第1話 雪見酒
目が覚めると、顔の表面が氷のように冷えていた。
障子から漏れ出る冬の旭光が、いつもより明るく感じられる。
吐く息は白く、冷たい外気が肌を刺し、その痛いほどの感覚から、与次郎は外の景色が白銀で覆い尽くされていることを悟った。
しばらく横になっていたが、与次郎は意を決し、ゆっくりと、布団から起き上がった。
全身をぶるりと震わせて障子を開け放つと、大粒の雪が、部屋に幾つか舞い込んできた。
与次郎の思った通り、目に映り込んだ中庭や山の景色は一面、真っ白であった。
初雪である。
まるでこの世の全てを浄化し尽くしてしまうようなその新雪が、外へ続く屋根下の縁にまで、しんしんと静かに降り積もっていた。
与次郎は、布団内で一晩温めていた褞袍を外へ引っ張り出すと、急いで袖を通し、雪に覆われた外の縁へ、ひょい、と飛び出した。
そうして、縁の雪を器用に避けながら、褞袍の袖に手を引っ込めたまま、しんしんと降り続く雪景色を横目に、いつもの大広間へと向かって行った。
寒さに耐えながら外の縁をいそいそと歩いてゆくと、やがて楽しそうに談笑する男達の声が、大広間から聞こえてきた。
歩を進めると、わいわいと賑わう声が、次第に近づいてくる。
その愉しそうな声が耳に入る度、与次郎は心が少し躍った。
半分程雪が降り積もっている広縁を通り抜け大広間を覗くと、ちょうど中庭がよく見える位置に、蒼頡と幽鴳、陸吾の三人が、炬燵で暖を取りながら燗を飲んでいた。
三人が顔を合わせて入っていた炬燵は、火鉢の上に櫓を置き、その上に布団を被せた簡易的な炬燵であるが、五、六人は余裕で入れるほどの大きさであった。
炬燵の横には火桶が三つあり、それぞれに五徳が置かれ、上に乗った鉄瓶の中に入った湯が白い湯気をしゅうしゅうと出しながら、寒い部屋に僅かな温もりを与えていた。
幽鴳は、目の前にあった燗酒の残りをぐい、と一気に飲み干すと、
「……くう〜っ!
美味いっ!」
と、顔をいつもより更に赤く染めながら、満足そうに声を漏らした。
蒼頡が与次郎に気づき、
「与次郎、起きたか。
風邪を引くぞ。
おぬしも中に入れ」
と、優しく声を掛けた。
与次郎は、三人の愉しそうな雰囲気に自然と心を弾ませながら、
「……では、失礼致します」
と、陸吾の隣に座し、炬燵に足を入れ、一息ついた。
氷のように冷えていた足先に血が巡り、炬燵の温もりがじんわりと、与次郎の体温を取り戻してくれた。
「与次郎。おぬしも飲め!」
陸吾が、ほんのりと桃色に染めた頬を与次郎に向け、目の前にある器に燗酒を注ごうとした。
しかし与次郎は器を手に持たず、陸吾の目を真っ直ぐに見つめた。
「……む。なんだ。
おぬし、下戸か!」
陸吾が言った。
「……一滴も飲めねえのか!」
陸吾が続けて聞くと、与次郎はこくり、と頷いた。
すると幽鴳が、与次郎をまじまじと見つめた後、頭を横にふりふりと二度振り、
「……っかあ〜!!
与次郎よ。
まさか飲めねえとは……。
てめえは人生を半分以上、損してやがるぜえ……!」
と、おでこを右手で抑えながら、芝居じみた口調で言った。
蒼頡が、つまみの豆腐や魚、大根や味噌汁を指し、
「与次郎、つまみを食べなさい」
と、笑顔で言った。
与次郎は、
「有難うござります」
と礼を言い、箸を持った。
「ふむ。
……ま〜確かに、幽鴳の言う通りかもなあ。
ちょうど良い。酒の味を覚えろ、与次郎!」
陸吾が、与次郎に向かって再び燗酒を差し出した。
「……いえ、申し訳ござりません。
全く飲めないのです」
与次郎は申し訳なさそうに、しかしきっぱりとした口調で、陸吾から差し出された酒を断った。
蒼頡が、少しぬるくなった燗酒を一口飲んだ後、
「……下戸と言えば、狡も呑めぬ口であったな」
と言った。
すると、幽鴳が眉間に皺を寄せ、口をへの字にした。
「……蒼頡さまよ。
あいつの名は口にしねえでくだせえ。
せっかくの美味い酒が、不味くなりやすぜえ……」
幽鴳がそう言って、とくとくと、蒼頡の器に燗酒を注ぎ足した。
「そういえば、幽鴳。
お前と会ったのはちょうど……まさに今朝のような……雪の降る日の夜であったな」
蒼頡が言った。
「……あーまあ……確かに、そうでございやした。
……あの日のことは、忘れもしませんぜえ……。
人生最悪の夜と言っても、過言ではございやせん」
幽鴳がそう言って、器から今にも溢れ落ちそうな程に注いだ燗を、零さないよう、口に含んだ。
「ああ、おまえらが出逢った時の話か」
陸吾が、つまみの焼魚を頭からばりばりと食べながら言った。
「……一年ほど前、冬の江戸で、火事が毎晩起こっておったのだ。
初めは人の仕業かと思うていたが、家を焼き尽くすその火は、普通の炎では無かった。
青い炎だったのだ」
蒼頡が言った。
「もののけの火か」
陸吾が聞いた。
「そうだ。
朝までその青い炎は消えず、毎夜江戸の家々を焼き付くしていた。
やがてもののけの仕業だと気づいた者が、私を江戸へ呼んだのだ。
そのもののけを退治した際の褒美が、生きた牛五頭であった」
蒼頡が、懐かしそうに言った。
幽鴳は顔を顰めながら、酒を一口含んだ。
「……まさかその火事、おぬしの仕業か!」
陸吾が幽鴳に言った。
幽鴳が目を見開き、
「阿呆!!
この幽鴳様が、そんな程度の低いことなんざするかっ」
と叫んだ。
すると、
「おぬし、あの時酒屋の酒を盗んでいたではないか。
やってることは変わらぬぞ」
と、蒼頡がすかさず突っ込み、幽鴳は黙った。
が、すぐにまた口を開いた。
「……あれは思い出したくもねえ出来事でございやすぜえ……」
幽鴳がそう言って、ぬるくなった燗酒を、再び一気に飲み干した。
────────それはちょうど一年前、凍える程寒い日の、真冬の夜の出来事であった。




