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蒼頡の言霊  作者: 逸見マオ
第7障
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第10話 呉越同舟



 蒼頡と狡は、十日ぶりに、山奥にある蒼頡の屋敷へと帰ってきた。


 雪に覆い尽くされた門をくぐり、二人は揃って、屋敷内に入った。


 心地()い安心感に包まれながら奥へと進み、玄関に一番近い次部屋の前を、二人が通り過ぎようとした時であった。


 ふと部屋の中を見た蒼頡が、突如ぴたりと、足を止めた。

 後ろを歩いていた狡は、突然止まった蒼頡の背中に、危うくぶつかりそうになった。


「おっと……。急に止まるんじゃねえよ、蒼頡!」


 狡が蒼頡に向かって腹蔵ふくぞう無く、ずば、と言い放った。

 蒼頡は無言のまま、次部屋の奥の方を、じっと凝視していた。


 狡は、視覚に入っていなかった部屋の中を、蒼頡の背中側から、ひょいと覗いた。

 見ると、蒼頡の式神である白百合、白菊、水仙の三人が、部屋の隅で身を寄せ合い、震えていた。


「……なんだ?

 あいつら、様子がおかしいじゃねえか」


 狡が、三人の女達に顔を向けながら、蒼頡に向かって言った。


 蒼頡は、怯えている女達の顔を優しい眼差しでじっと見つめると、やがて三人の方へゆっくりと近づいてゆき、一定の距離を保ったところで、足を止めた。

 そのまま、女達に向かって、穏やかな表情を浮かべた。


「……三人とも。怖い思いをさせて、すまなかったね」


 蒼頡が、白百合、白菊、水仙の三人に向かって、申し訳無さそうに声を掛けた。


 女達の周りに渦巻く張り詰めた空気がすう……とほぐれるのを確認すると、蒼頡は優しく微笑んでから、す、ときびすを返し、軽やかな足取りで、屋敷の奥にある大広間の方向へ、つかつかと歩みを進めていった。


「おい、蒼頡待て」


 狡が呼び止めたが、蒼頡は狡の呼び掛けを無視し、脇目も振らず、屋敷の奥に向かってずんずんと歩いていった。


 狡は、その場でちっ、と舌打ちをすると、少し苛立ちながら、三人の女達が身を寄せ合っている次部屋の前から、蒼頡の背中を追うように、ゆっくりと離れていった。


 そうして縁の上を歩いていくと、やがて大広間が見えてきた。

 蒼頡が大広間に近づいてゆくと、大広間から中庭に出る広縁の真ん中に、背の低い猿のような男が、胡座あぐらをかき、どっかりと座り込んでいる姿が見えた。


 蒼頡の後についていた狡は、座り込んでいる男の背中が目に入った途端、はた……と身を固くし、ぴたりと、足を止めた。


「……!?」


 狡は、鼻をひくひくと動かし、すん、と匂いを嗅いだ。


 狡の表情が、みるみる険しくなった。


 蒼頡は、とんとんと軽やかな足取りで、広縁に座り込んでいる男の元に、一直線に近づいていった。


 足音に気付いた男が、首を後方にぐるんと動かし、蒼頡と狡の姿を目で捉えた。

 直後、男は鋭い目つきで二人をぎろりとめ付け、



「────……待ちくたびれたぜえ……!!


 てめえら! やっと帰って来たなあ!!」



と、開口一番、屋敷中に響き渡るほどの、凄まじい怒声を上げた。


 狡が、目をいた。


「────な゛っ……!!

 なんででめえがここにいやがるんだ!?」


 狡が思わず声を上げると、広縁の周りに渦巻く空気が"ごうっ……!"と振動し、びりびりと肌を貫くような激しい怒りの気が、辺り一面に充満した。


 蒼頡は全く動じず、にこにこと穏やかな笑みを浮かべながら、


「いつからそこにいたのですか。幽鴳」


と、広縁にどっかりと座り込んでいる男に向かって、爽やかに声を掛けた。



 広縁に座していたのは、幽鴳であった。

 瑠璃が言っていた客人というのが幽鴳のことであることを、狡はそこで悟った。



「……いつからだと!?」


 幽鴳が聞き返した。

 胡座あぐらをかいたまま、幽鴳は全身にぐっ、と力を入れた。

 幽鴳は、十日前に会った時より頰がこけ、全身がやつれていた。


「────あの雪の日の晩、逃げたと見せかけて、俺は気付かれないようにお前らの後をつけて、この屋敷にやって来たのさあ。

 それからずっと、俺はこの屋敷の中にいたんたぜえ。

 てめえの屋敷に来たら、酒がたっぷり飲めると聞いたからなあ!


