第2話 黒屋敷
蒼頡、与次郎、鴣鷲の三人は、朝餉を済ませ身支度を終えた後、山奥の屋敷を飛び出し、あやかしが出るという、江戸郊外にある下屋敷へと向かった。
蒼頡が、白狐の姿に変化した与次郎の背に跨り、鴣鷲は与次郎の後に付いて、空中を低く飛び進んでいた。
出発の直前まで「俺も行く」と言い張りごねていた陸吾であったが、
「必要になれば呼ぶから、おぬしはここで待機していろ」
と蒼頡に説き伏せられ、渋々、屋敷に居残ることとなった。
与次郎がいつものように凄まじい速度で山中を駆けていると、蒼頡が、
「────烏が出たそうだ」
と、与次郎と鴣鷲に向かって言った。
「……烏でござりますか」
与次郎が聞き返した。
「うむ。
三日前の晩、屋敷に現れたそうだ。
烏が現れた直後から、屋敷の周りで次々と異変が起こり始めるようになったらしい」
蒼頡が言った。
「……いったい、どのようなことが起こったのでござりますか」
与次郎が訊ねた。
「それが烏が出たこと以外、屋敷の中の事がいっさいわからぬのだ。
明らかに、様子がおかしい。
これはおそらく……いや、確実に、もののけの仕業であることには違いない。
今からその屋敷を訪ねに行き、現地で詳しい者と会って、色々と話を聞くとしよう」
蒼頡がそう言って、瞳をきらりと光らせた。
「……烏……」
鴣鷲が真剣な表情で、ぽつりとそう呟いた。
◆◆◆
道中特に変わった出来事も無く、与次郎達は、異変が起きている江戸郊外の下屋敷へと、徐々に近づいていった。
与次郎は、背中に蒼頡を乗せたまま順調に野山を駆け進み、鴣鷲も遅れることなく、与次郎の後ろにしっかりとついてゆきながら、空中を飛び進んでいた。
そうしてもう間もなく、件の屋敷に到着する頃合になった。
屋敷に着く直前、突如、
"────ごうっ!"
と、嫌な風が、三人の身体を吹き抜けた。
与次郎、鴣鷲、蒼頡が、その不穏な気を一瞬にして、同時に感じ取った。
やがて、いよいよ目的地の付近まで辿り着いた三人は、その屋敷が目に入った途端、ぴり……と全神経を集中させ、警戒した。
「……なんだあれは」
与次郎が、思わず声を上げた。
異様な光景が、目に飛び込んできた。
────黒の大群であった。
道、門前、木々、塀、屋根、空など、屋敷の周囲に、何百羽もの烏の大群が、あちこちに蔓延っていた。
かー、かー、がぁー、と、屋敷の周りの至る所で、烏の鳴き声が途切れることなく、響き渡っている。
遠くから見ると、屋敷の外観は黒壁に黒色屋根の造りであるように見えたが、その黒い色は全て、烏の群であった。
与次郎は蒼頡を背から降ろし、しゅるしゅると、人間の姿に戻った。
屋敷の前まで徒歩で進み、烏を刺激しないよう、三人がゆっくりと門前まで近づいてゆくと、門前の周囲にいた烏たちがすぐさま反応し、
「かぁー! がぁー!」
と、与次郎たちを威嚇しだした。
その時、何匹かの烏が翼を広げ、三人をめがけて空から勢いよく、
"────があっ!!"
と襲い掛かってきた。
黒く太いくちばしが、蒼頡の目を狙って、一直線に向かってきた。
すると、鴣鷲が垂衣をぐるんと靡かせ、空中にふわりと浮き上がった。
直後、襲い掛かってきた烏たちに向かって、
"────ごうっ!"
と突風を巻き起こし、刺すような爆風を、襲い来る烏の群れに浴びせた。
襲い掛かろうとしてきた烏たちはあっという間に吹き飛ばされ、怯んで動きを止めた。
鴣鷲が烏の動きを止めてくれたその隙に、蒼頡はすかさず門戸を“どんっ、どんっ”と力強く叩き、
「もし! 噂をお聞きしてやって参りました、江戸の陰陽師でござります! 門を開けていただけませぬか!」
と、中の者を呼んだ。
ところが、門番が出てこない。
与次郎が、“どんっ!”と門に体当たりしたが、門はびくとも動かなかった。
鴣鷲は、烏の群が怯んでいる隙にひらりと優雅に空を飛び、塀の上から門の内へ、ふわりと回り込んだ。そうして、内側の重たい閂を下から上に押し上げ、"がこんっ!"と外した。
ぎいい……と軋音を立て、門が開いた。
蒼頡と与次郎は、その隙間から滑り込むように、門の中へと駆け込んだ。
その時、蒼頡と与次郎の顔を目がけて、十羽以上の別の烏の群が、またしても襲い掛かってきた。
烏が飛び込んでくる寸前、与次郎が素早く門戸を閉め、蒼頡が、鴣鷲が外してくれた閂を、上から下に“がこんっ!”と下ろした。
門戸に、
“────ばんっ!“
”────だんっ!────どんッ!"
と、烏が次々にぶつかる音が響いた。
"────────ごうっ!"
