第8話 磐戸
凄まじい悪臭が鼻を突き、蒼頡は突如、目を覚ました。
────闇である。
瞼を閉じても、開いても、視界は黒一色であった。
────光が無い。
蒼頡は、座していた。
じっとりとした不快な汗が、自身の全身にまとわりついている。
村の中で、鬼女と対峙した際にかいていた汗である。
────寒い。
ぞわりと粟立つ独特の不快な冷気が、顔や首などの露出した肌の表面に、ひやりと刺さってくる。
地面はごつごつと固く、尻や腿の裏がひんやりと冷たい。
汗が冷え、ぞくぞくと身震いの止まらぬ悪寒が、蒼頡の全身を駆け巡った。
漆黒の拡がる深淵の中から、ほのかに漂ってくる血生臭い悪臭が、蒼頡の鼻を逐一突いてくる。
────何も見えない。
意識が冴え始め、聴覚や嗅覚など、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていくのを、蒼頡は感じていた。
立ち上がろうと、ぐ、と手を動かそうとしたが、両手の自由が利かない。
上半身が、両腕ごとがちがちに縛り付けられている。
尻や腿の裏と同様、背中にも、ごつごつとした固い感触があった。
暗闇で何も見えないが、蒼頡は、自分の身体が大きな岩に括りつけられていることがわかった。
「────……目覚めたな」
女の声が、闇の中で反響した。
く、く、く、と、押し殺すような笑い声が、続けざまに響いた。
嬉しさを隠し切れない様子が、暗闇の中でもはっきりと伝わってくる。
あの鬼女の声であると、すぐにわかった。
「────……ここがお前の閨か。
……何も見えぬな」
蒼頡が、漆黒の中に潜む鬼女に向かって言った。
鬼女は、
「ふ……。
そなたの目が良いことぐらい、知っておるわ。
実は見えておるのだろう」
と言った。
その言葉を聞いた直後、それまで何も見えなかった蒼頡の視界が徐々に暗闇に慣れ始め、黒一色だった周りの景色が、次第にぼんやりと、形を現し始めた。
鬼女の全身を纏っている、禍々しい靄のような妖しい気が、暗闇の中、ぼう……と微弱に浮かび上がっているのが見える。
蒼頡のいる場所から十歩ほど先の辺りに、ゆったりと腰掛けている鬼女の姿形が、残像のように薄ぼんやりと、闇に慣れ出した蒼頡の諸目に見えた。
「ここはどこだ」
蒼頡が、目の前にいる鬼女に向かって問うた。
「……ここか。
ここは戸隠山の核……。
天岩戸の中ぞ」
鬼女が、素直に答えた。
「────……天岩戸だと?」
蒼頡が聞き返した。
「そうじゃ」
鬼女が答えた。
すると、蒼頡は暗闇の中で瞳をきらりと光らせ、
「────また嘘をついたな」
と言った。
蒼頡の言葉を聞いた瞬間、鬼女の全身を覆う妖しげな気が、ほんの一瞬、揺れ動いた。
「……嘘だと?
なにが嘘か。
嘘などついておらぬわ。
この場所はまさしく、天岩戸の中ぞ。
現にここには、光が全く入っておらぬであろう」
鬼女が、淡々と言った。
「……いや。
ここは天岩戸の中では無い。
もし真の磐戸の中ならば、おぬしのような者が、こうしてこの場に平気でおれるはずがない」
蒼頡が言った。
鬼女は、黙った。
蒼頡は両目を閉じ、ふー……、と、深く長い息を吐いた。
直後、周囲の闇に向かって意識を集中させ、全身の感覚を研ぎ澄ませた。
「────────この空気……。
ここは、紅葉の岩屋だな」
蒼頡が、両目をゆっくりと開いて言った。
鬼女は闇の中で、蒼頡の様子を、黙って見ていた。
「この場所はその昔、紅葉が隠れていた岩屋であろう。
磐戸を根城にするつもりが叶わず、この岩屋を拠点としたな」
蒼頡の声が、闇の中で低く響いた。
「……ふん。
だからなんだというのだ。
どこであろうと、二人で棲むことに変わりはない。
……この場所のことなど……どうでもよいわ」
鬼女が、つまらなそうにそう言った。
「……おぬし……どこから来た。
何者か。
名を名乗れ」
蒼頡が、漆黒に妖しく浮かび上がる化け物に向かって言った。
その時、鬼女の残像がその場に す……と音もなく立ち上がり、大きくなった。
く、く、く。
……女の噛み殺すような笑い声が、微かに聞こえた。
「────我が名は紅葉だと、言っておるだろうに……」
鬼女が、一歩ずつゆっくりと、蒼頡に近づき始めた。
「そなたはこの先……これから死ぬまで……一生ここで、暮らすのだ。
我と共に人肉を喰らい、糞尿を垂れ流し……生きる屍となるのだ。
私はそなたの精を奪い尽くし、鬼の子を産む。
その子どもが成長し、やがて八荒を支配する天下人となった暁には……。
そなたは麒麟児の父親として、初めて日の目を浴びることになろうぞ」
鬼女の全身に纏っている妖しい気が、蒼頡の目と鼻の先にまで近づき、大きくなった。
ぞわりと身も凍るような冷たい女の手の甲が、蒼頡の右頬をそろりと撫でた。
「……好い男じゃ」
蒼頡の顔に、鬼女の息がかかった。
ぎらぎらと血走る鬼女の双眸が突如目の前に現れ、蒼頡の瞳に、大きく映り込んだ。
蒼頡は、その化け物の双眸から、少しも目を逸らさなかった。
蒼頡の右頬を撫でた鬼女の手の甲が、蒼頡の顎から首、胸元へと舐めるように下がってゆき、やがて、蒼頡の着ている狩衣の懐の隙間に、ゆっくりと侵入し始めた。
にたり……と妖しく笑う鬼女の口の両端から、血生臭く黄色い牙が、ぎらぎらと、飛び出していた。




