第6話 鴣鷲
与次郎は、全身の皮膚が"ぞわりっ……"と粟立つのを感じた。
蒼頡と与次郎が、目の前にいる女をぐっ、と睨み、意識を女に集中させ身構えた、その時────。
そこにいたはずの鬼女の姿と、与次郎の腕の中にいた赤子の姿が、突如一瞬にして、同時に消えた。
与次郎は、腕の重みが突然解放されたことに はっ、と驚き、思わず左右の腕を見つめ、赤子の姿を探した。
すると蒼頡が、不意に、視線を上に上げた。
蒼頡の動きに気づいた与次郎が、蒼頡に倣って同じ方向に目を向けると、家の屋根上に、赤子の両足首を持ち、逆さにぶら下げながらにたりと嗤う、鬼女の姿があった。
与次郎は目を疑った。
今の今まで腕の中にいた赤子が、ほんの一瞬にして、全く気付かない内に鬼女に奪われたためである。
鬼女は、赤子の両足を高く持ち上げ顔の近くまで引き寄せると、蒼頡をじ……っと見つめながら、逆さに持っている赤子の未熟な片足の裏側部分──腿から脹脛、踵までの皮膚の表面を、ゆっくりと時間をかけ、自身の長い舌で、べろり……と舐め上げた。
与次郎が、
“────どうっ!!”
と、屋根上の鬼女に向かって飛び掛かった。
鬼女は、与次郎に攻撃される前にその場から姿を消し、一瞬にして、隣の家の屋根上に移動した。
与次郎は、屋根上にいるはずの鬼女が突如姿を消し移動したため、身体が行き場を失い、態勢を崩し、屋根上でどうっ、と倒れた。
鬼女は、倒れている与次郎に向かって、
「……ふ……。
まだ喰わぬわ」
と言った。
与次郎が、ぎんっ、と鬼女を睨んだ。
すると鬼女は突然、思い出したかのように与次郎に向かって言葉を続けた。
「……おお、そうじゃ。教えてやろう。
お前の言う通り、これは、この赤子の母親じゃ」
与次郎に向かってそう言うなり、鬼女は突如、赤子を持つ手と反対の手で、自身の頭頂部を上からがしっ、と掴んだ。
その掴んだ頭に、“びちりっ”と五本の爪を食い込ませ、その手にぐっ、と力を込めると、鬼女はそのまま顔の真下に向かって腕を思い切り引き下げ、
"────……びちびち……べちべちッ……べりべりッ……べりべりべり……ッ!"
という物凄まじい音を発しながら、自身の頭から腰辺りまでの皮を、自らの片手ひとつで、一気に剥いだ。
悍ましい光景であった。
与次郎はまたしても、目を疑った。
その剥いだ皮の中に、血まみれになった全く別の女が、現れたのである。
黒く長い髪を結い上げ、額を出し、白い肌に美しい切れ長の瞳、唇は紅く熟れており、先程皮を剥ぐ前とは全く別人の、身震いするほどの美女が、その女の身体の中から血まみれの状態で、姿を現したのである。
皮を剥いだ後の女は、腰から上が裸であった。
白く長い首に豊満な美しい乳房、細い腕が血に染まり、白昼の光に照らされ、その裸体を隠すことも無く露わにしていた。
腰から下は剥ぎ掛けた別の女の身体であり、その光景は思わず顔を背けたくなるほどの、常軌を逸したものであった。
「……この皮は、赤子の母親の身体じゃ。
五臓六腑を綺麗に啖ろうて、皮だけを残し……それを被って化けたのじゃ」
鬼女が、く、く、く、と、笑いながら言った。
蒼頡が、鬼女を冷静に、かつ鋭い目つきで見つめながら、
「……その赤子を、渡せ」
と、冷たく言った。
鬼女は蒼頡の言葉を無視し、蒼頡を見つめながら、ぞわぞわと肝が冷えるような不気味な表情で、ただにたにたと笑っているばかりであった。
与次郎が、鬼女が逆さにぶら下げて持つ赤子を奪い返そうと、またしても鬼女に向かって勢いよく、
"────どうっ……!!"
と、飛び掛かった。
しかし鬼女に触れる寸前、与次郎の周りに突如、紅く染まった大量の紅葉が、
"────────……ざざざざざざっ……ざあっ…………"
と凄まじい速度でひとかたまりに集まり出し、あっという間に、与次郎の全身を覆い尽くした。
直後、紅葉に覆われた与次郎の前身に、
"────……どんっ!!"
と、大岩がぶつかったかのような衝撃が走り、
「────ぐうっ……!!」
という呻き声とともに、与次郎はそのまま下の広場の地面の端の方まで、
“────どうんっ……!!”
