第8話 涕涙
与次郎は、全身にじっとりと粘つくような、不快な汗をかいていた。
宙を埋め尽くす無数の人形と人形の間から、与次郎を見下ろすちごの姿が見えた。
どく、どく、どく、と、与次郎の心臓が、早鐘のように鳴った。
すると、ふと、与次郎の顔を見つめていたちごが、口を開いた。
「……ないているの」
与次郎の頬にある涙の筋を見て、ちごがそう言った。
思いがけぬちごの言葉に、与次郎は一瞬、はっ、と我に返った。
ちごは、あどけない顔で与次郎の顔をじっ、と見つめていた。
与次郎は、
「……はい。
心が苦しくなって……、
自然と、溢れ出てきたのです」
と、ちごに向かって言った。
ちごは、与次郎の顔を黙って見つめ続けていた。
与次郎も、ちごの目を見つめ返した。
「そなたの過去の記憶が、頭の中に流れ込んできました。
その後、深い悲しみが心に募って、
……涙が出てきたのです」
与次郎が続けてそう言うと、
「おとこはないたらだめって、かかがいってたのに」
と、ちごが言った。
その言葉に、与次郎は一瞬、口を噤んだ。
「……確かに私は……、男ですが、気の強くないところがございまして……。
どうも、特にここ最近は……恥ずかしながら、泣くことが多いのです」
与次郎が、言葉を探しながらそう言った。
「……しかし、男が泣いたら駄目なんてことは、決してありません。
きっと……泣くことが多くなったのは、安心して泣ける居場所が、この身にできたからだと思います。
そのような居場所ができたことは、私にとって願ってもない天佑であり、勿体ないほどの幸せを今、しみじみと噛み締めている毎日なのでございます。
この三界無安の世の中で涙を流さずに生きるなどということは、今の私にはきっと、難しいことでござります。
……しかし……。
泣くということは決して、何も悪いことでは無いと、私は思います。
人間というのは、辛い時、苦しい時、痛い時、悔しい時、切ない時、寂しい時、悲しい時、愛しい時、そして最高に嬉しいと感じた瞬間にも、涙が溢れ出る生き物なのですよ。
感情を抑えることなど、できないものです。
だから、男でも女でも関係無い……。
男だからって、泣くことを我慢なんて、しなくて良い。
人間なのですから……。
────泣きたい時は、泣いて良いのですよ」
与次郎がそう言い終わると、洞窟内に長い沈黙が、訪れた。
────……蝋燭の火が、ゆらり、と揺れた。
蝋の長さは、灯っている炎の半分ほどの長さにまで、短くなっていた。
与次郎は、宙に浮く人形たちがどう動くのかを警戒しながら、先程から黙しているちごの顔をもう一度、ちらりと、見つめ直した。
すると、ちごの様子がおかしいことに、与次郎は気づいた。
ちごの白い顔がさらに蒼白になり、目は挙動不審にきょろきょろと彷徨い、まるで困っているかのような、あるいは戸惑っているかのような姿に見えた。
与次郎が、全身から汗を噴き出しながら、ちごのその姿を凝視した。
「……わ……、
……わからない……」
ちごが突如、ぼそりと呟いた。
与次郎が、ちごに意識を集中した。
「……でも、……だって。
……ないたら、だめ……。
ないたら……」
続けて、ちごが少し震えながら、そう言った。
与次郎は少しの間黙っていたが、やがて、宙に浮く震える童子に向かって、口を開いた。
「……そなた、本当は……、
泣きたいのではござりませんか」
与次郎がぽつりとそう言った、その瞬間────。
“────……ぶわりっ!!”
ちごの身体から溢れ出ていた“怨”の気が、突如黒い爆風となって、与次郎や宙に浮く無数の人形たちをその場から吹き飛ばした。
強烈な爆風に与次郎の足は地面から宙に浮き、身体がぶわりと持ち上がり、与次郎はその場から勢いよく吹き飛ばされた。
“────だんっ!!”
与次郎は洞窟内の岩壁に背中を思い切り打ち付け、その場に“……どうっ!”と、俯せに倒れた。
「────……っぐ!」
すぐに起き上がろうとした与次郎であったが、痛みと衝撃で身体は俯せに倒れたまま、すぐには立ち上がることができなかった。
「……ないたら…………だめ……。
おっとうが……。
……おっとうに……。
ぶたれる」
ちごが震えながらそう言い放つと、ちごの凄まじい“怨”の気に共鳴した無数の人形たちが、一体一体、黒い靄を全身に纏って、
“────……ぶわわわわわっ!!”
と、陸吾の時と同じように、与次郎に向かって一斉に襲いかかった。
与次郎は“はっ”、と目を見開き、瞬時に白狐の姿に変わろうとした。
その刹那、ちごの生前の姿、生い立ち、過去の記憶が走馬灯のように、与次郎の頭の中をぐるりと、駆け巡った。
────……白狐の姿に変わることを、与次郎は躊躇した。
与次郎は、
“────どどどどどう!!”
