第6話 業火
僧侶の部屋に行ったあの日の夜から、宗源の心は穏やかではなくなった。
常にざわざわと胸の内が落ち着かず、念仏を暗唱し、寺の雑務をこなしても、自身の心が晴れることは無かった。
あの日以来、宗源は夜になると、僧侶に呼び止められることが多くなった。
狭い寺の中で、頼りにしていた僧侶に頻繁に暴行されるようになった幼い宗源は、肉体的にも精神的にも、追い詰められていった。
日が経つにつれ、宗源の表情はみるみる翳っていった。
────────やがて、寺の中でいくら仏の道を学んでも心は救われないことを、宗源は悟った。
仏の教えを説く言葉が僧侶の口から吐き出されるたび、虚しく響くその言葉の余韻が、下流に堰き止められた芥のごとく、宗源の鼓膜に残留した。
蓄積された言葉の残響が、次第にじわじわと鼓膜を突き破り、循環する血流のように、その言葉が一瞬で宗源の脳から心臓の奥底へと侵入した。
小坊主の純粋な心の泉を、言葉の芥がざわざわとかき乱してゆき、宗源の心の水底に、汚泥のように沈殿していくばかりであった。
宗源が十二の齢になった時、いつものように僧侶に肩を叩かれた宗源は、とうとう、覚悟を決めた。
その日の晩、僧侶の目を盗んで部屋を抜け出し、宗源は、寺に火を付けた。
火はあっという間に、寺全体に燃え広がった。
急いで寺の外へと飛び出し、どくん、どくんと高鳴る胸の鼓動を感じながら、宗源ははあはあと息を荒げ、瞬きも忘れ、全速力で、寺から逃げ出した。
渦巻く炎と崩れゆく寺の音が辺り一面に響き渡り、火が赤々と夜闇を照らしながら、ごおごおと激しく燃え上がっていた。
火が届かない安全な場所でようやく足を止め、燃え上がる寺の様子をそこからしばらく見つめると、宗源は左右の奥歯をぐっ……、と噛み締め、全身をぶるりと一度だけ震わせた後、燃え盛る炎に背を向け、ゆっくりと片足を一歩前に踏み出し、ひとり、寺を後にした。
────それから各地の寺を転々とし、紆余曲折を経た宗源は、二十五の齢に、洛外西院の南にある、壬生寺地蔵堂にゆくことになった。
壬生寺に移ると、宗源は悪事を働いた。
毎晩人目を忍び、壬生寺の賽銭や灯油を盗むようになった。
大人に成長した宗源は、よこしまな考えをもつ、醜い悪僧へと、成り下がっていた。
盗んだ灯油は、町に行き、高値で売った。油は高級品であったため、高く売れた。
宗源は、そうして手に入れた金を使って、酒に女にと、毎晩豪遊するようになった。
やがて盗みや酒や女に溺れる毎日を繰り返すうちに、宗源はついにその悪事が見つかり、役人に捕まった。
死罪となった宗源は、首を切り落とされ、処刑された。
────────死んでしまった宗源の魂は、肉体から離れた後、何日も何日も、暗闇の中を彷徨い続けた。
行けども行けども、周りは闇であった。
どこに行ったら良いのかもわからない不安が募り、延々とこの闇を彷徨い続けるのだろうかと、魂だけとなった宗源が途方に暮れ始めた、その時。
────突如遠くに、ぽっ、と小さな光が微かに浮かび上がっているのが見えた。
宗源は、ぱっと目を輝かせると、その小さな光の方向に向かって、無我夢中で走り出した。
光が消え去ってしまわないよう、急いで近づいていくと、光は次第に大きくなった。
宗源がさらに光の方に近づいてゆくと、やがて、その光の中に、人の形をした何かが見えた。
「……あ……」
光の正体に気づいた宗源は、思わず目を見開き、声を漏らした。
光の中にいたその人物は、額の中心に白毫があり、袈裟を纏っていた。
剃髪され、右手には錫杖を持ち、左手に宝珠を持っている。
瞳は閉じたまま、背に光輪を背負い、その円光が、闇の中で一際眩く輝いていた。
地蔵菩薩・大定智悲地蔵。
六道の一つである、地獄道の菩薩である。
生前、曲がりなりにも僧侶であった宗源が、壬生寺の中で毎日拝していた見慣れたその御尊容が、煌々と静かにそこに、光り輝いていた。
光り輝く大定智悲地蔵は、宗源が目の前に来ると、徐々に後方へ、音もなくすー……と遠ざかっていった。
「────あっ……!
……おっ……お待ちくだされ……!!」
遠ざかる地蔵菩薩に向かって、宗源が叫んだ。
すると、暗闇で何も見えていなかった足元が、突如“ごごごご……”と音を立て、揺れ始めた。
ぐらぐらと揺れる足元の揺れに耐え切れず、宗源は、ぐらり、と体勢を崩した。
すると、足元の地面がびきびきと音を立てて割れ始め、割れた地面の隙間から、真っ青な炎が、
“────ぼっ!!”
と噴出した。
地割れはどんどん大きくなり、噴出する青い炎も、それに比例してごうごうと広がった。
突如、宗源の視界がぐらんっ、と大きく揺れ、足元を見た。
首と胴体が、宗源が生前処刑された時のように、二つに分裂した。
分裂した首は凄まじい速度で、割れた地面の青い炎の中へ、そのまま吸い込まれるように落ちていった。
「────────ああああああ……!!」
首だけになった宗源の口から発せられた悲痛な叫び声が、渦巻く青い炎の中で小さく響き渡り、目から溢れ出ていた大粒の涙も、地獄の炎の中へ、ただただ虚しく、消え去っていくばかりであった────。




