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蒼頡の言霊  作者: 逸見マオ
第6障
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第8話 磐戸



 凄まじい悪臭が鼻を突き、蒼頡は突如、目を覚ました。


────闇である。


 まぶたを閉じても、開いても、視界はくろ一色であった。


────光が無い。



 蒼頡は、していた。 


 じっとりとした不快な汗が、自身の全身にまとわりついている。

 村の中で、鬼女と対峙たいじした際にかいていた汗である。


────寒い。


 ぞわりと粟立つ独特の不快な冷気が、顔や首などの露出した肌の表面に、ひやりと刺さってくる。


 地面はごつごつと固く、尻やももの裏がひんやりと冷たい。


 汗が冷え、ぞくぞくと身震いの止まらぬ悪寒おかんが、蒼頡の全身を駆け巡った。


 漆黒の拡がる深淵の中から、ほのかに漂ってくる血生臭い悪臭が、蒼頡の鼻を逐一突いてくる。


────何も見えない。


 意識が冴え始め、聴覚や嗅覚など、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていくのを、蒼頡は感じていた。


 立ち上がろうと、ぐ、と手を動かそうとしたが、両手の自由が利かない。


 上半身が、両腕ごとがちがちに縛り付けられている。

 尻やももの裏と同様、背中にも、ごつごつとした固い感触があった。


 暗闇で何も見えないが、蒼頡は、自分の身体が大きな岩にくくりつけられていることがわかった。


「────……目覚めざめたな」


 女の声が、闇の中で反響した。

 く、く、く、と、押し殺すような笑い声が、続けざまに響いた。

 嬉しさを隠し切れない様子が、暗闇の中でもはっきりと伝わってくる。

 あの鬼女の声であると、すぐにわかった。


「────……ここがお前のねやか。

……何も見えぬな」


 蒼頡が、漆黒の中に潜む鬼女に向かって言った。


 鬼女は、


「ふ……。

 そなたの目がいことぐらい、知っておるわ。

 実は見えておるのだろう」

と言った。


 その言葉を聞いた直後、それまで何も見えなかった蒼頡の視界が徐々に暗闇に慣れ始め、黒一色だった周りの景色が、次第にぼんやりと、形を現し始めた。


 鬼女の全身を纏っている、禍々(まがまが)しいもやのような妖しい気が、暗闇の中、ぼう……と微弱に浮かび上がっているのが見える。

 蒼頡のいる場所から十歩ほど先の辺りに、ゆったりと腰掛けている鬼女の姿形が、残像のように薄ぼんやりと、闇に慣れ出した蒼頡の諸目もろめに見えた。


「ここはどこだ」

 蒼頡が、目の前にいる鬼女に向かって問うた。


「……ここか。

 ここは戸隠山とがくしやまの核……。

 天岩戸あめのいわとの中ぞ」


 鬼女が、素直に答えた。


「────……天岩戸だと?」

 蒼頡が聞き返した。


「そうじゃ」

 鬼女が答えた。


 すると、蒼頡は暗闇の中で瞳をきらりと光らせ、


「────また嘘をついたな」

と言った。


 蒼頡の言葉を聞いた瞬間、鬼女の全身を覆う妖しげな気が、ほんの一瞬、揺れ動いた。


「……嘘だと?

 なにが嘘か。

 嘘などついておらぬわ。

 この場所はまさしく、天岩戸の中ぞ。

 げんにここには、光が全く入っておらぬであろう」

 鬼女が、淡々(たんたん)と言った。


「……いや。

 ここは天岩戸の中では無い。

 もししんの磐戸の中ならば、おぬしのような者が、こうしてこの場に平気でおれるはずがない」

 蒼頡が言った。


 鬼女は、黙った。


 蒼頡は両目を閉じ、ふー……、と、深く長い息を吐いた。

 直後、周囲の闇に向かって意識を集中させ、全身の感覚を研ぎ澄ませた。


「────────この空気……。

 ここは、紅葉くれはの岩屋だな」


 蒼頡が、両目をゆっくりと開いて言った。

 鬼女は闇の中で、蒼頡の様子を、黙って見ていた。


「この場所はその昔、紅葉くれはが隠れていた岩屋であろう。

 磐戸いわとを根城にするつもりが叶わず、この岩屋を拠点としたな」


 蒼頡の声が、闇の中で低く響いた。


「……ふん。

 だからなんだというのだ。

 どこであろうと、二人で棲むことに変わりはない。

……この場所のことなど……どうでもよいわ」


 鬼女が、つまらなそうにそう言った。



「……おぬし……どこから来た。

 何者か。

 名を名乗れ」


 蒼頡が、漆黒に妖しく浮かび上がる化け物に向かって言った。


 その時、鬼女の残像がその場に す……と音もなく立ち上がり、大きくなった。


 く、く、く。


……女の噛み殺すような笑い声が、微かに聞こえた。


「────我が名は紅葉くれはだと、言っておるだろうに……」


 鬼女が、一歩ずつゆっくりと、蒼頡に近づき始めた。



「そなたはこの先……これから死ぬまで……一生ここで、暮らすのだ。

 我と共に人肉を喰らい、糞尿を垂れ流し……生きるしかばねとなるのだ。

 私はそなたの精を奪い尽くし、鬼の子を産む。

 その子どもが成長し、やがて八荒はっこうを支配する天下人となったあかつきには……。

 そなたは麒麟児きりんじの父親として、初めて日の目を浴びることになろうぞ」


 鬼女の全身に纏っている妖しい気が、蒼頡の目と鼻の先にまで近づき、大きくなった。

 ぞわりと身も凍るような冷たい女の手の甲が、蒼頡の右頬をそろりと撫でた。


「……い男じゃ」


 蒼頡の顔に、鬼女の息がかかった。


 ぎらぎらと血走る鬼女の双眸が突如目の前に現れ、蒼頡の瞳に、大きく映り込んだ。

 蒼頡は、その化け物の双眸から、少しも目を逸らさなかった。


 蒼頡の右頬を撫でた鬼女の手の甲が、蒼頡の顎から首、胸元へと舐めるように下がってゆき、やがて、蒼頡の着ている狩衣の懐の隙間に、ゆっくりと侵入し始めた。

 にたり……と妖しく笑う鬼女の口の両端から、血生臭く黄色い牙が、ぎらぎらと、飛び出していた。


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