第15話 変容
絶命し倒れた半四郎の屍体の中から、まるで水のように薄く透明なもう一人の半四郎の身体がすう、と起き上がってくる姿が、蒼頡、鴣鷲、陸吾の三人の諸目に飛び込んできた。
首を斬り自害した半四郎の肉体は、仰向けに倒れたまま、微動だにしていない。
透明な半四郎は上体を起こし、座したまま虚ろな目で下を向くと、冷たくなっている自身の抜け殻と透けている自分との繋ぎ目の腰あたりを、虚な表情で、ぼんやりと眺めた。
その時、広間の畳の上に、黒く小さな穴が開いた。中は暗く、何も見えない。
穴は徐々に拡がってゆき、漆黒の綺麗な円が、渦を巻いてぐんぐんと大きさを増した。やがて、倒れている半四郎の頭から腿程の大きさにまで一息に拡がると、黒い円はそこで動きを止めた。
直後、黒一色以外は何も見えぬその穴の中から、何かが出てきた。
「……なんだありゃ」
びりびりと刺さるような激しい警戒心を顕にしながら、陸吾が思わず声を上げた。
穴を見つめる蒼頡の瞳孔がぎらりと光り、ぐん、と小さくなった。
穴から現れたのは、一本の黒い縄であった。
おどろおどろしい靄を纏う漆黒の縄が、まるで蛇が這い出てくるかのような悍ましい動きを見せながら、するすると静かに現れた。
縄は、肉体から離れ呆然とする半四郎の幽体に音も立てず近付いてゆき、しゅるしゅると静かに絡み付くと、あっという間に、透けている半四郎の身動きをがっちりと封じた。
動きを封じられた半四郎の形相が、途端に恐怖の表情へと、みるみる移り変わっていった。
すると、上空から“ごおおおおお……”という地鳴りのような轟音が鳴り響き始めた。
蒼頡達が瞬時に空を見上げると、暗澹たる曇天の彼方から、めらめらと激しく燃え滾る火車が現れた。火車は業火と共に、地上で燃え盛る屋敷に向かって凄まじい勢いを保ちながらみるみる近づいてくる。近づくにつれ、何者かが火車を引いている姿が見え始めた。その者が、火車を引きながら猛烈な速度で地上に突き進んでくる。
────地上と空の両方で、轟音と炎が激しさを増す。
やがて、火車を引き走る異形の者の全貌が、地上に近づくにつれ、蒼頡や陸吾、鴣鷲の目にはっきりと見え始めた。
鬼は、首から上が牛の頭であった。
首から下は、人間の身体であった。
身体は筋骨隆々、皮膚は青白く、全裸である。
牛の頭を見る。目玉は黄色く、口からは長い舌がでろりと伸びている。
開いた口から涎を垂れ流し、細かな動きは常軌を逸している。
頭頂部からは白髪の長い髪が生えており、風と炎に靡いて、ばさばさと降り乱れている。
暗雲の中から現れた地獄の獄卒は、他の者には目もくれず、地上にいる半四郎に向かって矢のように、一直線に突き進んでいた。
幽体となった半四郎は、恐怖に怯えぶるぶると打ち震えている。すると、穴から這い出てきた蛇のような漆黒の縄が突如、縛り上げていた半四郎の薄い身体を、何馬力もの力で“ぐむんっ”と勢いよく引っ張り上げた。一瞬ふわりと宙に浮くと、半四郎は漆黒の縄によって深淵たる穴の中へ“ざんっ!”と一気に引き摺り込まれ、そのまま真っ逆さまに、見えない穴の奥へと堕ちていった。
縄によって半四郎が冥冥の地へ引き摺り堕とされた直後、空から現れた獄丁の鬼は半四郎の後に続き、まるで半四郎の後を追いかけるかのように、同じ穴の中へ、火車とともに凄まじい速度で“ごうっ”と吸い込まれて行った。
火車の鬼が穴の中に消えると、冥府へと続く暗い穴は一瞬にして閉じて消え去り、屋敷の広間はあっという間に、元の畳の姿に戻った。
気が付くと、穴の横で倒れていたはずの半四郎の亡骸は跡形もなく消え去っており、意識を失って倒れている与次郎とぴくりとも動かず佇む金烏の姿が、そこにいた。
屋敷に拡がる炎が激しさを増し、火の勢いは未だ止まらない。
半四郎の肉体と幽体が両方ともこの世から消え去ってしまった直後であった。
巨大な金烏の身体から突如、ばき、という、太い枝が折れたかのような音が鳴った。
「────がああッ!」
突然の激痛に、金烏は絶叫する。
金烏の全身が、ばき、ばき、という破砕音と共に、“ぐぐんっ!”と、急速に縮み出した。
「────⁉」
蒼頡、鴣鷲、陸吾の三人が、金烏の異変に目を向けて集中した。
見ると、金烏の巨大な両翼が縮み、羽根が消え、肌色が見え始めていた。
翼の根元が人間の肩に変わり、次に二の腕が現れた。
ばきばきと、金烏の全身から破砕音が鳴り響いている。時々、金烏の呻き声が漏れ聞こえている。翼の先端から、五本の指がみるみる生えていく。
金色の足もぐんぐんと太さを増し、肌色に変わっていった。
太腿からふくらはぎ、すね、かかとと、人間の足に順に成り変わっていく。鉤爪が、五本指の足に変化した。嘴は小さくなり、ばきばきと砕かれるような音は止まらない。金色の羽毛はみるみる内に消えてゆき、代わりに肌色の皮膚がどんどんと露わになった。顔や胴体が、肌色に変わる。ごうごうと屋敷を焼き尽くす炎の渦中、烏が、次第に人間の姿へと、移り変わってゆく────。
どくん、どくん、と、金烏の全身の血脈が、大きく波を打つ。
がく、がく、がく、と、鳥の足から変わった人間の二本脚が、膝を激しく震わせていた。
やがて、ばきばきと砕かれるような音が鳴り止んだ。
巨大な烏の姿は、もうどこにも見当たらない。
そこにいたのは、黒く長い髪をぼさぼさと振り乱し、大きく黒々とした丸い瞳をぎらぎらと輝かせる、一人の若い男の姿であった。
ぶるぶると打ち震えながら自身の両手を見つめると、男はその両手で、ぼさぼさの頭を思い切り抱え込んだ。全身の震えが止まらないまま狂ったように背中をぐんと反り返らせると、男は頭から顔の上に、手の平をゆっくりと移動させた。両頬の上に激しく爪をぎりり、と立てると、男は自身の顔面をがりがりと、無心に掻きむしった。
「な……。……なぜ……、人間、なぞ……、人間、なぞに……! こ、この私が……! 人間に……ッ!!
────あ"ああッ────!!」
頬から血を流し、燃え盛る屋敷の天井に向かって、男が咆哮した。
その悲痛な叫びは、ごうごうと激しく燃え滾る炎の轟音の中に、ただただ虚しく、掻き消えていくばかりであった。




