第8話 掌善童子・掌悪童子
蒼頡は、火事の騒ぎに駆けつけた依頼主と酒蔵の主人に向かって、青い炎の火事の原因が宗源火という妖の仕業であることを明かした。
驚く二人に向かって、蒼頡は、
「宗源火を完全に鎮めるため、わたくしは明朝、京へ発ちます。
明日から数えて十日の間に、青い炎の怪火がこの町で一度たりとも起きなければ、宗源火は無事、わたくしの手で完全に鎮めることができたと信じていただいて、間違い無いでしょう」
と言った。
未だ消えることなく轟々と燃え続けている青い炎を、依頼主や酒蔵の主人、集まってきた周囲の町民達がおぞけながら凝視していると、蒼頡が、
「……ところで、御二方にわたくしから一つずつ、お願いしたいことがございます」
と、依頼主と酒蔵の主人に向かって言った。
現世で彷徨う宗源火の魂を鎮めるため京へ発つことを告げた蒼頡は、明日から数えて十一日目の朝、この場に再び戻ってくることを、依頼主に約束した。
二人に言付けた後、蒼頡と狡はその場を一旦後にし、仕切り直すため、揃って山奥の屋敷へと、ひとまず帰っていった。
◆◆◆
────次の日の早朝。
蒼頡は狡の背中に跨り、京にある壬生寺へと向かった。
幽鴳から受けた強烈な一撃により、あばら骨を折る大怪我を負った狡であったが、蒼頡の力によって完治とはいかないまでも、江戸から京まで走り抜く力が出るほどにまで、体力は回復していた。
途中宿場町で寝泊まりなどし、二日後の夕刻に、二人は京の洛外西院の南にある壬生寺へと辿り着いた。
着くと同時に、蒼頡はすぐさま寺の門を叩いた。
少し待つと、寺の若い僧侶が、門から顔を出した。
事情を伝えると、蒼頡は、住職に今すぐ面会したいという旨を、その僧侶に告げた。
事情を聞いた若い僧侶は、門前で少し待つよう蒼頡に伝えると、一旦、奥へと引っ込んだ。
しばらく経ち、僧侶が再び蒼頡の元に舞い戻ると、僧侶は門を大きく開け、寺の中へと、蒼頡を招き入れた。
「……どうぞ、こちらへ」
若い僧侶は、寺の本堂の方へと、蒼頡を案内した。
狡も、蒼頡の後に続いた。
本堂に案内された蒼頡は、中に入る寸前、ぞくり……と、自身の肌が粟立つのを感じた。
直後、蒼頡の瞳が、きらきらと輝いた。
本堂内の内陣が、蒼頡の真正面に見えていた。
内陣の中央に、金色に輝く光背を背負い、額の中心に白毫を持つ地蔵菩薩像が、右足を曲げ左足を下げて座す半跏趺坐の姿で、静かにそこに、鎮座していた。
右手には錫杖を持ち、左手に宝珠を持っている。
地獄に落ちる直前の宗源の記憶の中に現れた地蔵菩薩尊、大定智悲地蔵に、瓜二つな姿であった。
宗源の記憶の中の菩薩は目を閉じていたが、目の前にいる地蔵菩薩像の両目は、しっかりと見開いていた。
その双眸が、蒼頡と狡の姿を、真っ直ぐに見つめていた。
「────刻様でございますね」
地蔵菩薩像を凝視する蒼頡に向かって、突如静かに現れた壬生寺の住職が、そう声を掛けた。
蒼頡は、住職の方に向き直った。
「大体のご事情は、お聞きいたしました」
住職が、蒼頡に向かって言った。
蒼頡は、住職に向かって、
「……真冬の夜更けに、突如押しかけてきた無礼を、どうかお許しください。
住職殿に、不躾なお願いごとがあって、急遽やってまいった次第でございます」
と、慇懃に言った。
「どうか、お気になさらず。
私どもにできることでしたら、どうぞ何でも仰ってください。
一体、どのようなことでございましょう」
壬生寺の住職が、聞き返した。
蒼頡は、きらきらと澄み切った瞳で住職を見つめると、
「明日から数えて六日の間、こちらの地蔵菩薩尊の御前で護摩を焚き、ご祈祷させていただきたいのです」
と言った。
「宗源火の魂を地獄の炎から救い出し、成仏させてやりたいのです」
蒼頡が、続けて言った。
住職は、蒼頡の澄み切った輝く瞳を、じっと見た。
その瞳の奥に、揺るぐことのない決意の炎が静かにゆらゆらと燃え上がっているのを、住職は見逃さなかった。
住職は、
「わかりました。
では、今から手配をいたしましょう」
と、爽やかに言った。
その言葉を聞いた瞬間、きらきらと輝くような笑顔を見せると、蒼頡は、
「……まことに、有難うござります」
と礼を言い、住職に向かって、頭を下げたのであった。
◆◆◆
────次の日の朝。
壬生寺本堂の襖や戸はしっかりと閉じられ、中では護摩が焚かれていた。
閉ざされた本堂内、地蔵菩薩像の鎮座する内陣の手前に、蒼頡は座していた。
蒼頡の左右斜め後ろに、住職の信頼する壬生寺の高僧が、一人ずつ、座していた。
