第3話 雷獣
烏山に入る手前で、刻は与次郎に、
「すこし、止まりなさい」
と言った。
与次郎が脚を止めると、刻は与次郎の背から降り、ふところから矢立と和紙を出した。
刻が持つその矢立は柄杓型で、七色に光る綺麗な螺鈿細工が施されている。
矢立から筆を取り出し、墨壺の蓋をぱかりと開くと、刻はその和紙にさらさらと、『聖』という字を書いた。
その『聖』と書いた紙に向かって、刻は低い声で、なにやら口の中でぼそぼそと、呪文を唱え出した。
すると、『聖』と書かれた紙がたちまち、淡い光を放ち出した。
煌々と、和紙全体が金色に輝いている。
和紙が輝く姿を見届けると、その光り輝く和紙を与次郎に渡し、刻が言った。
「この紙を、落ちないようふところにしっかりと持っていなさい」
「……これは……」
与次郎が聞いた。
「それを持っていれば、もののけからこちらの姿はしばらく見えません」
そう言うと、刻はもう一枚和紙を出し、同じように『聖』と書いて口の中で呪文を唱え、やがてその紙が淡い光を放ち出すと、矢立とともに、自分のふところの中へ、そっとしまいこんだ。
与次郎も言われた通り、和紙をふところの中へしまった。
すると、胸のあたりがじんわりと温かくなり、頭から足の先まで、体全体を何か、見えない衣で覆われた心地がした。
「よし。では、行きましょう」
刻が言った。
────与次郎が刻を背負って烏山に入ると、異臭が鼻をついた。
与次郎は思わず、口と鼻を片手で覆った。
腐臭が、風に混じって漂ってくる。
すると、
「……与次郎、ここを左へ」
と、背中で刻が指示した。
狩衣の袖口で口と鼻を覆っているらしく、籠った声であった。
「奥へ」
「この木の間を右へ」
指示通りに山の斜面をひたすら駆けて登り行くと、異臭は更に強くなった。
「近い」
刻がそう言ってから間もなく、今まで草木が密集していた道なき道から、与次郎は急に広い場所へ飛び出した。
二人は、息を呑んだ。
山伏や野盗、飛脚、旅の姿をした女こども、老人の屍体が、ざっと50体ほど、目の前に山となっていた。
馬の屍も10体ほど、屍体の山の間から見えている。
どの屍体も、身体の一部が欠けている。
腿の部分だけ抉られているもの
目から上が無いもの
左胸に大きな穴が空いているもの
女の身体は全て腑が無く、下腹部にぽっかり穴を空けて、血塗れのまま皆息絶えていた。
「……と、刻さま……」
与次郎は、目の前の凄惨な光景から目を離すことができないまま、震える声を絞り出した。
刻は与次郎の背から降り、目の前にある屍体の山をもう一度、鋭い目つきで見つめた。
「……喰われている」
刻が言った。
「身体の一部分だけを喰ろうて、この場に棄てているのだ」
刻の言葉を聞き、まるで塵芥のように棄てられている屍体の山を、与次郎は顔をしかめながら見つめた。
「……な、なんと、……む、むごいことを……」
震える声で、与次郎は言った。
「与次郎、あの後ろの木を見よ」
刻に言われ、与次郎は屍体から目を離し、ふ、と、屍体の山の後ろに高々と直立する、大きな木を見上げた。
太い幹に、注連縄がある。
その注連縄の一部分に焦げたような跡があり、そこが解れて今にも木の幹から落ちそうになっていた。
「……あれは、御神木でございますか」
与次郎が聞いた。
「……ふむ……」
刻は、何かを見極めるように、その木と注連縄をじぃっ……と睨んでいた。
と、その時、どんよりと灰色に曇っていた空が急に暗くなり、与次郎と刻の頭上に、みるみる黒雲が立ち込めた。
二人が天を仰ぐと、腹の底に響くような、低く重いどろどろとした恐ろしい声が、天から降ってきた。
「……におうぞ……におうぞ……」
はっ……、と息を呑み、与次郎は身構えた。
横にいた刻が右腕を素早く与次郎の前に出し、左手の人差し指を口に当て、小さく「しっ」と言った。
「……極上の……極上の……」
声が近づいてくる。
「……二匹おるな」
その瞬間、大きな雷鳴が轟いた。
と同時に、黒雲の中から凄まじい速度で、屍体の山の頂に何か落ちた。
与次郎と刻は、頂に降り立った化物を見た。
牛よりひと回り大きい。
胴が長く、足が前に二本、後ろに四本あり、全ての足に鎌のような鋭い爪がついていた。
その爪が屍体の山を踏みつけながら、屍肉を抉っている。
細く切れたような目つきで、鼠のような小さい耳、鼻先は猪のようで、口は顔の半分ほどの大きさであった。
黄色い眼をギラギラとさせ、体からはバチッバチッと音を立てながら、閃光が散っている。
黄色い犬歯を出しながら、その大きな口がにたりと開いた。
「…………知っておるぞ…………。
…………このにおいは…………」
刻と与次郎は、口と鼻を覆いながら、黙ってその化物の様子を見ていた。
与次郎は、山に入る前に刻からもらった和紙のことを思い出し、ふところにしっかり収まっているか、今一度手でそっと確認した。
『聖』と書かれたその和紙は、与次郎のふところの中でじんわりとした温かさを保ちながら、確かにしっかりと収まっていた。
目の前に刻と与次郎がいるのに、化物の目はそちらに焦点が合っていなかった。
気配は感じているが、二人の姿は全く見えていないようである。
和紙の結界が、効いていた。
「……逃がしたこと……どうにも惜しいと思うておった……。
……また紛れ込んでくるとは……。
……なんたる幸運……」
化物は辺りを探るように見渡しながら、ゆっくりと言った。
喋る度に、体からバチッバチッと閃光が散った。
「……しかも……さらにもう一匹……おるな……。
……感じるぞ……極上の……。
……法師か……それとも……」
言いながら、化物は屍体の山からゆっくりと降りてきた。
辺りを見渡し、猪のような鼻をひくひくと動かしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
(……と、刻さま……!)
