第12話 鬼女の正体
まるで、 水中を漂っているかのような感覚であった。
肉体にかかる身体の重みは、一切感じない。
海中を当て所なく漂う微生物の如く────。
その心地の好い空間に、蒼頡は自分の身を委ねていた。
────最初は、暗闇であった。
やがてそこは、闇の中に小さな光の粒が無数に散りばめられた、四方八方がどこまでも果てしなく続く、ひとつの巨大な空間になった。
小さな光の粒は、時おり近くにある粒と引き合ってぶつかり合い、静かに激しく、閃光を散らした。
ぶつかり合った衝撃で細かく砕けた光の粒子が、褪せることなくその場で輝き続けていた。
上も下も、遠くの方でも、あちこち至るところで、浮いている光の粒同士がお互いに引き合い、ぶつかり合い、音も無く散り散りに細かく砕け、小さくなって、そのまま輝き続けた。
なんとも素晴らしく、美しい光景であった。
蒼頡は、まるで夜空に浮かぶ無数の星たちの一部になったかのような感覚になっていた。
深い呼吸を繰り返しながら、蒼頡はふわふわと、その不思議な空間を漂っていた。
(────ここは……。
龍の腹の中か)
暗闇の中に無数に浮かぶ光の粒子と粒子の間をゆっくりと漂いながら、蒼頡はそう思った。
蒼頡がしばらくの間、その神秘的な空間に酔いしれた状態でふわふわと漂っていると、やがて前の方から、周りの光の粒より少し大きな光が、蒼頡の方に近づいてくるのが見えた。
よく見るとその光は、人の形をしている。
────近づいてきたその光の正体は、鬼女であった。
鬼女は、岩窟内での恐ろしい形相とは打って代わり、角も牙も生えていない若く美しい女性の姿で、白く整った顔を苦しそうに歪めながら、蒼頡の目の前で止まった。
見ると、鬼女の足先が光りながら、まるで闇に溶けるように、徐々に消え入っている。
「────────…………直に死ぬる」
鬼女が、苦悶の表情を浮かべながら、蒼頡に向かって言った。
苦しそうな様子で、死が間近に迫っていることを悟り、また、覚悟している顔つきであった。
「地獄逝きじゃ」
そう言うと、女はふっ、と鼻で笑い、直後、眉間に皺を寄せ、一筋の涙を流した。
蒼頡は、目の前で苦しそうに顔を歪める白く美しい女性の姿を、黙って見つめていた。
鬼女はしばらくの間黙していたが、やがて観念したかのようにゆっくりと、その紅い口を開いた。
「────……今際の際ぞ。
教えてやろう。
……我の名は、末喜じゃ」
流した涙を拭うことも無く、鋭い眼差しを蒼頡に向けながら、女が名乗った。
蒼頡は瞼をぐっと開き、その大きな瞳を、きらりと光らせた。
「────末喜────。
夏・桀王の王妃であるな」
蒼頡が聞き返した。
────夏・桀王
紀元前千九百年頃から四百年以上に渡って続いたとされる、中国史書に残っている同国最古の王朝が夏王朝である。
その夏王朝の最後の君主が、第十七代の桀王である。
末喜は、桀王から寵愛を受けた妃の一人である。
前漢時代の学者・劉向が書いた歴史書『列女伝』によると、
「(末喜は)容姿は美しかったが徳が薄く、邪悪な心を持ち、道に外れ……(中略)
酒の池を作り、船を浮かべ、太鼓の一打ちを合図にその酒を三千人もの人々に牛のように飲ませ、人々を牛馬のように繋ぎ、そこで酔って溺死するものを笑った」
とある。
美しい末喜に溺れた桀王の暴挙によって、夏王朝は滅んだとされている。
「────人間としての肉体が滅びてからも、鬼となり……三千年以上生きておった」
末喜が言った。
「……流石に、ただ毎日山に隠れて人を喰らうだけの暮らしに飽きておった。
また昔のように、華美で優雅であったあの頃の暮らしに戻りたいと願い、機を狙っておったのだ。
すると、そなたの噂が我の元に舞い込んできた。
そこで、決めた。そなたの子どもを産むと。
そなたの血を受け継ぐ未来の帝王をこの身に宿し、母となって、この世のすべてを思い通りに支配する……。
その願いを胸に、遠くはるばる……この異国の地まで……海を渡ってやってきた。
紅葉という伝説の鬼がこの地にいたことを知り、心が躍った。
紅葉の生まれ変わりと偽れば、そなたをこの地までおびき出せると思うた」
身体から光の粒子を出しながら徐々に消えゆく末喜が、そう語った。
蒼頡は、消えゆく末喜の姿を、黙って見つめていた。
「……う……」
末喜が顔を歪め、苦しそうに唸った。
末喜の身体はもう半分以上、消えてなくなっていた。
「…………なぜそなたは消えぬ」
末喜が苦悶の表情を浮かべながら、蒼頡に問うた。
蒼頡は、少し考えた後、やがて口を開いた。
「────……わからぬ。
私もこうしている間に、やがてそなたと同じように、ここで消え去ってゆくのかもしれぬ。
……ただ、ひとつ気づいたことがある」
何もかも見透かすような大きな瞳をきらりと輝かせ、末喜から目を逸らさないまま、蒼頡が言った。
「……なんじゃ」
末喜が、聞き返した。
「……この龍の腹の中が、真の、天岩戸の中であるということだ」
蒼頡の言葉を聞いた直後、苦悶の表情を浮かべていた末喜の顔が、少し呆けた。
蒼頡のその言葉を聞く頃には、末喜の姿はすでに、顔の半分しか残っていなかった。
末喜は、口の端を歪めた。
「……ふ……。
……そうか……どうりで見つからぬわけだ。
神のおわした磐戸は……龍の腹の中であったか────」
最後に一言そう言い残し、直後、末喜は光りながら、蒼頡の目の前からとうとう、跡形もなく消え去った。
末喜のいた場所から大量の光の粒子が四方八方に雲散し、闇に浮かぶ光の粒の中に混ざり合っていった。
末喜が消え去った直後、今度は、他の光の粒子とは明らかに異なる、紫色に光り輝く小さな石ころのような丸い塊が、蒼頡の目の前に、ゆっくりと近づいてきた。
紫色に光る塊は音も無く蒼頡に近づくと、蒼頡の胸の前で、ふわふわと浮きながら、静かに止まった。
蒼頡が手を伸ばし、その丸い塊を、右手でそっと掴んだ。
すると、紫色に輝く光線が、蒼頡の右拳の指と指の間から
“────カッ!”
と飛び出し、その光で、蒼頡の全身を紫色に包み込んだ。
同時に、目を開けていられないほどの、金色に輝く眩い閃光が、蒼頡の目の前から辺り一面に突如ぱっ、と拡がり、あまりの眩しさに、蒼頡は思わず目を瞑った。
右手の中、そして、全身にもじんわりとした不思議な温かさを感じながら、輝く金色の光の渦の中へ、蒼頡は為す術もなく、まるで何かに導かれるかのように、奥へ奥へと、吸い込まれていったのであった────────。