 ところがだ!


 ちょいとこの屋敷内を探ってみたら、酒なんかどこにもありゃしねえ。

 てめえらがいねえ間に、俺はこの広いお屋敷の中を、隅から隅まで調べ尽くしていたのさあ」


 幽鴳が、ゆっくりと立ち上がった。



「酒なんかありゃしねえ……! 騙しやがったな……!!

 この幽鴳様が、このまま黙って引き下がれるかよ……!


 せっかく来たんだ。屋敷ここを出る前に、一発お前らの顔をぶん殴ってやろうと、ここでこうして……待っていたのさあ」


 幽鴳が再び、蒼頡と狡を鋭い目つきで、ぎろりと睨んだ。


 蒼頡は、相変わらずにこにこと穏やかな笑みを浮かべながら、幽鴳を見つめていた。


「……ふむ。そうでありましたか。

 しかしその腕を見るに……、それでは殴るどころか、瓶子も持てまい」

 蒼頡が、幽鴳の片腕をちらりと見て言った。


 十日前の晩、狡に何度も咬まれていた幽鴳の片腕が、下に向かって力無く、だらりと下がっていた。

 骨が折れたままの状態で適切な処置もせず、放置しているようであった。


 幽鴳が、蒼頡と狡の顔を、じろりと見た。


「そうさ……。

 てめえらが俺の腕をこんな風にしちまったせいで、酒すらも盗みに入れなくなっちまった。

……だが、まだこっちの腕が生きてる。

 一発や二発、てめえらを殴るだけの余力は、充分に残ってるんだぜ……!」


 幽鴳は、顔を真っ赤にしながら、凄まじい怒りの気を“ごうっ……!”と放った。


 その気迫を浴びるのと同時に、狡が蒼頡の前に、一歩出ようとした。

 蒼頡は、左腕をごく自然にするりと伸ばし、前に出ようとした狡を、制止した。

 今にも殴りかかって来そうな目の前の男に向かって、蒼頡が口を開いた。


「幽鴳。嘘では無い。

 酒はある」


 蒼頡が、幽鴳の目を真っ直ぐに見て言った。

 幽鴳の耳が、ぴくりと動いた。


 周りに渦巻く怒気が、“ぶわりっ……!”と、激しさを増した。


「嘘では無い」

 蒼頡が、もう一度言った。


「式神となって私の元に仕えるならば、そなたの望む酒が出ると、そう言ったではないか。

 まだ私の式にもなっていないそなたに、この屋敷から、酒は出ぬ」


 蒼頡が、きっぱりと言った。

 幽鴳は、蒼頡の顔をじっと睨み続けていた。


「わかっておったはずだ。

────そなた本当は……、わたくしの式として仕えるために、この屋敷に来たのだろう」 


 蒼頡が言った。


「……何言ってやがる」

 幽鴳が、静かに言った。



「自分でも気づいておらぬ、そなたの本心を聞かせてやろうか」

 蒼頡が、幽鴳に向かって言った。


「……本心?」

 幽鴳が聞き返した。


 蒼頡の瞳が、きらきらと光っていた。




「そなた酒は好きだが、盗むのは嫌いであろう」




「……」


 幽鴳は、押し黙った。



「酒は欲しいが、金が無い。異国の地から来たおぬしに、頼れる人物も行く当ても無い。

 そなたには、盗むしか手が無かったのだ。


 しかし、物を盗むという行為を、本心では望んでいない。こそこそと隠れて盗んだ酒を飲むなぞ、そなたの本意では無いのだ。美味い酒を飲み一時的に霧が晴れたような心持ちにはなるが、果たしてしばらく経てば、また自身の胸の内に灰色に澱んだような靄が繰り返しかかってくる。


