第5話 宗源
青い炎を纏った坊主の生首は、諸白が入った瓶子を長い舌で器用に掴み、その瓶子をぶらぶらと揺らしながら、雪が舞い散る夜闇の宙の中を、どろどろと妖しく浮かんでいた。
蒼頡と狡が突如現れた生首に意表を突かれていると、坊主の生首が、次第に霧のように、薄くなり始めた。
坊主がまたしても、瓶子を持ったままその場から消え去ろうとしてゆくのが、幽鴳にはわかった。
幽鴳の全身から、空気が一変するほどの激しい怒気が、ぶわりっ……!と放出した。
坊主が嘲るようににたりと嗤い、三人の前から闇の中へ瞬く間に消え入ろうとした、その時────。
白い毛をふさふさと生やした巨大な太い腕が、凄まじい速さで坊主の頭に向かって突如、ぐんっ!と伸びた。
その腕の先にある、鋭い爪を持つ大きな手の平が、逃げ去ろうとする生首の頭頂部を、一瞬で、
“────ガッ!”
と掴んだ。
坊主の生首は頭を掴まれ、その場でがくんっ、と動きを封じられた。
幽鴳の手によって、坊主は身動きが全く取れなくなった。
青い炎がめらめらと燃え、坊主の頭を掴んでいる巨大な手の平が、
“────じゅうううう……”
と音を立てながら、煙を出した。
幽鴳は、焼けている自身の手の平を坊主の頭から一切離さないまま、鼻の上にぐぐ……と皺を寄せ、怒気を含んだ凄まじい声音で、
「……てめえ……! もう逃がさねえぜ……!!
この幽鴳様を……、これ以上……舐めるんじゃねえ……!
俺の諸白を……返しやがれ!!」
と、坊主の生首に向かって、噛み締めるように言い放った。
直後、頭を掴んでいる手と反対の手で坊主の持つ瓶子をがちっと掴むと、瓶子を握りしめた手を思い切り、
“────ぐむんっ!!”
と引っ張った。
"────────……ぶちぶちぶちぶちっ……!!"
幽鴳が瓶子を引っ張ると同時に、辺りに凄まじい音が鳴り響いた。
瓶子を掴んでいた坊主の長い舌を引きちぎった際の、痛々しい滅裂音であった。
幽鴳は坊主の舌ごと、諸白の入った瓶子を、もぎ取った。
「────……お゛おおお……────っ!!」
坊主は瓶子ごと舌を引き抜かれ、目玉が零れ落ちるかというほど瞼を大きく見開き、喉の奥から、野太い叫び声を上げた。
幽鴳は、坊主の頭を持つ腕を、ぐんっ……!と思い切り振り上げた。
「────────う゛らあっ!!」
振り被った幽鴳は、燃えている坊主の生首を、狡と蒼頡の方へ向かって、思い切り、
"────────ぶんっ!!"
と、振り投げた。
青い炎を纏った坊主の生首が、狡の顔を目掛け、凄まじい速度で飛び込んでいった。
狡は、
「────っ……んな゛!!」
と、突然飛んできた生首に素早く反応し、間一髪で、その首を避けた。
坊主の生首は、今度は狡の後方にいた蒼頡の方へ向かって、飛んで行った。
「────むっ!」
蒼頡は飛んでくる生首を冷静に見定め、ぎりぎりのところで身を躱し、すんでのところで、上手く避けた。
すると坊主の生首は、蒼頡が引き連れていた五頭の牛の内、先頭にいた一匹に、
“────どうっ!!”
と、思い切りぶつかった。
あまりの衝撃に、五頭の牛全てが、坊主の生首とともに皆一斉に地面から弾き飛ばされた。
「────ぶもおおおお……っ」
雪の上にどうっどうんっ、と倒れていった牛たちが、悲痛な叫び声を上げた。
生首の青い炎が牛たちに燃え移り、五頭の牛たちが、みるみる炎に包まれ出した。
火に包まれていく牛たちを目の当たりにした狡の両目が、飛び出るかと思うほど、大きく見開いた。
「────────……な゛ああああっ!!
