第9話 焦眉
おむらの亡骸の記憶は、そこで止まった。
蒼頡、鴣鷲、九重郎の三人の意識が、ふ、と現実に舞い戻った。
「……ま、まさか……。おむらは烏のばけもんではなく……、半四郎に殺されていたのか……!」
九重郎が顔を青くし、おむらの痛ましい亡骸を見つめながら、声を漏らした。
おむらの生前の記憶を目の当たりにした九重郎は衝撃を隠し切れず、なんとも信じ難いといった様子であった。
蒼頡はくるりと踵を返した。
「おむら殿の弔いは、後ほど丁重に行いましょう。
それよりも今は先に、急いで広間に戻らねばなりません。
烏が狙う一番の標的はおそらく……半四郎殿です」
九重郎と鴣鷲に向かってそう声を掛けると、蒼頡は先ほど出てきたばかりの屋敷の勝手口に向かって一直線に、ずんずんと突進していった。
すると、
「……しかし蒼頡様。あの烏のあやかしが半四郎様を襲う道理が未だに、私にはよくわかりませぬが……」
と、鴣鷲が後ろから追いかけながら、蒼頡の背中に問うた。
鴣鷲の疑問に少し黙した後、
「……ふむ。
それは半四郎殿と……────亡くなった粂吉殿が知っている」
と、低く力強い声音で、蒼頡はそう言ったのである。
◆◆◆
蒼頡達が去った後、広間に残された円蔵、半四郎、小助、おとく、おかけの五人は、蒼頡に言われた通り広間から一歩も出る事なく、裏庭に向かった三人が戻ってくるのを座敷の上で静かに待っていた。
誰一人口を開かず、皆ぴりぴりと張り詰めた表情を浮かべたままであった。
五人の奉公人たちは、部屋の中でただひたすらに大人しく待っているしか無かった。
与次郎は、五人の姿を眺めながら全神経を研ぎ澄ませ、広間の中心でじっと黙座していた。
「────……気が狂いそうだ」
しばらくの沈黙を破り、円蔵がぼそりと呟いた。おかけが、円蔵をちらりと一瞥した。
「……限界だ。小便に行く」
円蔵が続けて言った。広間にいる者全員が一斉に、円蔵に注目した。
「────円蔵様。なりませぬ」
半四郎が円蔵に向かって、低い声で制した。顔に汗が垂れている。
円蔵は、半四郎の顔をぎろ、と睨んだ。
「……なに。聞こえなかったのか半四郎。限界なのだ。それともこの場で漏らせとでもいうのか?
────そなたのせいでこんなことになっておるのだぞ」
円蔵は明らかに苛ついている。半四郎は言葉に詰まった。
小助、おとく、おかけ、与次郎の四人が、今度は半四郎の顔を一斉に、ぐっと凝視した。
「あの齢若い陰陽師が、今はもののけの気配が無いから大丈夫だと言うて涼しい顔でそこから出て行ったではないか。あれから何一つ、変わったことなど起こっておらぬ。今もずっと静かであろう。つまり今のこの瞬間も、あの若い陰陽師が出て行った時と同様、もののけの気配は全く無いということだ。
もののけは来ておらん。厠に行くなら、むしろ今この時しかあるまい!」
円蔵がそう言って、『聖』と書かれた和紙が貼ってある入口の扉に向かって歩きかけた。
半四郎と小助の二人が、慌てて円蔵の目の前に立ちはだかった。
「円蔵様……! なりませぬ。
九重郎様や陰陽師様たちがお戻りになるまでもうしばらく……ご辛抱くださいませ」
小助が顔を青くし、震えながらそう言った。小助の横に並んだ半四郎は、口を真一文字に結んだまま、円蔵の顔に鋭い視線を向けていた。
「……ぬしら……あんな胡散臭い、齢若い陰陽師の言うことなぞ信じておるのか」
円蔵が吐き捨てるように言った。
汗の止まらない半四郎が、口を開く。
「名のある陰陽師様とお聞きしております。今はあの方を信じるより外に、あやかしから逃れる術はござりませぬ。
円蔵様。今少し……ご辛抱くださりませ」
珍しい光景であった。小助も、おとく、おかけの女中二人も、驚きの色を見せている。円蔵の言動に意見する半四郎を、奉公人達は屋敷内で今まで全く見たことが無かったのである。
「……そこを退け半四郎。小助もだ! あやかしなど来ぬわ!
