第2話 飯縄山
時刻は暁七つ頃(午前4時頃)になった。
蒼頡を背に乗せた与次郎は、屋敷を出発してから休むこと無く駆け続け、やがて戸隠山の東に位置する霊山、飯縄山の麓に辿り着いた。
辺りはまだ夜闇に包まれており、視界は暗く、今から二人が足を踏み入れようとしている飯縄山の山中からは、幽寂な気配がひっそりと漂っていた。
ここを超えれば、間もなく件の戸隠山の素晴らしい光景が、二人の目と鼻の先に見えてくる。
与次郎は背中の蒼頡に向かって、
「蒼頡様。
ここは迂回する方が早く着きますが……。
あえて、この山を越えて行くのですか」
と聞いた。
蒼頡は、
「うむ。この山を登ります。
戸隠村に行く前に、是非お会いしておきたい御方が、この山にいらっしゃいますので」
と言った。
(……お会いしておきたい御方……?
かような時刻、この山の中に……。
いったい、どんな方なのだろう)
与次郎は心の中でそう呟きながら、
「承知いたしました」
と頷き、蒼頡を背に乗せたまま、飯縄山の山中に、足を踏み入れた。
飯縄山に入った蒼頡と与次郎は、山に入った瞬間、空気が一変したのを感じた。
今までいた現実の世とは全く違う、別の世界に足を踏み入れたようであった。
暗闇の中、不気味なほど静かな山の中に、ぼんやりと薄く光る紫がかった霧が、山に生い茂る木々の間を、ふよふよと妖しく漂っている。
山の空気は澄み渡っていた。
……が、しかし与次郎には、なぜか胸が詰まるような息苦しさがあった。
ふぅ、ふぅ、と、与次郎の息が珍しく乱れている。
「……与次郎。
山頂までの、少しの辛抱です」
与次郎の異変に気づき、労わるように、蒼頡がそう言った。
与次郎とは違い、蒼頡に息苦しそうな様子は無かった。
蒼頡は与次郎の背の上に跨り、凛とした姿で背筋をしっかりと伸ばしながら、山中の妖しげな雰囲気を、その輝く大きな瞳でじっ、と見定めているようであった。
息苦しさがありつつも、与次郎はあっという間に山の斜面を凄まじい速度で駆け上り、飯縄山の山頂付近まですぐさま登りつめた。
辺りはまだ暗かったが、もうじき東の空から陽が出始める頃であった。
山頂に行くと、そこにひっそりと、鳥居が立っていた。
その鳥居の奥に、小さな社があった。
鳥居と社が目に入ると、蒼頡はその大きな目をぐっと見開き、瞳をきらりと光らせ、
「……ふむ。
着きましたな!
与次郎、有難う。ここで一度降りましょう」
と言った。
与次郎は言われるがままその場でぴたりと立ち止まり、蒼頡を背から降ろした。
「よし。
さあ、それでは……。
ご挨拶をしに参りましょうか!」
地面に降り立った蒼頡は、鳥居を見据えながら、瞳をきらきらと輝かせてそう言った。
与次郎が、
「……ご挨拶、でございますか」
と、わけがわからないまま横にいる蒼頡に向かってそう聞くと、蒼頡は与次郎をその場に残したまま、鳥居に向かって脇目も振らず、すたすたと歩き出していった。
与次郎はすぐさま、十尺もある巨大な白狐の姿から人間の姿にしゅるしゅると戻り息を整えると、鳥居に向かう蒼頡の背中を慌てて追いかけた。
蒼頡は鳥居の前で立ち止まり、鳥居の奥にある社をまっすぐ見つめながら、与次郎が追いついてくるのを待っていた。
与次郎はすぐに蒼頡に追いつき、蒼頡の横に恐る恐る立った。
蒼頡は鳥居の前で一礼をし、そのまま鳥居の中へ一歩、二歩と、足を踏み入れた。
与次郎も後に続いて蒼頡の真似をし、鳥居の前で深々と一礼をすると、蒼頡と同じように、鳥居の中へと一歩、足を踏み入れた。
すると突然、先程まで息苦しく感じていた与次郎の胸の奥に、何とも言えぬ爽やかでひんやりとした鋭い空気が、一瞬にしてすぅ……っ、と突き抜けていくかのような感覚が、勢いよく押し寄せてきた。
途端に息苦しさは消え、清々しく心地の良い爽やかな波動が、与次郎の全身を、さぁ……っと、優しく包み込んだ。
与次郎は突如起こったその一瞬の出来事にしばらく我を忘れ、身動きが取れなかった。
「……気分はいかがですかな」
隣にいる蒼頡が、にこにこと微笑みながら与次郎に聞いた。
蒼頡に声を掛けられた与次郎は、はっと我に返ると、みぞおちに左手を当てて下を向き、自分の胸のあたりを眺めた。
そうして少し考えてから、
「……なんとも、不思議な心地でございます。
この山の中に入った瞬間からなぜか呼吸がしづらくなり、つい先程まで息苦しく感じておりましたが……。
今この鳥居をくぐりましたら、まるで冷たい氷を飲み込んだ後のような……急に胸の痞えが取れたかのような……。
すっきりとした晴れやかな心持ちに、一転いたしました」
と言った。
与次郎がそう言うと、蒼頡はにこにこと笑顔を浮かべながら、
「……ふむ。それならば良かった」
と、爽やかに言った。
その時、顔を上げた与次郎はそこで初めて、鳥居の内がおかしいことに気付いた。
鳥居をくぐる前に見た、奥にあったはずの小さな社が、目の前から消えている。
代わりに、社があったはずの場所から、淡く光る長く大きな石階段が突如蒼頡と与次郎の目の前に出現し、凄まじい存在感を放ちながら暗い天空に向かってどこまでも伸びている光景が、与次郎の諸目に飛び込んできた。
鳥居をくぐる前に見た時は、鳥居をくぐった数歩先のすぐその場に、あの小さな社があったはずであった。
与次郎が、天に伸びるその淡く光る奇妙な石階段を呆然と見つめていると、
「……有難いことに、私たちを歓迎してくださっているようですね。
さあ! 参りましょうか」
と、いつものように楽しそうな様子で、蒼頡がそう言った。
蒼頡は天に続く階段に向かってゆっくりと歩き出し、その淡く光る階段の一段目に。まず一歩、自身の足をそっと、優しく乗せたのであった。




