第12話 冤
半四郎から傷薬を受け取ると、粂吉は手負いの烏の裂けた皮膚に、薬を優しく塗り込んでいった。
痛々しい創傷部に薬を塗り込む度、あまりの激痛に烏が「があーッ!」と悲痛な叫び声を上げ、粂吉の腕から逃れようと、苦しみもがいた。
「おう、よしよし。大丈夫だ。大人しくしろ。放っておけば、傷が化膿してもっと酷い状態になっちまう。このままだと、二度と空を飛べなくなるかもしれねえ。お前さん、死んじまうかもしれねえんだ。
……よしよし、大丈夫だ。助けてやる。
────今少しの辛抱だ」
暴れる烏をどうにか宥めながら、粂吉は少しずつ、深手を負った烏に丁寧に薬を塗り込んでいった。
ある程度薬を塗り終えると、粂吉は傷の上に布を当てがい、片手で抑えたまま、半四郎からもらった手ぬぐいを烏の胴体にぐるりと巻き付けて、傷の上に当てた布がずり落ちないよう固定した。手ぬぐいをぎゅっと結び終えると、烏の様子を見ながら、粂吉は持っていた竹筒に入っていた飲み水を、嘴の横の根元部分に、数滴、垂らしてやった。
烏は嘴に流れてきた僅かな水を全て口の中に受け、しっかりと飲み込んだ。
烏が水を飲むのを確認すると、粂吉はもう一度、嘴の横の根元部分に、同じように水を垂らしてやった。その水を、烏が再び飲み込んだ。
浅い呼吸を繰り返しながら、烏は粂吉の水で、喉の渇きを癒していった。
そのまましばらく休ませてやると、やがて三足烏の呼吸が、落ち着きを取り戻した。
粂吉は、滴り落ちる額の汗をぐい、と拭ってから、ふう、と大きく息を吐いた。
「────かたじけない」
半四郎に向かって頭を下げ、粂吉が礼を言った。
「ああ。気にするな」
半四郎が、粂吉に向かって言った。
その後、傷ついた烏を風呂敷で丁寧に包んでから懐に抱え込むと、粂吉はすぐさま屋敷を後にして、村に帰っていった。
烏を抱え屋敷の門から出て行く粂吉の背中を、半四郎は二階の窓から、ただただ黙したまま、見つめるばかりであった────。
◆◆◆
村に帰った粂吉は、怪我を負っている烏について嫁に経緯を説明すると、三日三晩、三足烏の世話を続けた。
息も絶え絶えとなって死にかけていた烏であったが、粂吉の献身的な看病によって、夫婦二人が驚くほどの速さで、みるみる体力を回復していった。
四日後の夜明け前には傷も塞がり、三足烏はすっかりと元気を取り戻していた。
その四日目の、朝日が昇り始めた頃。
粂吉と共に外に出ると、
「があっ!」
と一声鳴いた後、三足烏は東の空へと勢いよく、太陽の中に向かって、真っ直ぐに飛び去っていった。
烏の驚異的な回復力に驚きながらも、粂吉は何とも言えぬほどの満足感に包まれていた。
空を仰ぎ、傷薬をくれた半四郎の顔を思い浮かべながら、粂吉は心の底から、竹馬の友である半四郎に感謝した。
◆◆◆
翌朝、粂吉は再び村を出て、江戸の町へと繰り出した。
先日買い付けてきた、身重の身に良いとされる生薬が嫁の体によく効いたため、同じ生薬を今一度、江戸にいる同じ薬売りから買い付けるためであった。
一度目の時は手に入れるのに三日ほどかかった希少な薬であったが、粂吉が江戸に着いてから程なくして、まるで天の巡り合わせかと思わんばかりの絶妙な機縁によって、なんとその日の内に見事、目当ての生薬を無事に手に入れることができたのであった。
これもあの烏と、そして半四郎のお陰かと、粂吉は胸が躍った。
その日の夕刻、江戸から村へと帰る道中に、粂吉は、半四郎のいる屋敷に再び立ち寄った。
屋敷に着くと、この前とはまた別の門番の男が粂吉を出迎えた。
門番は、なんとも疲れ切った様子であった。朝早くから門の側にずっと張り付いているのだし、最近は辻斬りも増えてきているから、一日中気を張っているのだろう。無理も無い、と、粂吉は思った。
疲れ切った様子の門番に軽く挨拶をしてから、粂吉は屋敷の中に入り、半四郎の部屋を訪ねて行った。
