第5話 白狐
与次郎は、ふ、と意識を取り戻した。
目の前には、与次郎を見下ろす森の木々があり、風に吹かれさわさわと葉を揺らしている。
その奥には青空が見えていた。
左横を向くと、刻が胡座をかいて座していた。
与次郎が目を覚ましたのに気づくと、刻は、
「……よく眠れましたかな」
と、微笑んで言った。
「……刻さま……」
与次郎は、小さく言った。
「痛みは無いですかな」
刻が聞いた。
その言葉に、与次郎は自分が雷獣の針を身体に受けたことを思い出した。
しかし、身体の痛みが全く無い。
手で肩に触れると、受けた傷が綺麗に塞がっていることに気づいた。
「これは……。
もしや、刻さまが治してくださったのですか」
与次郎の問いに、刻は無言で笑顔を返した。
そして、
「与次郎。
山の神は無事、斃すことが出来ましたよ」
と言った。
「えっ」
刻の言葉に驚き、与次郎は身を起こした。
刻は正面に向き直ると、微笑んだまま、遠くを眺めた。
与次郎は、刻の目線の先を見た。
そこにあったはずの屍体の山が、綺麗さっぱり、無くなっている。
奥に、御神木が立っている。
解れていた注連縄は修復され、まるで何事も無かったかのように、木はひっそりと聳え立っていた。
「……も、もののけは……。
……あ、あの屍体の山は、いったいどこへ……」
与次郎が、少し混乱しながら聞いた。
気を失う前の、あの凄惨な光景がまるで夢だったかのように、屍体もあのもののけも跡形もなく消え去っていた。
「ご遺体の山は、さすがにあのままの状態で放っておくわけにはゆきませんから、お一人お一人丁重に、わたしの式神達によって、然るべき場所へ埋葬させました。
わたくしひとりで全てやるにはとても無理でしたので、助けてもらいましたよ。
あとでたっぷり、褒美をやらねばなりません」
刻が微笑んで言った。
「そ、そうだったのですか……。
……ええと……それで、……あ、あのもののけは……、どうなったのですか」
与次郎は、頭の中を整理しながら、刻に聞いた。
「はい。
わたしの使役する式神の一人が、
────狡といいますが────、
あの雷獣を斃してくれました」
刻は、丁寧な口調で言った。
「なんと……! 私が気を失っている間に……。
その……、あれは……、あのもののけは、雷獣というものだったのですか」
与次郎がまた聞いた。
刻は、ゆっくりと話し始めた。
「……元は、一匹の雄の貉でありました。
あの霊力の高い御神木の根元に、巣穴を作っていたのです。
その巣穴にいた貉の嫁と子どもたちが野武士に捕らえられ、殺されました。
雄の貉が狩りから帰ってくると、巣穴が空になっていて、人間が家族を殺したことに気づいたのです。
その時、運悪く御神木に雷が落ち、穴にいた貉は哀れにも絶命したのですが、同時にその衝撃で注連縄が解れ、御神木に宿っていた霊力が漏れたのです。
そこに、雄の貉の怨の気が同化し、あの化物が、生まれてしまったのです」
与次郎は、刻の言葉を聞き漏らすまいと、黙って耳を傾けていた。
刻は、続けて言った。
「あの御神木の根元に、雄の貉の骸が眠っております。
わたくしが鎮めましたので、もうこの先、あのもののけが出てくることはありません」
与次郎はそれを聞き、目を見開いて驚いた。
「……そ……それは、まことでござりますか!?」
与次郎が聞くと、刻は、
「はい。まことでございます」
と、にこやかに言った。
刻のその一言に、与次郎は目を輝かせながら息を吐き、心の底から安堵した。
「……なるほど。そういうことだったのですか」
与次郎は、もののけの正体を知ることができ、喉のつかえが取れたような心地がした。
そして、ふー……と息を深く吐くと、
「刻さま、何もかも、本当にありがとうござります。
刻さまにお会い出来てこのように救うてもらったこと、わたくしは心の底から、感謝いたします」
と、刻に礼を言った。
「……与次郎。
その言葉、そっくりそのまま、お返しいたしますよ。
救うてもらったのは、わたくしの方です。
あの雷獣の毛の針から、わたくしの身を庇ってくれたでしょう。