と、一気に弾き飛ばされた。
「!────与次郎っ!!」
蒼頡が、下に落ちた与次郎に向かって叫んだ。
与次郎は地面に仰向けに倒れ、
「……う……」
と、痛みに呻いた。
蒼頡は地面を"だんっ"、と蹴り上げ、すぐさま与次郎の元に駆け寄り、腰を落として、与次郎の状態が大事に至っていないかどうかを確認した。
与次郎が致命傷にはなっていないことを見定めると、蒼頡は屋根上の鬼女の方に、もう一度くるりと、向き直った。
「……お前はいったい何者だ。
どこから来た」
蒼頡が、低い声で聞いた。
鬼女は、不気味な笑みを浮かべると、
「……ふ、ふ、ふ。
我が名は……紅葉じゃ」
と言った。
その瞬間、蒼頡は飯縄権現が言っていた言葉とその時の光景を、頭の中で突如、鮮明に、思い起こした。
〝────紅葉ではない────〟
────蒼頡は、
「何故私をこの地へ呼んだのだ」
と、再び鬼女に向かって聞いた。
紅葉と名乗った鬼女は、蒼頡を熱っぽい瞳で見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「……ふ……。
よくぞ聞いてくれたわ」
鬼女が、長い舌で上唇をぺろりと舐めた。
「そなたをこの地へ呼んだのは……。
ぬしと……夫婦になるためじゃ」
鬼女が、蒼頡をじっ、と見つめて言った。
思いがけない一言に驚愕し、蒼頡は、
「……なに!?」
と、思わず聞き返した。
鬼女は頬を紅く染め、恍惚とした表情で、
「ぬしと結ばれるために、わざわざこの地へ呼んだのじゃ」
と言った。
「……わからぬ。なんのために」
蒼頡がそう言うと、
「そなたの子どもを産むためぞ」
と、鬼女が声を上げた。
「……子どもだと!?」
蒼頡が再び聞き返した。
鬼女は薄く笑うと、
「我とそなたの血が入った麒麟児ならば、一国を支配できよう。
探しておったのだ……。
八荒宇内を牛耳るほどの……、
神の力を持つ男の血を」
と言った。
蒼頡は、鬼女を凝視した。
鬼女は、上半身を露わにしたまま、くっくっ、と笑った。
「……さあ。
我の閨に、案内しようぞ」
鬼女が、蒼頡に向かって微笑みながら言った。
蒼頡は、自身の懐に右手をすっ……と静かに入れた。
「……赤子をこちらに渡せ」
蒼頡が、鬼女に向かってもう一度、低い声で言った。
「……そんなに赤子が欲しいのか……」
鬼女はそう言うと、あっはっはっは!と、高笑いをした。
蒼頡は、右手を入れた懐から、矢立と和紙を取り出した。
その矢立から器用に筆を取り出し、鬼女から視線を逸らさないまま右手で筆をとると、和紙にさらさらと、『鴣鷲』という字を書いた。
「ほれ」
鬼女は、それまで逆さに持っていた女の赤子を、蒼頡には届かない遠い位置に向かって、屋根の上から、
"────……ぶんっ!!"
と、勢いよく放り投げた。
投げられた赤子は空中で大きく弧を描くと、そのまま地面に向かって、落下し出した。
赤子が、あわや地面にぶつかり顔を潰すかという、その刹那────────。
"────────びゅんっ!”
宙を裂く凄まじい風音が、蒼頡たちのいる広場中に響き渡った。
「む!?」
地面に落下したはずの赤子の姿が消え去り、鬼女が声を上げた。
ばさりっ……、と、大きな羽の音が空から聞こえた。
やがて、垂衣のついた市女笠を被った女が、蒼頡と倒れている与次郎の目の前に、ふわり……と、羽根のように軽やかに降り立った。
むしの垂衣によって顔は隠れて見えないが、背が高くしなやかな体つきで、白い袿に白のつぼ装束を着ており、その上に、白の掛け帯をつけている。
女はその腕に、赤子を優しく抱いていた。
鬼女は、突如現れたその市女笠の女に、目が釘付けになった。
その時、大きな白い羽根とともに、風に吹かれてひらひらと、一枚の上質な和紙が、蒼頡の横に舞い落ちてきた。
それは先ほど蒼頡が『鴣鷲』と書いた、あの和紙であった。
和紙に書かれていた字は消え去り、白紙になっていた。
市女笠の女は、垂衣の隙間からちらりと鬼女を一瞥すると、口を開いた。
「……まぁ……。ひどい姿。
……蒼頡様。
この鴣鷲……。
これほどまでに不快な心地は……久々のことでござります」
市女笠の女が、背中にいる蒼頡に向かって、透き通るような声で、そう言った。