「────……お前さんの薬のお陰で、あの三本足の烏は、空へ帰っていったよ」
半四郎に向かって笑顔でそう言うと、粂吉は傷薬の礼だと言って、江戸の請酒屋で帰り際に買ってきた春酒を手渡した。
「なんだ、わざわざ酒なんか買ってきてくれたのか。むしろ俺の方が、おめえさんに祝い酒を振る舞わにゃあならんってのに」
半四郎が、目を丸くして言った。
「いや、いいんだ。もらってくれ」
粂吉が言うと、
「まてよ。ちょいと器を持ってくる。
お前もここで飲んでいけ」
と、半四郎が言った。
「なに? 今からか?」
「ああ! 少しくらいいいだろう」
半四郎がそう言いながら、奥の棚から、木椀を二つ取り出した。
出してきた木椀を粂吉の前に置くと、半四郎は粂吉にもらった春酒を、椀の中に注いだ。とくとくと心地の好い音が響き、独特の酒の匂いが、二人の鼻腔にふわりと香ってきた。
「うまいな!」
口に含んだ酒を丁寧に味わってからごくりと喉を鳴らすと、半四郎が満面の笑みを浮かべて言った。
「ああ……こりゃうまい。燗でじっくりとやりたいもんだなあ」
旨そうに酒を味わいながら、粂吉がしみじみとそう言うと、
「なに、今からやっていくか」
と、半四郎が嬉しそうに言った。
「いや。これを飲んだら帰らねえと。嫁が待ってるからな」
粂吉が首を横に振って、断った。
「そうか……。仕方あるめえ。落ち着いたら、またゆっくりと飲もうじゃねえか」
「ああ、そうだな」
そう言って再び酒を口に入れると、粂吉が顔を赤く染めながら、笑顔になった。
「……丈夫な子が生まれるといいな」
ぼそりと呟いた半四郎の表情は、いつになく、穏やかであった。
昔なじみである二人の周りに醸し出される見えない波長がぴったりと重なり合い、酒の力も相まって、二人の間にはいつにも増して、楽しく明るい雰囲気が漂っていた。
時が経つのも忘れ、二人が飲みながら談笑していると、やがて陽が沈み、次第に辺りが暗くなってきた。
「────……おっと、まずい。暗くなってきた。もう帰らねえといけねえ」
粂吉が言った。
「ああ、そうだな。もうこんなに暮れちまったか。
気を付けて帰れよ」
半四郎が言った。
「かたじけない」
粂吉は半四郎に向かってそう言うと、畳の上に置いていた荷物を引っ掴み、慌てて半四郎の部屋を後にした。
急いで一階に続く階段を駆け降り、粂吉が外に出る直前。
暗くなった土間の物陰から、聞き覚えのある男女の声が、微かに聞こえてきた。
粂吉は、心臓がどきりと跳ね上がった。吐息交じりの声────明らかに、色事であった。
(────……あの声……。あれは円蔵殿と……おかけか)
粂吉はそう思いながら、土間から外へ向かって、勢いよく飛び出したのであった。
◆◆◆
半里(※約二キロメートル)程歩いたところで、粂吉が突如、
「……あ!」
と声を上げ、立ち止まった。
「────しまった……。薬を忘れた!」
粂吉が叫んだ。
半四郎の部屋で酒を飲む寸前、持っていた荷物と、別で持っていた生薬の入った包みを畳の上にぽん、と置いたのを、粂吉はここへ来て急に、思い出したのである。
同時に、半四郎の部屋から出る直前に荷物だけを持って、慌てて部屋を飛び出したことも────。
「……畜生っ、一番大事なものを忘れちまったじゃねえか!」
辺りはとっくに日が暮れ、夜空には星が輝いていた。
来た道の方にぐるりと踵を返すと、粂吉は暗い夜道の中を、屋敷に向かって、急いで駆け出したのであった。
────そうして酔いもすっかり醒めた粂吉が、暗く視界の悪い道中を慌てながらひたすら駆けていると、ちょうど粂吉が三足烏を見つけた矢筈豌豆の群が生えている辺りまで戻ってきた。
“────……ざんッ”
突如、何かを断ち切るような音が聞こえた。
直後、
「────ぎゃあ! 誰か……ッ! いや……!
