第4話 毫毛斧柯
「飯縄権現様。
先程は危ういところを助けていただき、有難うござりました。
管狐たちにも、心の底から、感謝いたします」
蒼頡と与次郎の頭上、遥か彼方先の上空にいる渦巻く厚い雲と燃え盛る火炎を背にした巨大な鴉天狗・飯縄大権現に向かって、蒼頡が声を張り上げ、そう言った。
ごおごおと地鳴りのような音が鳴り響く中、巨大な鴉天狗がゆっくりと、口を開いた。
「…………ここまでくる人間というのは……珍しい」
鼓膜から脳、全身から五臓六腑にまでずしりとのしかかってくるかのような重低音で、飯縄権現がそう呟いた。
「飯縄権現様。
私たちは、江戸の山奥からやって参りました。
私の名は、土御門蒼頡と申します。
こちらは私の式である、那珂与次郎でござります」
蒼頡が、鴉天狗に向かって慇懃に、かつ遠くにまでよく通る大きく凛とした声音で、そう名乗った。
飯縄権現が、蒼頡と与次郎の顔を、まじまじと見つめた。
「……土御門蒼頡……。
ふむ……。
…………もしや…………。
あの女がやかましく熱望している陰陽師の男とは、ぬしのことであるな……」
巨大な鴉天狗が言った。
蒼頡は瞳をきらりと輝かせ、飯縄権現の御尊顔を凝視した。
「……陰陽師の男を熱望しているその女というのが、戸隠村に現れた人喰いの鬼女のことでございますれば、いかにも、私はその鬼女に呼ばれて、この地へ参ったのでございます」
蒼頡が言った。
すると突然、飯縄権現の険しい双眸が、石階段に立つ蒼頡の姿を、ぎょろりと睨んだ。
飯縄権現のその眼差しは、どんなにやましい心が無いものでもたちまち心が怖気づくほどの凄まじい気迫のものであったが、蒼頡は何一つ物怖じせず、巨大な白狐の背に立っている厳かな鴉天狗の炯々たるその眼光を、きらりと輝く大きく澄んだ二つの瞳で、じぃ……っ、と見つめ返していた。
蒼頡としばらく互いの顔を見つめ合った後、飯縄権現が、ゆっくりと、口を開いた。
「────蒼頡よ。
おぬし……あの女について探るために……、わたしの元へ来たのだな」
飯縄権現が、蒼頡に向かって問うた。
蒼頡は表情を一切変えることなく、飯縄権現の目を真っ直ぐに見つめ、
「……恥ずかしながら、仰る通りでござります。
かような事態で無ければ、できれば今少し違う形でこの山に参上し、お会いしとうござりました。
与えられたこの命尽き果てるまでに、この地へ意気揚々と馳せ参じるつもりが、まさかこのような経緯で拝顔の栄に浴することになろうとは、我が本意ではござりませんでした。
どうか、ご無礼をお許しください」
と言った。
蒼頡がそう言うと、飯縄権現は鋭い眼光をぎらつかせ、しばらく蒼頡の顔を見つめた後、やがてゆっくりと、深く頷いた。
「…………うむ…………。
敵を知ること……。
勝利を手にし、狂瀾怒濤の浮世を生き抜くためには、至極当然の戦略也!