助かりました」
刻はそう言うと、優しい眼差しで与次郎を見つめた。
与次郎はその言葉を聞くと、まっすぐ見つめてくる刻としばらく目を合わせたあと、目を泳がせてから目線を少し下に逸らし、
「……夢中で……脚が勝手に動きました……」
と、耳を赤くして、ごにょごにょと照れた。
刻は、優しく微笑みながら与次郎を見つめたあと、思い出したように言った。
「あ、それに、 義宣様の荷も、無事のようですな」
刻の言葉に、与次郎は腹に巻きつけている荷物を見た。
刻を背負う時に邪魔になるため、腹に荷物をくくりつけていた。
雷獣の針は荷物には当たらず、無事であった。
「ま、まことに!……良かった……」
与次郎は再びほうっ……と息をついて安堵し、脱力した。
「……では、もう少し休みましたら、出立いたしましょうか」
刻が笑顔で言った。
森の中に、もうあの腐臭や異様な空気は全く漂っていない。
ただ森の中の木々たちが、青空の下、風の赴くままに、そよそよと小さく葉を揺らしているだけである────。
◆◆◆
「……義宣の飛脚がこの六田村を訪れるというのは、まことであろうな」
男が言った。
背中に弓矢を背負っている。
名は谷蔵といい、地元では名の知れた猟師であった。
「はい。
三日ほど前に、この村を飛ぶように駆けてゆくのを、この目で見ております。
今日か明日頃には、久保田藩までの戻りに再びここへ訪れるはずでござります」
男が言った。
名は間右衛門と言い、飛脚が泊まる宿の宿主であった。
「名は、与次郎とか言ったな。
本当に、一人で久保田から江戸まで三日でゆくのか」
谷蔵が聞いた。
「ええ。与次郎の脚は、千里を十日で駆けるという噂でございます。
三日前に目にした際も、その速さは凄まじいものでござりました」
間右衛門が言った。
「……しかし、義光殿からの命とのことでござりますが、わたくしも与次郎に関してはほとほと困っておりましたので、まことに願ってもないことで……」
間右衛門が続けて言うと、谷蔵が、
「……困っていた、だと?」
と聞いた。
「ええ。
実はわたくしは、もともと久保田藩で飛脚を生業としておったのですが、与次郎が現れてから、仕事が全く無くなってしまって……。
泣く泣くこの村までやってきまして、この宿でなんとかやっておりますが……。
与次郎のせいで他の飛脚仲間も仕事が減り、泊まるものも少なく、この宿の儲けも少ないのでございますよ」
「……ふむ。
ということは、与次郎を仕留めれば他の飛脚の仕事が増え、この宿も繁盛するというわけだ」
谷蔵は間右衛門を見て、にやりと笑った。
「はい。まことに仰るとおりでございます。
……しかし谷蔵様のお話をお聞きして、納得いたしました。
義宣様が贔屓にしていたあの与次郎めが、間者として動いていたというわけでござりますね」
間右衛門が声を潜めて言った。
「うむ。
与次郎は義宣に命ぜられ、隠密に荷や文を運んで何やらこそこそ企んでおるようだ。
この与次郎の暗殺については、最上義光様が、江戸殿(徳川家康公)に直々に頼まれたと仰っていた。
これは実に重大なお役目であるのだ。
前金として、すでに千二百文も頂いておる。
与次郎がいなくなれば、そなたも一挙両得であろう。
……与次郎は、ここ六田村で、俺が打つ。
そのために、そなたの力が要る。
頼むぞ」
谷蔵の言葉に、間右衛門はごくりと生唾を呑み込んだ。
上手く行けば、飛脚の仕事を追いやられたあの時の恨みも晴れ、与次郎が消えたあとに別の継飛脚らが増えれば、宿の景気も良くなる。
お上から、報酬としてかなりの銭ももらえるかもしれない。
間右衛門の心に、ドロドロとした修羅の感情が、沸々と沸き起こっていった。
◆◆◆
「そういえば、刻さま」
刻を背中に乗せ、凄まじい速度で道を駆けながら、与次郎が声を掛けた。
「なんでございますかな」
刻が言った。
「……大変失礼なことをお聞きして申し訳ございませんが、刻さまのことを、あの、狡様は確か……。
……蒼頡様と、仰っていましたね」
与次郎は気にかかっていたことを、恐る恐る、刻に尋ねた。
「ははあ!
