第4話 金烏
「烏のばけもの……」
蒼頡が、小助に向かって呟いた。
小助は、鼻水をずるりとすすると、
「……はい……。この目で、しかと見たのでございやす」
と、鼻声で言った。
「見た」
蒼頡が小助に向かって、聞き返した。
すると、小助の顔色がみるみる青ざめていった。小さくぶるりと身震いをし、目はきょどきょどと忙しなく泳ぎ、いったいどのように話そうか、言葉を探しているようであった。
落ち着かない様子のまま、小助はやがて、震える唇を小さく開き、こう言った。
「……三本足の……金色に輝く────巨大な烏でございやした」
小助のこの言葉を聞いた瞬間、蒼頡の双眸がいつにも増して、まるで零れ落ちていくのではないかと思うほど、ぐっと大きく見開いた。
直後、
「────三本足……! 確かに今、そうおっしゃいましたな⁉」
と、蒼頡が声を上げた。
小助は、穏やかに見えた名のある陰陽師が突然声を張り上げたためびくりと驚き、その迫力に思わず圧倒され、立っていたその位置から半歩程、ずり……と無意識に後ずさった。
「……は、はい……。足が三本ありやした。この目ではっきりと見ましたので、間違いござりやせん」
小助が、目を白黒させながらそう言った。小助の言葉を聞き、蒼頡は口を真一文字にぐっと結び、しばらく黙った。
小助は、突然思い出したように、昨暁起こった出来事を、蒼頡に向かってすらすらと、語り始めた。
「……あ、あっしの部屋は、比較的裏庭に近い位置にありやす。夜明け前、寝ていると裏庭の方から、おむらの悲鳴が聞こえてきやした。あっしは飛び起きて、裏庭の池の方へ向かったんでございやす。
すると池の側に、円蔵様と、半四郎様がおられやした。
池の端には、おむらが俯せになって倒れており、そのおむらの背中の上に、三本足の、金色に輝く巨大な烏が乗っておったのです。円蔵様と半四郎様が、ばけもんの烏とおむらを目の前にして、為す術もなく、じっと立ち尽くしておられやした。
あっしが、状況をいまいち理解できねえままその場で動けずにいると、巨大な烏は、なんとその大きな口の中から、血塗れになった一本の刀を、言葉では言い表せぬ程の悍ましい鳴き声と共に、おむらの背の上でゆっくりと、吐き出したのです」
小助の言葉に、口を真一文字に結んで黙している蒼頡の身体が、一瞬ぴくりと、小さく反応した。
小助は蒼頡の機微には全く気付かず、話を続けた。
「烏が血塗れの刀を吐き出した瞬間、円蔵様が叫び声を上げて腰を抜かし、その場に尻もちをつきやした。半四郎様は声も出ず、足ががくがくと震えておられるのを、あっしは後ろから見ておりやした。あっし自身も、なんとも言えぬ怖ろしさに、その場から全く動くことができやせんでした。
吐き出された刀は、おむらが倒れているすぐ側の地面に、がらん、と重い音を立てて落ちやした。
その時、夜が明け、日が出始めました。
すると、金色に輝く三本足の烏は、"────かああああああ!"とつんざくような凄まじい鳴き声を上げ、大きな羽をばさりと動かし、東の空へと、飛び去って行ったのでございやす。
裏庭には、おむらの死体と、血塗れの刀だけが残りやした……」
小助が、涙をこらえながらそう言った。
続けて、
「……烏が去ったあと、円蔵様と半四郎様が、あっしが見ていることにようやっと気づきやした。
何があったかお二人に訊ねると、あの巨大な烏が、口から吐き出したその刀でおむらの背中を斬ったところを、見たというのです」
と言った。
小助のその言葉を聞き、蒼頡が、真一文字に結んでいた口を薄く開いて、
「烏が斬った……」
と、小さく呟いた。
すると、円蔵が蒼頡に向かって、小助の話を補足するかのように、突然話に割って入ってきた。
「小助の言う通り、昨暁私と半四郎は、化け烏がおむらを襲っているのを、裏庭で偶然見てしまったのですよ。巨大な烏の太い嘴がおむらの背を突くのを、二人揃って、この目でしかと見たのでございます。私と半四郎は、化け烏がおむらを襲っているその様子を、ただ黙って見ているしかなかった……。
直後、先程小助が言いました通り、巨大な烏は口から血塗れの刀を吐き出したのでございます。
化け烏が、腹に隠していた刀でおむらを斬ったのだと、そこで気づいたのですよ」
円蔵が、強い口調で言った。
顔を見ると、円蔵の額に、汗が光っていた。
蒼頡は、円蔵の顔をじっと見つめると、
「……ふむ……。
ちなみに、円蔵様と半四郎様。そしておむら様は、まだ日が昇る前の夜闇明けぬその時刻に、何故、屋敷の裏庭なぞにいらっしゃったのでござりますか」
と聞いた。