与次郎は思わず、隣にいる刻に、祈るようにして小声で声をかけた。
すると目の前の化物がその声に反応し、二人がいる方向に細い目を素早く向けてきた。
「……そこだな……そこに……おるな……」
その瞬間、ぞわっ……と、与次郎の全身の身の毛がよだった。
すると刻は突然、再び自身のふところから、素早く矢立と和紙を取り出した。
化物から視線を外さないまま筆をとり、紙にさらさらと、『狡 』という字を書いた。
和紙は瞬く間に金色に輝き出した。
与次郎は迫り来る化物に震え上がっていたが、刻を見、光り輝く和紙を見るや、一瞬化物のことを忘れ、その和紙に釘付けになった。
『狡』と書いたその輝く和紙の中から、あの狛犬の時のように、何か大きなものが目の前にずぉぉっ、と飛び出し、ずん、と地面に降り立った。
飛び出したあと、和紙は白紙となり、ひらひらと宙を舞った。
「……む……」
化物が、突然目の前に現れたそれに驚き、動きを止めた。
「……な、なんと……」
与次郎も驚いていた。
目の前に現れたのは、人であった。
しかし、姿かたちは、ただの人ではなかった。
なりは男である。
髪は銀色で、さらさらとなびいている。
その銀色の髪の間から、大きな角が二本、生えていた。
白地に豹のような黒い斑点がついた、変わった服を着ている。
よくよく貌を見ると、眉毛は綺麗に生え揃い、一重で大きな黒い瞳を持ち、鼻筋もとおり、なかなかの男前であった。
男は、刻に視線をやり、与次郎を見、ぐるりと周りを見渡し、化物や屍体の山を見た。
そして、化物を直視したまま、口をひらいた。
「……こりゃぁいったい、どういう状況だぁ!? 蒼頡さまよぉ!」
“ごうっ……!”
と、大気が振動した。
森中に響き渡る、身体全体がびりびりと痺れる凄まじい声だった。
「……俺に何しろってんだぁ?」
男は続けて、低い声で言った。
刻はその言葉を聞き、化物を見据えながら言った。
「狡。あの雷獣の正体を知りたい。
手伝うてくれるか」
刻が聞くと、狡と呼ばれたその男は、刻が"雷獣"と言ったあの化物から視線を逸らさないまま、今度は静かに言った。
「……ふぅん……。
まぁ状況がよくわかんねぇが……、承知したぜぇ」
そう言うと、狡と呼ばれたその男は、刻と与次郎をちらりと見てから、化物の方をもう一度、じろりと睨んだ。
すると突然、目の前の雷獣が体を震わせながらバチバチと音を立て、眩しいほどの閃光を自分の体から放ち出した。
そして口を大きく開いたかと思うと、
「……喝ッ!」
と、凄まじい声を出した。
その途端、化物の体から、無数の光る針のような、鋭い小さな棘のようなものが、四方八方に飛び散った。
その棘が、刻と与次郎の方に、何十、何百という数で飛んできた。
「!! 刻さま!!」
与次郎が素早く、刻を庇うように覆い被さった。
「! ぐぁっ……!!」
与次郎が低い声で呻いた。
針ほどの小さな棘が、与次郎の肩や背中に何本も細かく刺さり、貫通した。
棘が刺さる度、じゅう……と焼ける音がし、刺さった部分から小さい煙が出た。
「与次郎っ!!」
刻が叫んだ。
その瞬間、雷獣が、今まで見えていなかった刻と与次郎の姿を捉えた。
和紙の結界の効果が、途切れてしまった。
雷獣の大きな口がめくれ上がり、黄色い牙がにぃ……っと出てきた。
「……見つけた……見つけた……。
……極上が三匹……。
……良い日じゃ……。
みんな……喰ろうてやる……。
……かかかか!」
言うなり、雷獣は目にも止まらぬ速さで鋭い鎌の爪を向け、刻と与次郎に襲いかかってきた。
「……狡ッ!」
刻が叫ぶより早く、
"ごりっ……"
……と山中に響く音とともに、それは現れた。
辺り一面に突如、霧のような靄がかかり、刻と与次郎の目の前に、十尺はあろうかという巨大な獣がぬぅ……っと現れ、雷獣の行く手を塞いでいた。
頭に、大きく立派な、牛のような角を二本生やしている。
体毛は白く輝き、その美しい白い毛に、黒い斑点が散っていた。
四つ足で、狼のような体つきをしている。
長くふさふさとした尾は二又に分かれ、優雅になびいている。
黒く大きな瞳で、顔はまるで豹のようであった。
その、豹の顔に牛の角を持った獣が、刻と与次郎に襲いかかってきた雷獣の首元に食らい付いている。
先程山中に響いていたのは、雷獣の喉に食らいついた際の音であった。
そして、
“……ごりごり……っ”
“ぶちんっ……!”
と、雷獣の喉元を噛み砕き、肉ごと噛みちぎる音が、再び山全体に響き渡った。
雷獣は声も出ず、その場にずしん……っ、と倒れ込んだ。
「……いったい、
────……誰を喰うだってぇ……!?」
噛み砕いた雷獣の喉元の肉をごくりと呑み込んで、血に染まった口元からにぃぃ……っと鋭い歯を見せると、瑞獣の姿になった狡が、黒い目を爛々とぎらつかせ、雷獣に向かって激語した。