────……それとも、半四郎よ。その木刀で私を斬るか?」
腰に差す二本差の柄を撫でながら、円蔵が半四郎に向かって嘲笑うかのように言った。
円蔵を見つめる半四郎の瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。
半四郎の手が、無意識に木刀に近づいていく。
半四郎のその行動に、円蔵が一瞬だけ、目を丸くした。
円蔵が思わず、右手で自慢の本差の柄を握り締めた。
その時である。
“────ぼっ”
「……⁉︎」
音が響いた。皆一斉に押し黙り、何の音かと耳を澄ませた。
「あっ……!」
おかけが、小さく悲鳴を上げる。
与次郎が素早く立ち上がった。
先ほどまで威勢の良かった円蔵の顔が、次第に強張ってゆく。みるみる怯えた表情に変わってゆく。
“────ぼっ”
“────ぼっ────ぼっ”
「……も、……燃えた……⁉︎」
小助が震えながら呟く。
蒼頡が『聖』と書いて入口や障子に貼りつけた和紙が、火種など何も無い状態で突如次々と、独りでに燃え出したのである。
独りでに燃えた和紙は全て、あっという間にそのまま燃え尽きてしまった。和紙は黒く細かい滓になり変わり、空中にはらはらと舞い散ってゆく。
────……恐ろしいほどの静けさが、広間全体を覆い尽くした。
“────どすっ”
また別の音である。直後円蔵は、
「……わっ!」
と叫んで腰を抜かし、その場に尻もちをついた。
────現れたのは、一本の刀であった。
円蔵と半四郎、小助が向かい合っていたその間のちょうど中心の位置に、どこから現れたのか、畳の上に真っ直ぐ突き刺さっている。
半四郎がぶるりと大きく震えるのが見て取れた。
与次郎が光った。
“────どおおおおおおうんっ!!────”
屋敷全体が揺れ動き、広間の壁が凄まじい轟音とともにこちら側に崩れ落ちた。
二階部分の壁まで破壊されている。穴が開いた壁の上から、がらがらと音を立て、木板や物が次々と降ってくる。
辺りに凄まじい煙と埃が漂ってゆく中、崩れた壁の向こうに、屋敷の中庭が見えた。
そこに、いる。
金色に光る巨大な烏が、こちらをじっと見据えながら、中庭の塀の上に立っている。
三本足の、太陽の神の使い────。
そのあまりの美しさと畏ろしさに、広間にいる者全員が言葉を失った。
烏の姿に釘付けとなっている半四郎の全身が、震えている。
“────ばさりっ……”
金烏が、二つの羽を大きく広げた。
すると────。
「……うっ」
円蔵がばちん、と自身の口を叩き抑え、急に嘔吐き出した。
「────お、おえ!」
ぼとり。
ぼと……ぼとぼと……。
円蔵が、口から吐いた。
吐いたものが抑えた手の指の隙間から漏れ落ち、座敷の上で白く蠢いている。
それは、蛆であった。
「────お……だ……だれか……たす……お、おおお、おえ」
ぼと……ぼとぼとぼと…。
ぼとととと……。ぼとととととととと……。
「お……おおえええ……おええええ……! と……とま……お……とまらぬ……おえ……おえええええ……! だれか……! たすけ……おおええええ!」
円蔵の口から、白く小さな蛆虫が止め処なく次々に飛び出してくる。
「う……ひいい! いっ、いやあああ!」
おかけが叫んだ。絶句するのは、おとく、半四郎、小助である。
その時。
「っあ……?」
小助が小さく声を上げた。突如視界が暗くなり、壁の向こうにいる金烏が見えなくなった。
奉公人達の目の前に突如、生成色をした光る一匹の巨大な獣の背中が中庭にぬぅっ……と現れた。尾が三つに分かれ、毛がさらさらと白く靡いている。
奉公人達を守るようにして壁の穴を塞ぐその獣が、ゆっくりと口を開いた。
「────金烏様。どうかおやめください。
神の使いである貴方様が何故、か弱き人間達にこのようなことをなさるのですか」
巨大な白狐の姿となった与次郎が、金烏を真っ直ぐに見つめながら、そう問うた。
金烏の美しい瞳と与次郎の優しいまなざしがお互いにがっちりと相手の瞳孔を捉え合った、その直後。
“────があっ!”