よく憶えてらっしゃいましたね」
刻は驚き、感心したように言った。
そして、
「いかにも。
『刻』とは仮の名です。
わたくしの実の名は、『蒼頡』と申します」
と、さらりと言った。
「……蒼頡様でござりますね。
諱を聞くなど、不躾なことをお訊ねして申し訳ござりません。
変わらず刻様とお呼びいたします」
与次郎は申し訳なさそうに言った。
すると、
「蒼頡で構いませんよ」
と、刻は事も無げに言った。
「え」
与次郎は驚いた。
この時代に限らず、遥か昔から実名は諱(忌み名)と言われ、諱にはその人格の霊力が宿るとされていた。
諱を口にするとその名を持つ人物を支配できるとされたため、やがて諱を扱うことは禁忌となり、人々は仮名を使うようになった。
刻の場合、『刻』は仮名であり、実の名は『蒼頡』であった。
そのような大事な諱を、刻は気にも止めず、口にして良いと言っている。
「……よろしいのですか」
与次郎が言った。
「与次郎の好きに呼べばよろしいですよ。
蒼頡も、刻も、どちらもわたくしだということに変わりは無いですから」
蒼頡は爽やかに言った。
しばらくゆくと、小さな宿場が見えてきた。
「では、蒼頡様。
あそこの宿場で、少し休まれますか」
与次郎が、蒼頡に訊ねた。
「うむ。そうしましょう」
与次郎は宿場へ向かって、弾むように飛んで行った。
◆◆◆
六田村の宿場は少し小さめだが、宿もあり飛脚が休むには充分な場所であった。
村に入ると、与次郎は蒼頡を背から降ろした。
少し歩くと、与次郎は稲荷鮨屋を見つけた。
「あ! 蒼頡様!
ほんの少し、行ってまいってもよろしいでしょうか」
与次郎が言うと、
「うむ。
わたくしは水を調達してまいりましょう」
と蒼頡が言った。
与次郎は稲荷鮨屋に向かって駆けて行った。
それを見届け、蒼頡が反対の方に向かおうとした時、宿と店の間の狭い隙間に、弓矢をひく男の姿が視界に入った。
矢は、与次郎を狙っている。
蒼頡は、はっと気づき、与次郎が走った方へ向き直った。
与次郎は稲荷鮨をすでに四つ手に持ち、一つを口に含んでいた。
「! 与次郎っ!!」
蒼頡が叫んだ直後、与次郎が、稲荷鮨を含んだ口から、真っ赤な血を吐き出した。
与次郎は苦しみながら、その場に倒れ込んだ。
毒であった。
稲荷鮨に、毒が混ざっていた。
蒼頡は、与次郎に向かって走った。
蒼頡より速く、何本もの矢が蒼頡を追い越し、勢いよく与次郎に向かって飛んで行った。
血を吐いて倒れている与次郎の首、背中、脚に、どすっ、どすっ、どすっ、と重い音を立て、連続で矢が刺さった。
「────与次郎っ!!」
蒼頡が、倒れている与次郎に駆け寄った。
三本の矢に、強烈な『怨』の呪詛が黒い靄となって巻き付き、与次郎の身体に刺さっていた。
「……与次郎!」
蒼頡は声をかけ、与次郎を抱き起こした。
脈が無い。
心臓が、止まっている。
与次郎は、血塗れのまま目を閉じ、稲荷鮨の毒と、急所に突き刺さった呪詛の矢によって、即死していた。
「……与次郎……!」
蒼頡はもう一度、与次郎の名を小さく呼んだ。
ひゅんっ、と蒼頡の右耳を掠め、矢が右手前の地面に、どすっ、と突き刺さった。
蒼頡は、すぐさま後ろを振り返った。
「何者だ!!」
ごうっ……!と、蒼頡の怒号が飛んだ。
すると突然、稲荷鮨屋に扮した男が、蒼頡に木の棒で殴りかかろうと後ろから襲ってきた。
蒼頡は瞬時にその男に気づき、与次郎から離れ、殴ろうとしてきた男の攻撃を間一髪で避けた。
木の棒は宙を舞い、どすんっ、と重い音を立てて、地面に穴を開けた。
「……ちっ」
男は舌打ちした。
「おまえは……!