────……ぎゃああああっ────!」
という、何とも言えぬほどの悍ましい女の叫び声と、
“……ずぶり”
という、肉を突き刺すような音が、粂吉の耳に飛び込んできた。
粂吉の心臓が、
“────ばくんっ!”
と大きく跳ね上がった。
同時に、全身にぞわり、と、鳥肌が立った。
粂吉は足を止め、少し迷ったがやがて意を決し、女の叫び声がした方へと、恐る恐る近づいていった。
すると暗闇の中、背の高い草むらの群の中でひっそりと佇む、一人の男の背中が見えた。
その背格好に、見覚えがある。
(……あれは……まさか)
粂吉がそう思った直後、足元にある大きな石に気づかず、粂吉はその大石に思い切り躓き、
「あっ!」
と声を上げ、草むらの上にずしゃり、とこけてしまった。
佇んでいた男が音で気づき、後ろを勢いよく振り返った。
慌てて起き上がった粂吉の目に、立派な本差を右手に持つ、一人の男の姿が映った。
今しがた大量についたばかりの鮮血が、刃から滴っていた。
その姿に、粂吉は声も出ず驚いた。
男が刀を振り上げ、粂吉に向かって今にも斬りかかろうとした、刹那であった。
振り上げた刀を頭上でぴたりと止めると、突如、
「……くめ……」
と、男が呟いた。
男の正体を確信した粂吉の全身が、ぶるぶると、打ち震えだした。
「……半四郎……っ!
まさか、おめえ…………っまさか……!」
粂吉が、喉から絞り出すような声を出した。
その言葉を聞いた瞬間、半四郎はまるで全身の力が一気に抜けたかのように、ゆっくりと、腕を下げた。
“────がらんっ”
手の力が抜け、半四郎は持っていた刀を、地面に落とした。
すると遠くから、
「────……こっちだな! 女の叫び声がしたのは!」
「────おう、確かこの辺りであった!」
と、幾人かの男の叫び声が、耳に入ってきた。
男達の声が聞こえた瞬間、半四郎は再び全身の力を取り戻し、音を立てないよう、その場から脱兎の如く、逃げ出した。
逃げ去っていく半四郎の背中を、粂吉はただただ、見つめ続けることしかできなかった。
腰が抜け、へたり込んだまま、動けない。
力が入らず、粂吉は、草の上にただ黙って座していることしかできなかった。
「────女だ! 斬られておるぞ!」
視界に火の灯りが揺れ、粂吉のすぐ側で、声がした。
直後、
「なんだおめえは⁉」
と、粂吉の背後から、がなり声が聞こえた。
振り向くと、灯りを持った四、五人の役人が、腰を抜かしている粂吉の姿を、目を丸くして見つめていた。
すると、
「────刀があるぞ!」
と、役人の一人が叫んだ。
粂吉の顔が、さっ、と青くなった。
役人が、先ほど半四郎が持っていた血塗れの刀を、手に取った。
粂吉の周りに次々と、役人の男達が集まってきた。
「……ほう。そうか……お前が……。
成程。あれで斬ったんだなあ……。
これでこの辺りの辻斬り騒動も、ようやく片がつくってもんだあ……。
────おい! 捕らえろ!」
再び、がなり声が響き渡った。
若い役人が粂吉の腕を強く掴み、持っていた縄で、粂吉の上半身を痛いほど強く縛った。
粂吉の全身から血の気が引き、膝が、がくがくと震え出した。
「ち、ちが……お、俺じゃねえ!
俺は……っ」
必死に訴えようとしたが、言葉がうまく出てこない。
「連れていけ」
役人の一人が、若い役人に言った。
「────ま、待て、待ってくれ……! ちがう、俺じゃねえ!
俺じゃ、俺はっ……やってねえ……っ!」
縄を持った何人もの役人に引きずられるようにして足を進めながら、粂吉の必死の叫び声が、星の瞬く夜空の中に、ただただ空しく、谺すばかりであった────。