耳に谺すのは、烏の鳴き声である。
“────……どどどどどどどどどどどど────”
黒の大群が、空から降ってくる。
白狐となった与次郎を目掛けて、凄まじい烏の大群が、次々に襲い掛かってきたのである。その数ざっと、優に千羽を超える勢いである。
“どすどすどすどす……っ────!”
白狐の体に、烏の太い嘴や小さく鋭い爪が続々と突き刺さる。
“────がああっ! があああ! があっ!”
“ばさばさばさっ! ばさりっ────”
“────どどどどどどうっ────”
「……っぐうっ!」
与次郎が呻いた。大群が次々と押し寄せる。身体中に激痛が襲う。
与次郎は急所を守るため、目や頭を狙ってくる烏達の方にだけ、とにかく意識を集中した。
太く鋭い爪を立て、白狐は烏達の胴体や羽、頭を次から次にごりごりと抉ってゆく。あるいは自身の鋭い牙で、襲い来る集団に向かって三匹、五匹、十匹と一度に大量の烏達に咬み付いてゆく。咬み付かれた烏は、与次郎の唾液によって、まるで鉄を熱した時のようにじゅう……と音を立てながら、骨まで溶かし尽くされていった。
“────がああ! があっ!”
大量の烏の群と巨大な白狐の激しい攻防戦である。与次郎の周りに、どさ、どさと力無く地面に落ちていく無残な烏達の死骸が重なっていく。
それでも、烏達は尚も急所に狙いを定め、与次郎に向かって次々と限無く襲い掛かっていった。
与次郎の生成色の毛がじわじわと赤く染まり、血がぼたぼたと滴り落ちる。
「っ……ぐっ……」
ふらり……と一瞬だけ、与次郎の身体がよろめいた。
その隙を待っていたかのように、巨大な三足烏が再び両翼をばさりと広げ、宙に浮いた。そうして与次郎の頭を目掛けて、凄まじい速度で、一直線に飛び込んできたのである。
金烏の思わぬ行動に、白狐が目を見開く。が、その目は霞んでいる。
血が、流れ過ぎた────。
“────────ぼんっ‼︎”
“どおおおおおうんっ……”
金烏によって、白狐の首があわや吹っ飛ぶかと思われた、その時であった。
目の前まで迫っていた金烏の姿が、与次郎の目の前から突如消えた。
代わりに別の獣が、与次郎の前に姿を現した。なんとも神々しい、二本の立派な牙を生やした巨大な獣────。
金色の毛と九つの尾をさらさらと靡かせるその姿は、金烏にも勝る美しさと堂々たる威厳、風格があった。
「────……だあかあら! わざわざ呼び出すぐらいならはじめっから俺様を一緒に連れて行けって言ったじゃねえか蒼頡っ!
……おい。お前もそう思うだろ? なあ……、与次郎‼︎」
聞き慣れた声が、与次郎の耳に響く。
力強くぎらりと光る双眸と、目が合った。
「……まあ、任せろや」
倒れかけている白狐を見据えた後、自身の巨躯で吹っ飛ばした三足烏の方に改めてしっかりと向き直ると、神獣姿となった陸吾が、一言ぼそりと、そう呟いたのであった。




