第11話 来訪
門戸をどんどんと激しく叩きつける音が、澄み切った早朝の静謐な空気を、突如として切り裂いた。
その時、下屋敷の門番は、町で評判の娘とよろしくやっている、幸せな夢を見ていた。
瞼を閉じ、うつらうつらと意識が遠のいていたが、突然の騒音に全身をびくりと痙攣させて目を大きく見開くと、今まで頭の中にいたはずの娘が一瞬で消え去り、門番はあっという間に、厳しい現実の世に舞い戻ってきてしまった。
目を閉じる前は夜闇だったはずの周囲の様子はうっすらと明るさを取り戻し、気づけば、東の空から朝日が昇っていた。
瞬く間に現実に引き戻されてしまった門番の鼓膜に、どんっ、どんっ、と門戸を激しく叩き続ける音が、ひたすら響いてくる。
まだ目は覚め切っていない。全身が重く動きは緩慢で、頭が思うように働かない。
まったくもって、門番は不快であった。
「おーい。半四郎に会いに来た。すまぬが開けてくれ」
男の呼ぶ声が、まだ動きの冴えない門番の耳奥を突いてきた。
門番は、門の隙間から来訪者の姿を確認した。顔はよく見えないが、一人しかいないことはわかる。もったいぶった動作で中から閂を外し門を開けると、見慣れた一人の男の顔が、そこにあった。その顔を見た瞬間、門番は思わず、深い溜息をついた。
「……はあ〜っ。……ったく、なんでえ。
粂吉殿かい。
こんな朝早うから屋敷に来るなんてえのは、いやはやどうにも……勘弁してくだせえよ。半四郎殿に何か、急事ですかい」
門番がそう問うと、粂吉は幾分、申し訳なさそうな顔をした。
「いや~、すまぬ。まさしく急事でな。
村に帰るより屋敷に寄る方が早かったもんだから。
少し、邪魔をするよ」
門番に向かってそう言うと、粂吉はずかずかと、門の中に入り込んだ。
粂吉がこんなに図々しい行動を取ることは今まで滅多に無かったので、門番は違和感を覚えた。まるで何かに追われているかのような────それとも、少し焦っているかのような素振りであった。
「あ~、ちょいと。粂吉殿。少し待ってくだせえ。
もうすぐ朝当番の門番が交代で来るから、そいつが来てから、一緒に中に入りやしょう。半四郎殿だって、今はまだ寝てるかもしれねえ」
顔馴染みとはいえ、門番として、屋敷外の者をこのような早朝からそのままやすやすと中に通すわけにはいかなかった。
「……いや、すまぬが朝当番が来るまで待っていられないんだ。半四郎には悪いが、こっちも急ぎの身だ。まだ寝ているようなら、てめえで叩き起こすさ」
粂吉が門番にそう言うと、門番はあからさまに怪訝な表情を浮かべた。
「たのむ。知ってる顔だ。何度も来ているんだから、今日ぐらい別にいいだろう? 屋敷内の物なんか、何も盗りゃあしないよ」
あはは、と爽やかに笑って、粂吉が言った。
その時、門番はふと、気になっていた粂吉のちいさな異変を、口にした。
「ああ、ところで粂吉殿。
腹に何か持ってんですかい」
眉間に皺を寄せながら、門番は異様にぽってりと膨れている粂吉の懐や腹のあたりを見て訊ねた。
「ん。ああ……いや……。
実は懐の中に、昨日町で見つけた、ちょっとした土産が入っておるんだ。半四郎に土産を渡したいのさ。
すぐにでも渡したくて、それで、ちょいと急いでおるのだ。土産を渡したら、おぬしが朝の番の者と代わる前に、すぐにこの屋敷を出ていくよ。
だから……すまぬが、ここを通してくれぬか」
膨れた胴体を片腕で優しく包み込みながら、粂吉が言った。その眼差しが途端に真剣な目つきに切り替わり、いささか鋭くなった。粂吉のその表情を見た門番は無意識に、一瞬たじろいだ。
「……ああ……そうだな。まあ……、すぐ帰るんなら……」
門番が全ての言葉を言い終わる前に、
「すまぬな」
と一言声を上げると、粂吉はあっという間にその場を離れ、慣れた様子でずんずんと、屋敷内に向かって歩を進めていった。
粂吉の態度に少し訝しがりながらも、その場から去って行く粂吉の背中を、門番はただただそこから、眺めているだけであった。