鴣鷲が、門の上で白い羽根を舞い散らしながら、襲い来る烏たちに向かって再び爆風を巻き起こした。
鴣鷲の風によって何十羽もの烏が吹き飛ばされると、蒼頡と与次郎は屋敷の玄関まで急いで駆けてゆき、“どんどんどんっ”と、戸を三回叩いた。
「誰かおりませぬか! 中に入れていただけませぬか!」
蒼頡が声を上げた。
そう叫んで中の音を聞き、蒼頡がもう一度戸を叩こうとしかけた、その時。
錠を外す音ががちゃがちゃと鳴り、玄関の戸が、
"────ばんっ"
と、勢いよく開いた。
開いた扉の向こうに、三人の男が立っていた。
槍を持った男が一人、奥に木刀を持った男が一人、貧相ななりの男が一人、身構えながら立っている。
屋敷の奉公人の男たちであった。
「────早く中へ!」
扉のすぐ手前にいた、槍を持った男が、蒼頡に向かって叫んだ。
蒼頡、与次郎、鴣鷲は、言われるがまま、急いで玄関の土間の中へと滑り込んだ。
槍の男が素早く扉を閉め、錠をかけると、“────どんっ!”と烏が扉にぶつかる音とともに、
「かぁー! がぁー!」
と恨めしそうに鳴く声が、外で響いた。
蒼頡達は、屋敷の奉公人の男たちによって、無事屋敷の中に入ることができたのであった────。
◆◆◆
外に蔓延っている大量の烏の群の騒がしさとは打って変わり、屋敷内は昼間でも薄暗く、不気味なほど、しん……と静まり返っていた。
与次郎は一呼吸置くと、屋敷の中では烏の襲撃が無い様子であることを肌で感じ、ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
蒼頡も、ふう……と息をつき、ゆっくりと呼吸を整えた。
……が、すぐに、蒼頡が異変に気付いた。
屋敷の奥に潜む、血肉を切り裂いてくるような強烈な“怨”の気を、蒼頡は瞬時にその身に、感じ取った。
与次郎と鴣鷲も、同時にぴくりと神経を集中させ、屋敷の奥の方からくる禍々しい"怨"の気の端切れを、肌でびりびりと感じ取っていた。
蒼頡の顔つきがみるみる変化し、いつになく、険しい表情になった。
屋敷内は、先程三人が外で感じていたものとは桁違いの、黒く不快な殺意の靄の渦が、充満していた。
(────中の方が危険だ)
蒼頡が心の中で、ぽつりと呟いた。
「────大丈夫か。怪我は」
槍を持った男が、落ち着いた頃合を見計らって、蒼頡と鴣鷲に声を掛けた。
木刀を持った男と貧相な恰好をした平民の男が、槍の男の背中から、蒼頡と鴣鷲の様子を覗き込んでいる。与次郎の姿は、三人の男たちには見えていなかった。
槍の男と木刀を持つ男は、その姿から、この屋敷に雇われている中間であると、蒼頡は思った。もう一人の貧相ななりの男は、同じくこの屋敷の使用人で雑用係の、小者であろうと思われた。
「────ええ、大丈夫です。助けていただき、かたじけのうござります」
蒼頡が、笑顔で答えた。
「あんたたちは、いったい……」
握り締めている木刀をさらに強く"ぎゅっ"と握り直した後ろの男が、青ざめた顔で、蒼頡に問うた。
蒼頡はすー……と一呼吸置くと、穏やかな口調で、
「わたくしは、江戸の陰陽師でござります。
風の噂で、こちらの屋敷に怪異が出るというのをお聞きいたしましたので、原因を探るために、江戸からやってまいったのでござります。
こちらの市女笠の者は、わたくしの式でございます」
と、最後に鴣鷲を見やりながら、そう言った。
すると、
「────……なんと……!
それはまことでござりますか!?」
と、突如、奥から女の声がした。
見ると、土間の奥に、女が二人、立っていた。
一人は初老で、黒髪に白が入り交じっている。
もう一人は、一見すると齢が十五、六ほどの、若い女中であった。
「……もしやあの……江戸で評判の、名のある陰陽師様ではござりませぬか⁉」
若い女中が、蒼頡に向かって言った。
女中の言葉に、その場の空気が一変した。
小者の男が目を見開いて蒼頡を凝視し、
「……なに⁉ まことでござりまするか!」
と、声を上げた。
蒼頡は少し間を置くと、
「……ふむ。
正直、そのような噂には興味がござりませんので……。
今はとりあえず、外にいる烏の大群と、この屋敷に起こった怪異について、詳しくお聞かせいただきたいと存じますな」
と、目の前にいる五人に向かって言った。
その時。
「……皆そんなところで、何を固まっているのだ」
奥からまた、声がした。
見ると、今度は腰に刀を二本差している、一人の男が立っていた。
小袖袴の上に羽織を着用し、顔を見るとまだ若く、見るからに若党であった。
「円蔵様。
この屋敷の噂を聞きつけて、陰陽師様が来てくださいました」
木刀を持った男が、いかにも若党らしき男に向かって言った。
「外の烏のことと、屋敷の怪異について、詳しくお聞きになりたいとのことでございますが」
続けて槍を持った男が、円蔵に向かって言った。
蒼頡は、円蔵と呼ばれている男の顔を、じっ、と見つめた。
円蔵という名の若党は、蒼頡と鴣鷲の姿をちらりと一瞥すると、
「……陰陽師……。ふん。
まあとにかく、そんなところでは話になりませぬ。
中にお上がりくだされ」
と言って、屋敷の奥の間へと、蒼頡達を誘ったのであった。