 だから、わたしの屋敷に来たのだ。

 式となって仕えれば、その対価として正当に堂々と酒を飲めると感じたのだ。


 そなたのその常人を逸する凄まじい力は、通常の人間の感情なぞ簡単に脅かすことができる。その辺の人間を殺してしまうことだって、容易にできる。

 しかし、そなたは殺さない。無理矢理奪うことをしない。

 そなたの所作、動作、機微、目の動き、手の動きから足のつま先までの動き────。

 荒々しい言葉とは裏腹に、そなたの動きは実に繊細である。

 優しい男なのだよ。


────幽鴳。

 わたくしの式となりなさい。

 式となれば、盗まずとも、この屋敷で美味い酒が飲めます。

 そなたの精神が、そなたが思っている以上に気高く崇高であることを……わたくしは見抜いております」


 言い終わった蒼頡の瞳は、きらきらと輝いていた。


 幽鴳は、険しい表情を崩さないまま、蒼頡をじっと凝視していた。

 その場で微動だにせず、蒼頡の話を黙って聞いていた幽鴳であったが、しかし話の途中途中で自身の両耳だけはじわじわと赤く染まり、その耳が何度か小刻みに、ぴくぴくと痙攣していた。


 蒼頡の言葉を後ろで聞いていた狡は、目を見開いて驚き、


「おいっ蒼頡! こいつのどこが繊細な動きだよ! どこが気高く崇高だってんだ!

 優しさなんて微塵も感じ取らなかったぜ、俺は!!」


と叫んだ。


 蒼頡は、あはは、と爽やかに笑った。


「あの時は二人とも、己の感情に支配されておったからな。

 どれ、幽鴳。そなたの腕を治しましょう」


 そう言うと、蒼頡は懐から、綺麗な螺鈿細工が施された矢立と和紙を、するりと取り出した。


 幽鴳は一瞬、ぐっと力を入れ身構えたが、蒼頡はお構いなしに幽鴳の元へつかつかと歩み寄り、幽鴳の目の前でさらさらと、和紙に『癒』という字を書いた。そして口の中で、なにやらぶつぶつと、呪文を唱え始めた。


 やがて『癒』の字が淡く光り出すと、怪我でだらりと下がっている幽鴳の片腕を取り、『癒』と書かれている和紙を、ぐるりと巻き付けた。


 和紙に包まれた腕がじんわりと温かくなり、あの雪の日の晩からずっとずきずきと感じていた腕の痛みが、次第に和らいでいった。


 幽鴳が、

「……な……」

と言葉を探しながら驚き、思わず蒼頡の瞳を、ぐっと見た。


 蒼頡はにこにこと微笑むと、

「楽になっただろう」

と言った。



 そして、 


「幽鴳。

 そなたのいみなは、何と申すのですか。

 式神となるには、諱が必要なのです」


と、続けて言った。


 幽鴳は黙ったまま、蒼頡の目を凝視していた。


「そなたのことを、ただの盗人のまま放っておきたくはないのです。

 そなたのもつ、優れた気高き精神を無視して、ただ欲に流されるまま、むざむざと邪の道に堕ちてほしくなど、無いのですよ」


 蒼頡が、力強い声で言った。



 その瞬間、幽鴳の瞳に、めら、と一筋の炎が灯った。


 幽鴳の双眸が、その炎によって、みるみる生気を取り戻していくのが、はっきりとわかった。


 澱んでいた瞳が、ぎらぎらと輝いてゆく。


 炎に見えた瞳の中のそれは、やがて星のように、きらきらと瞬き出した。




「────けっ。なんだそりゃ。


 まるで俺様を救ってやるとでもいうような言い方じゃねえか。

 気に食わねえぜえ……。


 この幽鴳様を、ただの盗人と一緒にするんじゃねえよ。

 くだらねえ……。そんなくだらねえ男じゃねえぜ、俺様は……!!