蒼頡の問いに、円蔵と半四郎は同時に目を剥き、思わず、互いの目をちらりと見つめた。少し間が空いた後、円蔵が蒼頡の方に向き直り、蒼頡の顔をじっと見つめながら、
「……あのとき、何やら裏庭の方から怪し気な声が聞こえてきたので、その声で私は目が覚めたのです。様子を見に行こうと起き上がったのですが、蛆虫の幻覚をつい先日見たばかりであったため、一人ではやはり危ないと感じて、寝ている半四郎を部屋まで起こしに行きました。そうして、半四郎と二人で揃って、裏庭に向かったのですよ。
裏庭に出ると、そこになんと、まだ生きているおむらと、金色に光る巨大な三つ足の烏がいたのです。
何故おむらが裏庭にいたのかはわかりませぬが、私と半四郎がおむらと烏の姿を見た、そのすぐあとに、烏はおむらの背中を、あっという間に斬りつけたのです」
と言った。
円蔵の話を聞き終えると、蒼頡は円蔵の顔と半四郎の顔、そして小助の顔、残りの奉公人達の顔を、今一度、ぐるりと見回した。他の奉公人達は、この話を円蔵達からすでに聞いており、おむらが亡くなったことも、烏のことも、全て知っているようであった。
「────おむら様の御遺体は、今どちらに眠っておられるのですか」
蒼頡が小助に聞いた。
小助は、目を赤く腫らしながら、
「……裏庭の池の中に、沈めやした」
と言った。
「池に」
蒼頡が聞き返した。
「死体をそのまま放っておくわけにもいかず、屋敷の庭に埋めるわけにもいかず……それで仕方無しに、池の中に沈めるよう、私が命じたのですよ」
円蔵が、横から言った。
「……ふむ……。
わかりました。
それでは……少し確かめたい事がございますので、烏に斬られたという、おむら殿の眠る裏庭の池へ、今すぐ向かいたいと存じます。
一人で構いませぬので、どなたか裏庭まで案内していただけませぬか」
蒼頡が、屋敷の奉公人達に向かって言った。
すると、
「私がご案内いたしましょう」
と、槍を持っている中間、九重郎が、右手を上げた。
蒼頡が九重郎に向かって、
「よろしく頼みます」
と、優しい口調で言った。
「────ところで、その前に」
蒼頡が突如、声音を低くして、言葉を続けた。
広間にいる全員が一斉に、蒼頡の顔を見つめた。
広間中に響く程のよく通る声で、蒼頡が、話し始めた。
「……ある国の書物に、このような伝説が記してあります。
"────東海にある、果てしなく拡がる広大な地のほとりに、扶桑樹という神樹がある。
その神樹に、十羽の三足烏が棲んでいる。
三足烏は、扶桑樹の中から毎日、順に空に昇っていき、口から火を噴いて、太陽を作る。三足烏は太陽神の使いであり、火烏、またはその眩い輝きの姿から、金烏とも呼ばれる────"」
蒼頡はそこまで話すと、一呼吸置いた。
広間の中は、しん……と静まり返っていた。
「話を聞くに……昨暁現れたというその烏は、ただの化け烏ではござりませぬ。
太陽を司る神の使い……おそらく、扶桑樹に棲むという、十羽の烏の内の一羽でございましょう。
原因はわかりませぬが、何らかの理由でこの国に迷い込み、そして誰かが、その神の使いを、怒らせた」
蒼頡が、何もかも見透かすかのような大きな瞳を鋭く光らせ、屋敷の奉公人達に向き直った。
「────この屋敷の中の誰かが……金烏に何かしたのです」
蒼頡が、低い声で言った。
広間に、不気味な静寂が流れた。
「屋敷内で烏の怪異が起こり始める以前に、三足烏について何か心当たりのある方が、この中に必ずいるはずです。
……皆様、いかがですかな」
蒼頡が、奉公人達をもう一度くるりと見回して、そう問うた。
その場にいる屋敷の奉公人達は、蒼頡にそう問われたものの、誰一人口を開かなかった。広間の一室は、再び、しん……と不気味に静まり返った。
「────どなたも、心当たりは無いようですな」
奉公人の中の誰かが何かを言い出すのを少し待った後、蒼頡が、ぽつりとそう呟いた。
「では……今から少しだけ準備をして、裏庭の池へ向かうとしましょう。
九重郎殿。案内の方、よろしく頼みます」
九重郎に向き直ってそう声を上げると、蒼頡は、綺麗な螺鈿細工が施された矢立と、和紙を五枚、懐からす、と取り出した。そうして矢立から筆を取り出すと、全ての和紙に、さらさらと、『聖』という字を書いた。その後、蒼頡が何やら口の中でぶつぶつと呪文を唱え始めると、『聖』という文字が書かれた和紙が、五枚とも全て、ぽうっ……と、淡く光り始めた。
和紙が光るのを確認すると、蒼頡は、
「与次郎。鴣鷲。
これを、この広間の入口と全ての窓に、一枚ずつ貼ってくれ」
と、与次郎と鴣鷲に向かって、爽やかに指示したのであった。