宗源火の魂を鎮めるため、六日間、この三人が交代で、読経を続けることとなった。
昨晩、このことを蒼頡から聞いた狡は、寺の中で六日もじっと待っていられないことを咬みつくように吠え立てると、蒼頡に向かって六日後に戻ると言い残し、早朝、まるで烈風のように、寺を飛び出していった。
両瞼を閉じ、“すぅぅー……ふぅぅー……”と、深い呼吸を五回ほど繰り返し、精神を集中させた蒼頡が、口を開き、読経を始めた。
「────……如是我聞、一時佛在、佉羅佗山……────」
蒼頡は、目を閉じたまま姿勢を真っ直ぐに正し、延命地蔵菩薩経を、諳んじた。
斜め後ろに座していた二人の高僧は、蒼頡のその姿を見た途端目を見開いて吃驚し、深く感心したのち、やがて蒼頡のあとに続いて、六日に及ぶ長い読経を、開始したのであった。
◆◆◆
────蒼頡と壬生寺の二人の高僧が、本堂内陣の地蔵菩薩像の御前で読経を開始してから、丸五日が経った。
本堂内は、焚いている護摩の香りが充満していた。
この五日間、蒼頡も僧侶たちも、口にしているのは僅かな水だけであった。
厠へ行く回数を極力減らすため、水分ですら、唇を薄く濡らす程度で、あまり多くを取ることは無かった。
三人は交代で仮眠を取り、昼夜を問わず、読経を続けていた。
────そうして、五日目の夜になった。
蒼頡は一人、読経を続けていた。
意識は朦朧としていた。
空腹と疲れから、気を抜くと今にもその場にふらりと倒れ込んでしまいそうなほど、体力を消耗していた。
声は掠れ、頭も身体も、全身が重く、気怠かった。
それでも、蒼頡が読経をやめることはなかった。
気がつくと、後ろにいる僧侶たちが、すやすやと寝息を立てていた。
いつもであれば、仮眠を取る直前と起床時に鈴を鳴らし、蒼頡にわかるように合図をするはずであるが、五日目ともなると、流石に僧侶たちも疲労と空腹の限界がいよいよきてしまったらしいと、蒼頡は思った。
二人とも揃って倒れてしまったのだろうかと、蒼頡が疲れた頭で思考し、枯れた声で読経を続けていると、突然右側の後方から、
「────おい」
と、声がした。
右斜め後ろの高僧が、寝言を言ったと、蒼頡は思った。
「────……時二童子……侍立左右……一名掌善……在左白式……持白蓮華……調御法性……────」
蒼頡は、読経を続けた。
「────……一名掌悪……在右赤色……持金剛杖……降伏無明……────」
その時。
「────おい!」
またしても、右側後方から、声がした。
それは、子どもの声であった。
突如、一輪の白い蓮の花が左側からふわりと現れ、蒼頡の視界に入ってきた。
直後、右横から“ぬうっ……”と、真っ赤な肌のひとりの童子が、眉間に皺を寄せながら、蒼頡の鼻先と自身の鼻先が触れるかというほどの至近距離で、蒼頡の顔を覗き込んできた。
蒼頡は、目を剥いた。
心臓が大きく跳ねたが、蒼頡はいたって冷静に、読経を続けた。
「……呼んでおるのに、なぜ振り向かぬのだ!
顔を見せぬか!」
怒っているかのような険しい表情を浮かべている赤い顔の童子が、蒼頡の鼻先が当たるかというほどの近い距離で、そう言った。
すると、左斜め後方から、
「……ふふっ。
いつになく嬉しそうでございますね。掌悪童子」
という、別の子どもの声がした。
蒼頡は、読経を止め、左後ろを振り返った。
見ると、左右斜め後ろにいるはずの二人の高僧の姿が、どこにもいない。
代わりに、透き通るような白い肌をもったひとりの童子が、輝く白い蓮の花を両手で持ち、にこにこと穏やかな笑みを浮かべて、左後方の高僧がいるはずのその場所に、凛と、佇んでいた。
「どういう意味だっ。掌善童子!」
赤い顔の童子が、白い童子に向かって、吠えるように言った。
「どうって、そのままの意味でございますよ。
この御方のことが、気になって、仕方がないのでございましょう?」
白い童子が、赤い童子に向かってそう言った後、蒼頡の顔を真っ直ぐに見つめ、にこにこと穏やかな笑みを浮かべた。
「……ふん!
そういうお前こそ、この男に興味津々っていう顔をしてるじゃねえかっ。掌善童子!」
赤い童子が、白い童子に向かって言った。
白い顔の童子は、にこにこと満面の笑みを浮かべながら、
「……ふふっ。そうですね。
仰る通りでございます。
……貴方様は、不思議な力をお持ちでございますね」
と、蒼頡に向かって言った。
そして────。
「────……さて。
では、そろそろ……────宗源殿を迎えに行ってまいりましょうか。掌悪童子」
白い童子が、赤い童子に向かって優しい眼差しを向けながら、そう、声をかけたのであった。




