、垂衣の上から細い首にぐるりと掛けると、ぐったりと意識を失っている与次郎の体重を自身の身体にうまく預け、体勢を安定させた。直後、鴣鷲は崩れかけている屋敷の広間を、瞬く間にびゅ、と飛び出した。
陸吾も鴣鷲の後に続き、暴れる金烏をしっかりと肩に抱え上げながら、屋敷の外に向かって勢いよく飛び出していった。次の瞬間、屋敷の広間はがらがらと轟音を上げ、天井から次々に崩れ落ち始めた。燃え盛る炎が、屋敷全体を凄まじい勢いで飲み込んでいく。広間内は瞬く間に、炎の渦となった。
陸吾と鴣鷲が無事に与次郎と金烏を外の中庭へと連れ出すと、屋敷の門の向こうから、どやどやと大勢の人々の声が聞こえ始めた。気が付くと、あれほど屋敷中に犇めいていたはずの烏の大群が、今や一羽残らず消え去っている。
「────陰陽師様ぁー! ご無事でござりますか!」
裏庭の方向から声がした。九重郎の声であった。
蒼頡が後ろを振り向くと、九重郎が何人もの男衆を引き連れて駆けつけてくる姿が、蒼頡達の諸目に飛び込んできた。九重郎は、烏の群が与次郎に集中していたその隙を狙って屋敷の塀を素早く乗り越え、一人密かに、外へと出ていた。与次郎のお陰で烏達の目をうまく掻い潜り、急いで近くの村まで助けを呼びに行くと、若い男衆を引き連れて、未だ屋敷内に残っている蒼頡達の元へ、すぐさま舞い戻ってきたのであった。
「陰陽師様! 人を呼んでまいりました」
九重郎は、蒼頡の側に佇む見知らぬ大柄な男と、肩に乗っている裸の若い男に一瞬だけ目を奪われて驚いた後、鴣鷲と、蒼頡の足元で倒れている円蔵やおとく、おかけ、呆然とする小助の姿を順に目で追いながら、蒼頡達の元にばたばたと近付いて、声を上げた。
「九重郎殿……。有難う御座ります。御無事で何より! 助かりました」
九重郎の様子を見るや、蒼頡はふうっと深い息を吐き、柔らかな表情を浮かべて、そう言った。
大柄な男と裸の男の姿に少し圧倒されながら、倒れている奉公人達を今一度一人ずつ見つめ直すと、九重郎の顔つきが、みるみる険しくなった。眉間に皺を寄せて辺りをきょろきょろと見渡すと、意を決したように、
「……あの、陰陽師様。
半四郎はどこに……」
と、九重郎が蒼頡に向かって訊ねた。
九重郎の目を真っ直ぐに見つめると、蒼頡は、
「……半四郎殿は自ら命を絶ち、この世を去りました」
と答えた。
「────!」
驚きのあまり、九重郎は声も出なかった。
「とにかく、一度屋敷の外に出ましょう。火の回りが速い。ここにいては危険です」
蒼頡がそう言うと、屋敷から“どおおおうん”と激しい音が響き渡り、炎が空高く舞い上がった。
はっと我に返った九重郎は、すぐさま村の男衆に指示を出し、倒れている円蔵やおとく、おかけ、小助の身体を、それぞれ手分けをして抱え込ませた。陸吾は金烏を、鴣鷲は与次郎を抱えたまま、そうして蒼頡共々、中庭にいた者たちは、全員が急いでその場を一目散に離れていった。九重郎が助けを呼んでくれたお陰で、生き残った奉公人達は皆一斉に、迫り来る業火の渦から、屋敷の外へと、無事に逃れることができたのであった。
◆◆◆
(────…………!)