◆◆◆
粂吉が半四郎の部屋に行くと、半四郎は布団の中で眠っていた。
「おう、おう! 起きろ半四郎!」
粂吉は小さな声でそう言うと、半四郎を揺り起こした。
意識が一瞬で舞い戻り、布団からがばりと飛び起きた半四郎は、
「……あ? 粂吉か⁉」
と、声を上げた。
「お前っ、なんでえ! こんな朝っぱらから……」
驚く半四郎に、粂吉は人差し指を口元に立て、
「しっ」
と半四郎に口を閉ざすよう制すと、
「すまぬが、おぬしに頼みがある」
と言って、懐に抱えている大きな包みを、外に取り出した。
粂吉が包みを広げると、巨大な黒い塊が、中から出てきた。
半四郎は、心臓が止まりそうになった。
それは、三本足の、傷ついた巨大な一羽の烏であった。
「……なっ、……なんだ……こいつぁ……」
半四郎が腹から絞り出すようにそう訊ねると、粂吉は、
「おぬし、切り傷によく効く薬を持っていただろう。
烏を手当てしたいんだ。
早くしないと、力尽きて、死んじまう」
と、真剣な表情で、半四郎に向かって言った。
半四郎は目を丸くし、
「手当てだと⁉ なんでまた……。
お前こんな死にかけの烏を、いったいどっから持ってきやがったんだ⁉」
と、周囲に聞こえぬほどの小さな声で、粂吉に問うた。
「今朝、江戸から帰る道中に、この近くに生えておる矢筈豌豆の群の中から出てきたんだよ。見てみろ、ここ。斬られた跡がある。
辻斬りにやられたんだ」
粂吉の言葉に半四郎は絶句し、口の中に溜まった唾を、無意識にごくりと飲み込んだ。
「……なんでまたお前……そんな時分に、町になんか……」
半四郎がそう呟くと、粂吉が少しだけ頬を緩めて、
「いやそれが……。実は、嫁に子どもができたんだ。
それで、身重の身体に効くという希少な生薬を江戸で買い付けるために、二日前に村を飛び出したのさ。なかなか手に入らない代物だと聞いていたが、幸運にも昨晩、無事に手に入れることができたのよ。
すぐにでも帰りたかったが、ここのところ辻斬りが増えてきておるから、流石に夜に一人で出歩くのは危険だってんで、昨日は江戸の安宿で軽く寝泊りしたのさ。夜明け前に宿を出発して、それで、帰りがこんな時分になっちまったのさ」
と言った。
粂吉がそう言うと、
「なに! 子どもができたって⁉
それはめでてえこった!」
と声を上げ、半四郎はまるで自分のことのように、粂吉に向かって素直に喜んだ。
幼い頃から仲の良かった竹馬の友に子どもが生まれるというのは、半四郎にとって、なんとも言えぬ感慨深いものがあった。
「ああ。その道中で、烏が目の前に飛び出してきたってわけだ」
粂吉がそう言って、息も絶え絶えの烏を見つめた。
半四郎は、途端に顔が曇った。
「いやしかし、もう死にかけじゃねえか。どうしたって助からねえよ。烏なんて、その辺にいくらでもいるだろう。
いくらお前の頼みでも、大事な傷薬を、こんな死にかけの烏なぞに使いたくねえよ」
半四郎が、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべながら言った。
「たのむ。こいつを見た時、何が何でも助けなきゃなんねえっていう衝動に駆られっちまったんだ。もしかしたら、生まれてくる子どもの守り神かもしれねえって。
こいつを救わなきゃ、俺ぁきっと、一生後悔する気がしてならねえんだ。
半四郎、たのむ。
こいつを助けたいんだ」
粂吉が、半四郎に懇願した。
半四郎は、いつになく真剣な表情を向けてくる友の姿に、圧倒された。
幼い頃から、身の回りに生えている草花や生き物が好きな男であった。
そんなことを思い出しながら、粂吉を見つめ返す。
心がざわざわと騒いで、なんとも言えず、落ち着かない。
粂吉の真剣な眼差しと、腕に抱えている三足烏を交互に二度、三度と見つめると、やがて半四郎は険しい表情を浮かべながら重い腰を上げ、部屋にある薬棚に向かって、ゆっくりと、歩を進めたのであった。