 確かにてめえの言う通り、行く当てなんか、どこにも無え。この国で知ってる奴なんざ、誰一人いねえ。


 そうだな。

……諱なんざ、俺様には無いぜ。


"邊春山(へばるさん)の幽鴳"


 俺様の呼び名は、それしか無えさ」




 幽鴳が言った。




「邊春山の幽鴳。なるほど」


 蒼頡が、にっこりと微笑んで言った。



「蒼頡とか言ったな。

 そこまでてめえが俺様を望むんなら、仕方ねえ……。


 式神とやらになってやるぜ。

 お前の元に仕えてやる。


 この屋敷の居心地も、正直ほんの少しだけだが、気に入っちまったしなあ。

……その代わり!!


 報酬はきっちり貰う。


 対価として……俺様にたっぷり、酒をくれよ」


 幽鴳が、弾けるように、そう叫んだ。



 狡が、青ざめた。


「おいおいッ、冗談だろ!!」


 狡がそう叫ぶと、蒼頡はにこにこと嬉しそうに微笑みながら、


「決まりだ。

 狡、幽鴳。これから同じ屋根の下で暮らすことになる。時に助け合い、協力し合わなくてはならないこともあるだろう。

 二人とも、仲良くするのだぞ」


と、二人に向かって言った。



……すると。


「いや。それとこれとは話が別だ。

 こいつとは、今後一切、関わらねえ。


 式として役目があるとき以外は、屋敷の中でも一切会わねえし、口も利かねえ!!」


と、幽鴳がきっぱりと言い放った。


「……その言葉、そっくりそのままお返しするぜ」

 狡が、幽鴳に向かって、咬み付くように言い放った。


 互いの双眸をぎろりと睨み、狡と幽鴳はまたしても、あの雪の日の夜のような激しい攻防を繰り広げんばかりの凄まじい気迫を、それぞれの全身から放ち出した。


 びりびりと痺れるような怒りの気流が、屋敷の中庭に、ごうごうと渦巻き始めた。



 その時、二人の間に立っていた蒼頡が、


“────ぱあんっ!!”


と一発、手を大きく叩いた。


 蒼頡が手を叩いた瞬間、怒りの気流が、ふ、と途切れた。



「そこまで! この屋敷で暴れてはならん。

 あ。そういえば!

 すっかり忘れておりましたが、お前たち。


 明日の朝もう一度、あの燃えてしまった酒蔵の場所まで、行かねばなりません」


 蒼頡が、声を張り上げて言った。



「あ? なんでだよ?」


 怒りの気を逸らされた狡が、蒼頡に向かって聞いた。



「酒蔵の主人と、火事の依頼主に言付ことづけてありました。

 さあ。夕餉をいただいたら、今宵はもう休みましょう。

 明朝、あの場所の前で、生きた牛と酒が、そこで待っているはずです」


 蒼頡がにこにこと笑いながら、狡と幽鴳に向かって嬉しそうに、そう言ったのであった。






◆◆◆





「────そうして次の日の朝、酒蔵の前に行くと、依頼主と酒蔵の主人が我々を待っていた。

 それで牛を一頭と、徳利とっくり一つ分の獨酒どぶろくを、礼にくれたのだ。


 ところが、二人ともその礼に納得しなかった。

 本当ならもっと多く手に入っていたはずの好物の品が、ほとんど減ってしまった形で返ってきたからだ。

 なだめるのに、また苦労した」


 ほろ酔いの蒼頡が、にこにこと愉しそうに笑いながら、そう言った。


「……なんとも、骨を折るような……圧倒されてしまうお話でございました。

 幽鴳様はそうして、蒼頡様の元に来られたのでございますね」


 与次郎は、目をきらきらと輝かせながら、幽鴳に向かって言った。



「……けっ。

 別に思い出したくもねえ昔話だぜ……」


 顔を真っ赤に染めた幽鴳がそう言って、ぬるくなった燗酒を、ちびりと呑んだ。



 外の景色を見ると、いつの間にか雪が止み、明るい冬の陽の光が、蒼頡の屋敷や山々を照らし始めていた。


 白く輝く澄んだ世界を横目でちらりと眺めながら、与次郎は炬燵の暖だけではない、じんわりとした心地の良い温もりを、胸の奥底から手足の指先の末端にまで、その身にしっかりと、感じ取っていたのであった。


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