意識を取り戻したと同時に、鋭い痛みが、与次郎の全身の神経を襲った。
身体は鉛のように重く、動けない。
未だ朦朧とする意識の中、ざわざわ……がやがや……といった、ざわめく大勢の人々の声や不快な雑音が、与次郎の耳に否応無しに飛び込んでくる。
目を閉じたまま、ぐっと痛みを堪える。呼吸を意識する。息を吸って、深く吐く。力の入らない手の指を、ほんの少しだけ動かしてみる。人差し指が、ぴくりと動いた。この感触……身体はざらざらとした砂利の上にある。頭には枕が敷かれているのを、感覚的に感じ取った。冷たい身体とは対照的に、首から上は温もりがある。ふわりと心地の好い香りが、春の爽やかな空気と共に、与次郎の鼻孔に漂ってくる。徐々に意識が鮮明になる。……胸の上に、微かな重みと温もりを感じる。
痛みを堪えながら薄く目を開けると、与次郎の目の前に、鴣鷲の顔があった。
与次郎の心臓がばくんっ、と大きく跳ね上がる。鴣鷲の美しい顔と瞳に、与次郎は思わず、目を奪われた。それまで感じていた全身の突き刺さるような痛みなど、その時の与次郎は一瞬にして、頭の中からすっかり吹っ飛んでしまっていた。目を閉じていた際に与次郎が感じていた感覚────頭の下にあるのは、枕では無かった。鴣鷲の腿であった。胸の上の温もりは、鴣鷲の柔らかな掌であった。
「お気づきになりましたか」
与次郎の顔を覗き込みながら、鴣鷲が安堵の表情を浮かべて言った。
その言葉に“はっ”と我に返ると、与次郎は顔を真っ赤にし、慌てて頭を擡げ起き上がろうとした。ところが、忘れていた激痛がすぐさま全身に舞い戻り、起き上がろうとした上半身の動きが途端に“ぐ”、と緩慢になった。
「まだ起き上がっては……安静に」
鴣鷲が諫めた。
痛みを堪えながら与次郎が辺りをゆっくりと見回すと、与次郎が横たわっている場所は、屋敷の門外から少し離れた、道の際であることが見て取れた。
烏に埋め尽くされていた黒屋敷は全て燃え尽きてしまっており、大きな煙が空に向かって立ち昇っている。屋敷に関わっていた者達や大勢の見物人、多くの火消し達が、灰になった屋敷の周りにわらわらと集っていた。
その群衆の中に、だらしなく口を開け、涎を垂らしたまま「ふひ、ふひ」と笑っている円蔵の姿を見つけた。目は空を見上げているが、焦点は合っていない。出会った時に着ていた羽織や二本差は今は無く、小袖袴は裾が燃えて焼け焦げている。顔や衣服は全身煤だらけで、その姿はだらしなく着崩れていた。円蔵の横には、おかけが縋りつくようにして寄り添っており、大声を上げてわーわーと泣き喚いている。少し離れた位置に、呆然と立ち尽くすおとくと、小助の姿があった。
「与次郎。気が付きましたか」
後ろから声がした。与次郎が痛みを堪えながら後ろを振り返ると、そこに蒼頡の姿と、背中に見知らぬ男を背負っている、陸吾の姿があった。
「蒼頡様……。陸吾様も……。
良かった……! 御無事で御座りましたか」
与次郎がほっと胸を撫で下ろすと、刺すような痛みが、またしても与次郎の身体のあちこちを襲った。
「与次郎。しばらく安静にしていなさい」
蒼頡が優しく言った。
激痛に耐えつつ、与次郎は片肘を付いて頭を起こしたまま、
「……いったい……どうなったのでござりますか。……金烏殿は……」
と、蒼頡達に向かって聞いた。
「────金烏なら、ここにいるぜ」
陸吾が、背中におぶっている若い男を顎で指して言った。背中の男は、裸の上に羽織が掛かっており、顔中が引っ掻き傷まみれの状態で眠っていた。
「……えっ」
与次郎が、目を丸くした。
「────人間になりやがった。
……いや、あいつが人間にしやがった」
陸吾が言った。
「あいつ?」
与次郎と鴣鷲が同時に聞き返した、その時であった。
「く、く、く……」
頭上から、聞き覚えのある嗤い声が降り注いだ。