何故毒を入れた!」
蒼頡が、怒りの形相で男に問うた。
男はそれを聞くと、くっくっ、と不気味に笑った。
「……とある御方の命により、義宣様の間者である与次郎を始末したのだ。
主こそ何者だ!
仲間とあらば、その与次郎めと同じ末路ぞ!」
「なに!?」
蒼頡は耳を疑った。
……と、その時。
⦅…………蒼頡……さま…………⦆
与次郎の声がした。
「!?」
蒼頡は耳をすませた。
横になっている与次郎の身体は、ぴくりとも動いていない。
⦅……まさか……。
……かような理由で…………この身が……あっけなく……。
わたくしには……まだ……。
……やるべき、ことが……⦆
声が途切れ途切れに聞こえてくる。
⦅……蒼頡……さま……。
……わたくしは……。
……無念……────⦆
その瞬間であった。
倒れている与次郎の身体が、地面から何かに突き上げられたかのように、一瞬びくんと浮き上がった。
────その直後。
与次郎の背中から、何か出てきた。
初めは、白い靄のようであった。
するとその靄は、徐々にむくりむくりと大きくなってゆき、やがて、八尺はあろうかという、大きく美しい獣の姿が見え出した。
毛は生成色をしていて、さらさらと白く輝いている。
細くしなやかな胴体と四つ足が、白い靄から、品良く、すぅ……っと現れた。
尾は三つに分かれ、美しく靡いている。
靄が消えると、与次郎の亡骸の側に、それは座した。
その姿は、なんとも美しい、光り輝く、巨大な白い狐であった。
蒼頡は、息を呑んだ。
白狐は、目を閉じていた。
すると、与次郎の側に座しているその巨大な白狐を見た稲荷鮨屋の男が、
「……わ、わぁぁー!!」
と叫んだ。
「やはり、やはり、ば、化物だったんだ! こ、こいつぁ! 与次郎はぁ!!」
稲荷鮨屋の男は叫びながら尻もちをつき、腰を抜かしていた。
蒼頡は白狐を見て、はっとした。
白狐の目が、開いた。
その目は、旅の途中何度も見た与次郎のあの瞳と、全く同じであった。
その白狐の瞳から、血が流れ出した。
血の涙を、流している。
⦅……蒼頡……さま……。
……わたくしは…………まだ……────⦆
与次郎の声がまた、聞こえた。
耳にではなく、頭の中に聞こえてくる。
蒼頡の頭と心に、与次郎の無念の想いが、水のように流れてくる。
白狐は血の涙を流しながら、首をゆっくりと動かし、腰を抜かしている稲荷鮨屋の男の方を見た。
「ひっ……」
男は、小さく悲鳴を上げた。
「────いかん!! 与次郎!!」
蒼頡が叫んだ。
と同時に、
"……ごきごきっ……ごりりっ……"
……骨を砕く凄まじい音が、響き渡った。
白狐が、稲荷鮨屋の男の頭を、首まで丸ごと、咥え込んでいた。
そして、
"……ごきんっ……"
という音とともに、白狐が男から離れた。
稲荷鮨屋の男の、首から上が無くなっていた。
頭の無い身体が、どしゃっ……、と、力無く倒れた。
白狐は、ぶっ、と唾を吐くように、大きい口から男の頭を吐き出した。
男の頭は、まるで溶けた鉄を上から大量に浴びせられたかのように全体がドロドロに焼け爛れ、目も当てられないほどの無惨な状態となって、しゅうしゅうと湯気を出しながら、地面にごろりと転がった。
「……かっ、かっ、……間右衛門────!!」
弓矢の男が顔を真っ青にして、男の名を叫んだ。