正直で良い」
飯縄権現が一言言葉を発するたび、大気が大きく振動し、しっかりと踏ん張っていなければ、蒼頡も与次郎も石階段からあっという間に振り落とされそうになるほどであった。
「どうか、お教えください。
その女というのは、伝説の鬼女、紅葉のことでございますか。
あの紅葉が、現世にまたしても、蘇ったのでございますか」
蒼頡が、飯縄権現に聞いた。
飯縄権現は、ゆっくりと、首を横に、二度振った。
「紅葉ではない」
ごおおっ……、と大気が振動した。
「……あれは突然、この地にきた。
異国の匂い……。それから、潮の匂いだ。
……海を渡って来たのだ。
あれが来てから、雨が降らぬ。
そして……人を喰って、生きている。
そなたの名を呼びながら……」
蒼頡の身体に渦巻く気流が、ぴん……、と、張り詰めた空気に変わった。
飯縄権現のその言葉を聞いた瞬間、蒼頡の横に立っていた与次郎の心臓が、ひとたびどくんと、大きく跳ねた。
「あれは、災厄を引き起こす種である。
村や山々だけでなく、この国にとって、大いに危険である。
一刻も早く、潰さねばならぬ。
しかし斃すとなれば、一筋縄ではいかぬであろう……」
飯縄権現がそう言った瞬間、東の空から夜闇を切り裂くように、次第にゆっくりと、朝陽が昇り始めた。
蒼頡と与次郎は石階段の上から、この地にある全てのものを金色に照らし出すその暁光を眺めた。
その瞬間、二人は言葉を失った。
天に続く石階段の上から、その暁光によって、北信五岳の美しい山々が一望できた。
素晴らしい光景であった。
その青々とした大自然の豊かな絶景の中に、他の山とは明らかに異なる、ひときわ目立つ山があった。
真夏にも関わらずその山だけは、燃え盛る炎のように、全体が真っ赤に染まっている。
血のように真っ赤に染まる、季節外れの美しい紅葉で覆い尽くされた件の神山・戸隠山が、絶景に感動する二人の諸目を、釘付けにした。
「……これをひとつ、渡しておこう」
朝陽に照らされた天空に浮かぶ鴉天狗のふところから、小さな光の玉が蒼頡と与次郎の元に光の速度でしゅんっ、と飛んできた。
見るとその光の玉は、先程蒼頡を救った八匹の小さな管狐たちであった。
その管狐たちが、くるくると弧を描き宙を舞いながら、その中心に金色に光る丸い何かを浮かべている。
管狐たちは、宙に浮かべた丸い何かとともに蒼頡の胸の前までやってくると、くるくると舞いながら、宙に留まった。
蒼頡は、胸の前で弧を描きながら浮いている管狐たちに向かって、右の手のひらを空に向け、自身の胸の前にす、と差し出した。
管狐たちはくるくると舞いながら蒼頡の手を確認すると、光り輝くその丸い物体を、蒼頡の右手の上に、優しく乗せた。
直後管狐たちは揃って、天空に浮かぶ主のもとへ、光の速度でひゅんっ、と戻って行った。
横にいる与次郎が、蒼頡の右手を覗き込んだ。
直後与次郎は、
「ん!?」
と声を漏らし、蒼頡の右手に乗っている物を二度見した。
それは、意外なものであった。
「……梨……でございますか」
与次郎が思わず、そう聞いた。
蒼頡の手に乗っているのは、蒼頡の右手より一回り大きい、金色に輝く、実がぱんぱんに熟した、なんとも美味そうな梨であった。
「…………大事に持っておけ。
役に立つだろう」
飯縄権現がそう言った瞬間、上空に渦巻く雲がごおごおと激しさを増し、稲光が鳴り始めた。
その渦の中へ、ゆっくりと、飯縄権現が飲み込まれていく。
ごおごおと渦巻く雲と、激しい地鳴りの音や雷の光とともに、飯縄権現の姿がゆっくりと遠ざかり、次第に見えなくなっていった。
蒼頡と与次郎は、人間の力には到底及ばぬであろう目の前で起こったあまりの壮大な出来事に、ただただ、圧倒されるばかりであった。
やがて飯縄権現が姿を消し、巨大な白狐も雲の渦の中へその身を隠すと、稲光は止み、雲の渦は消え去り、天は曙光がきらきらと差し込む穏やかな青空へと切り替わった。
蒼頡と与次郎は、その抜けるような青空を見上げながらそのまま眠るように、石階段の上で二人揃って突如、ふ……、と瞬く間に、意識を失ったのであった────。




