第7話 梨
与次郎は、ふと、意識を取り戻した。
目を開けると、与次郎の側に寄り添う蒼頡と、市女笠を被った背の高い女の後ろ姿が見えた。
与次郎が上体を起こそうとすると、仰向けに寝ている自分の身体の鳩尾付近に、淡く光る和紙が載せられていることに気がついた。
与次郎が先ほど腹に受けた衝撃とその時の痛みが、和紙に書かれた『癒』という文字の輝きによって、治まっていた。
市女笠の女がゆっくりと後ろを振り返り、抱いていた赤子を、蒼頡にそっと預けた。
赤子は、息絶えていた。
市女笠の女は、再び鬼女の方へ向き直ると、垂衣の隙間から冷たい視線を向けながら、裸の鬼女をぐっ、と睨め付けた。
鬼女は、市女笠の女をじろりと見つめながら、
「……ふむ。
これも、式神か」
と言った。
すると、ごおお……という風音とともに鬼女の後ろでつむじ風が巻き起こり、与次郎の時と同じように、またしても大量の紅葉が、渦を巻きながら現れた。
「……鴣鷲……」
蒼頡が、市女笠の女に向かって声を掛けた。
鴣鷲がゆっくりと頷き、
「はい。
承知でござります」
と、透き通るような声で、蒼頡に応えた。
次の瞬間────。
千万の紅葉が、つむじ風によって勢いよく舞い上がり、
"────ごう……っ!!"
という轟音とともに、鴣鷲や蒼頡、与次郎めがけて、まるで生きている獣のように、束となって襲い掛かってきた。
するとその時、
"────ぶわりっ"
と、まるで綿毛のように、鴣鷲の身体の周りに突如、大きく白い羽根が幾十枚も光りながら、散り散りに舞い上がった。
直後、白い羽根は、夥しい量で襲い掛かってくる紅葉の大群に向かって、
"────ごうっ!!"
と吹雪のように一斉に突っ込んでいき、束になって襲い来る紅葉の勢いを、次々と制した。
激しい風と風がぶつかり合い、紅の葉と白い羽根が入り交じった上昇気流が、轟音と突風を生み出しながら、蒼頡達の目の前でごうごうと強い風の渦を巻き起こした。
蒼頡と与次郎が、激しさを増すその気流に気を取られていた、次の瞬間────。
紅葉と白い羽根が舞い踊る渦風の中から、全裸になった鬼女が、
"────どうっ────!!"
と、勢いよく飛び出してきた。
鬼女は、蒼頡をその目でしっかりと捉えながら、
「────来よ!」
と叫び、蒼頡に向かって一直線に突っ込んできた。
与次郎が がばっ、と飛び起き、蒼頡と鴣鷲の前に ざんっ、と飛び出した。
鬼女が与次郎に手をかける、その刹那────。
"────────……どどどどどっ!!"
────……目にも止まらぬ速さであった。
襲い来る鬼女の白い脇腹に、鴣鷲の白い羽根が何十枚も矢のように突き刺さった。
鬼女はその衝撃によって、村の端にある森の奥の方まで、思い切り、
"────────どうんっ……!!"
と、弾き飛ばされた。
風の気流がすうっ、と静まり、大量の紅葉と白い羽根が、ふ……っ、と、一瞬で消え去った。
辺りは、砂がぱらぱらと地面に落ちる音以外、何も聞こえなくなった。
「────与次郎さま!!」
与次郎の背中から突如、鴣鷲が叫んだ。
「!?」
突然名を呼ばれ、与次郎はびくりと身体を震わせた。
ぱっ、と後ろを振り向くと、鴣鷲の後ろにいたはずの蒼頡の姿が、消えている。
「……蒼頡様の気配が……。
どこにもありませぬ」
鴣鷲が、小さく言った。
その言葉を聞いた途端、与次郎の顔が、さっ……と青ざめた。
蒼頡がいたはずの地面の上に、赤子の亡骸が力無く転がっていた。
「────────あっはっはっは!!」
突如、鬼女のつんざくような高笑いが、村中に響いた。
与次郎と鴣鷲が、同時に空を見上げた。
「────陰陽師はもらった────
────ああ……嬉しや……────
────式神どもよ……────
────もうこやつに仕えなくてよい────
────ぬしらは自由の身ぞ────
────二度と会うことはあるまい────」
────────……その言葉を最後に、鬼女の声が村に響くことは、二度と無かった。
◆◆◆
与次郎と鴣鷲は、赤子の亡骸と鬼女が被っていた女の皮の残骸を、村から少し離れた森の奥の土の中に丁重に埋め、供養した。
与次郎は、赤子と母親が眠る土の中に向かって、眉間に皺を寄せながら目を閉じ、苦悶の表情で手を合わせた。
(……救えなかった……)
与次郎は自分自身を責めながら、二人の冥福を、心の底から祈り続けた。
一心に祈り続けている与次郎のその後ろ姿を、鴣鷲は垂衣の隙間から声もかけず、ただじっと、覗き見ているばかりであった。
しばらく経った後、
「……ん?」
と、与次郎が突如、声を上げた。
与次郎の様子に、鴣鷲が、
「……どうされたのでございますか」
と問うた。
与次郎は、自身の胸の辺りを、右の手の平で軽く "ぽんっ"と叩いた。
直後、懐の内に右手を突っ込み、中に入っていたものを、外に取り出した。
「……む……?」
与次郎が、息を呑んだ。
後ろから鴣鷲がするりと回り込み、与次郎の右手に持っているものを目で捉えた。
鴣鷲は、長い垂衣の隙間からまじまじと、それを見つめた。
それは、梨であった。
与次郎の片手より一回り大きい、実がぱんぱんに熟した、光る梨である。
与次郎が懐から取り出したのは、飯縄権現からもらい受け、蒼頡が落とさないよう自身の懐に大切にしまいこんでいたはずの、あの梨であった。
与次郎はわけがわからず、眉をひそめた。
「……何故、わたくしの懐にこの梨が……」
与次郎がぼそりとそう呟くと、鴣鷲が、
「この梨はいったい……?」
と、与次郎に向かって訊ねた。
与次郎がいきさつを話すと、鴣鷲はしばらく黙して思考をぐるぐると巡らせた後、やがて口を開いた。
「……なるほど。
与次郎さま。
……確信はござりませぬが……。
この鴣鷲……、
これからするべきことが、少し見えてまいりました」
鴣鷲が、光り輝く梨を見つめながら、そう言った。
「えっ」
与次郎が驚いて目を丸くし、思わず鴣鷲の顔を見つめた。
垂衣に隠れて顔がよく見えなかったが、近くで見ると、鴣鷲は顎が小さく、瞳は黒々と大きく、首が細く、あの鬼女に負けず劣らずの、美しい容貌であった。
「────行きましょう……与次郎さま。
あの下劣な鬼女から……、蒼頡様を、取り戻しに参りましょう」
瞳を熱く燃え滾らせた鴣鷲が、その目で与次郎の顔をぐっ、と見つめながら、熱の篭った力強い声で、そう言った。