お……俺様の牛がっ……!!」
狡がそう叫んだ直後、牛たちは生きたままごうっ、とあっという間に焼き尽くされ、一瞬で灰になってしまった。
白い煙が空中にふわふわと漂い、あとに残った灰は、やがて白く降り積もる雪の上に混じり、消え去った。
「……!!」
狡は、言葉を失ったまま、煙の出ている白い雪の上を、しばらく見つめた。
「────お゛おおお……」
坊主の生首は、雪の上で痛みに悶えた後、やがてぼろぼろと、涙を流し始めた。
坊主の哀しみの念が、じわりじわりと、辺りに拡がっていった。
蒼頡は、坊主の生首に、ゆっくりと近づいた。
雪の上で炎に包まれている坊主の生首を、蒼頡はじっ……と見つめた。
「……何故、そのような姿になってしまったのか……。
そなたの、過去の記憶────。
すまぬが……、少し見せていただきます」
蒼頡は、『顕』と書いた和紙を、炎を纏った坊主の顔の上に載せ、口の中でぶつぶつと呪文を唱え始めた。
『顕』と書かれた和紙は、淡い光を放った後あっという間に青い炎に包まれ、坊主の顔の上で、
“────ぶわりっ!”
と燃え上がった。
和紙が燃え去ったあと、『顕』という字だけが、光りながら坊主の顔の上に残った。
『顕』の字は、坊主の額にすう……と吸い込まれるようにして、消え入った。
すると、坊主の過去の記憶が、蒼頡、狡、幽鴳の頭の中に突如、まるで水のように、すー……っと、流れ込んできた。
◆◆◆
そこは、寂れた寺であった。
幼少の頃の、坊主の記憶である。
名を、宗源といった。
宗源は、両親を知らなかった。
赤子のとき、寺の前に捨てられているのを一人の僧侶が見つけ、そのまま寺で育てたと、聞かされていた。
宗源は、物心ついた頃から寺でよく働き、掃除や飯の支度などの雑務をこなし、また、勉強熱心であった。
宗源が、八つの歳になろうという時。
冬の寒さがまだ残る、早春の日の晩のことであった。
その日、いつものように宗源は寺の雑務を終え、他の数人の小坊主たちとともに部屋に戻り、床につこうとしていた。
すると突然、宗源は一人の僧侶に、背中から呼び止められた。
振り向くとそこにいたのは、赤子の宗源を最初に見つけた、恩人の僧侶であった。
宗源を八年もの間、ずっと面倒見ていた僧侶であった。
「────宗源。すまないが、今から部屋に来てくれないか。
大したことではないんだが」
宗源は、この僧侶を心の底から信頼し、尊敬していた。
自分だけが呼び止められた、その特別扱いに心が躍り、宗源は自尊心を高めた。
「かしこまりました」
宗源は、素直に応じた。
部屋に行くと、僧侶は部屋の全ての戸をぴたりと閉め、宗源に向かって、
「……良いか、宗源。
今から起こることを、決して他の小坊主たちに話してはならぬぞ。
……良いか」
と言った。
僧侶の気迫に、宗源はごくり……と、生唾を呑み込んだ。
「……かしこまりました」
宗源が、僧侶の目を真っ直ぐに見て言った。
「……これから起こることとは、いったい……」
宗源が僧侶に問うた、直後。
宗源は、僧侶にぐんっ、と、腕を掴まれた。
凄まじい力であった。
僧侶は、宗源を自身の胸の内へ抱き寄せると、宗源の口に、自分の唇を重ねた。
突然の出来事に、宗源は驚愕し、逃れようともがいた。
しかし、八歳の宗源の力では僧侶の力に適わず、無駄な抵抗であった。
口を塞がれたまま、僧侶の手が、宗源の衣服の下へと入ってきた。
宗源は、目を見開いた。
暗闇の部屋の中で、自分に覆い被さってくる僧侶が、自分を喰おうとする鬼に見えた。
────────宗源の、地獄のような苦難の一生が、始まった瞬間であった。