と、人形たちの黒くもの凄まじい“怨”の気を、全身に浴びた。
黒い靄が、与次郎の身体を覆っていく。
じわりじわりと、黒い負の塊が、与次郎を蝕んでいく────。
⦅────────……のまれるな!⦆
与次郎の頭の中に、きいんっ……と、声が響いた。
与次郎の心臓が、
“────どくんっ”
と、跳ね上がった。
聞き慣れた、心がすう……っと浄化されていくような声である。
⦅────……与次郎!
“怨”の気にのまれるな……────!!
そなたは決して、弱い男では無い!
──……誰よりも優しく────!
────誇り高き……真に強い心を持った男であろう……────!!⦆
頭の声が響いた瞬間、与次郎は先程打ち付けた背中の痛みと嫌な汗をかいていた不快感がすー……っ、と消え、胸の部分がじんわりと、温かくなった。
黒い靄が晴れ、暖かな光に照らされ、柔らかな布に包まれた気分になった。
はっ、と、与次郎は目を見開いた。
人形の大群に襲われたと思った与次郎の目の前に、三枚の人の形をした白く光る木板が、与次郎を守るように三方を囲み、宙に浮いていた。
木板にはそれぞれ、『陸吾』『狡』『幽鴳』と書かれた和紙が、胸の部分に貼り付けてあった。
『狡』と『幽鴳』の木板は与次郎のふところからするりと抜け出し、『陸吾』の木板とともに白い光で与次郎を包みこみ、無数の人形の大群がその光の中に入り込まないよう、三体が一定の距離を空けて、それぞれが、与次郎を守っていた。
与次郎の瞳に、一筋の光が、きらりと輝いた。
⦅────捕まえてあげなければ、この子の闇は終わりません。
時間がありません。
与次郎……。
────……たのみます……────⦆
────……その言葉を最後に、与次郎の頭の中に響いていた声が、次第に遠のいていった。
気づくと、洞窟内に何本もあった蝋燭の火は、そのほとんどが消え去っていた。
……がしかし、蝋が溶けかけてはいるがまだ消えていない火が、かろうじて一つだけ、残っていた。
与次郎は、
“──……ぐんっ!!”
と顔を上げた。
ちごは凄まじい“怨”の気を発していたが、その気は先程までとは打って変わって、乱れていた。
「……だめ……だめ……。
……ないてはだめ……。
……おっとうが……ぶつ……。
……かかが……。
……かか……」
ちごは市松人形を抱えながら小さな両手で顔を抑え、苦しそうに頭をふらふらと振り、震えながら、何かから必死にもがいていた。
与次郎は、優しさの残る鋭い目つきでちごのその姿をぐっと見定めると、ふところから、自分の名が書かれた木板を、すっ、と取り出した。
直後、その『与次郎』と書かれた木板を、ちごが浮いている場所とは真逆の位置に向かって、思い切り、
“────ぶんっ!”
と、放り投げた。
与次郎が木板を放り投げると、その木板は薄い光を放ちながら、くるくると宙を舞った。
“怨”の気を纏った人形の大群は、その木板の方に向きを変え、たちまちその木板を目掛けて、一斉に、
“────ずざざざざざっ……!!”
と、凄まじい速度で移動した。
人形に埋め尽くされそうになっていた与次郎の目の前の視界が、三枚の木板越しに、一気にぱっ、と開いた。
与次郎はちごを凝視しながら、その強靭な脚力で、
“────……どんっ!!”
と、宙に浮くちごに向かって、一直線に跳ね上がった。
跳び上がった与次郎は、“怨”の凄まじい気を纏ったちごの身体へ勢いよく突っ込んでいき、体当たりするかのように、そのまま思い切り、
“────……ぐばあんっ!!
……と、ちごの身体を、抱き締めた。
突如与次郎に抱き締められたちごは、あまりの衝撃にはっ、と我に返り、一瞬頭が真っ白になった。
ちごの全身から溢れる乱れた黒い気が、ふわりっ……と、小さくなった。
与次郎は、腕の中のちごをさらに強く、ぎゅっ、と、抱き締めた。
「……うぅっ!……」
一瞬、与次郎の腕から逃れようと身体を固くし、小さくもがいたちごであったが、与次郎の全身から溢れ出る、優しく澄み切った気の中にしばらく包まれている内に、やがて、すっ、と、大人しくなった。
「────……捕まえましたぞ」
与次郎が、優しい声で言った。
最後の蝋燭の火が、そこでふ……っ、と、消えた。
洞窟内は一瞬暗闇に包まれたが、四枚の木板と、与次郎の身体から発する白い光がぼうっ、と淡く輝き、真の闇には至らなかった。
いつの間にか、洞窟内の無数の人形たちはぴたりと動きを止め、辺りはしん、と、静まり返っていた。
「……遊びたかったのですね?」
与次郎が優しくそう問うと、ちごは目を見開いた。
ちごの目から、涙が一粒、ぽろりと零れ落ちた。
ちごは、与次郎の袖を、両手でぎゅっと掴んだ。
「……恐ろしい思いを、たくさんしましたね。
泣かずによく、頑張りましたね。
もう、大丈夫です。
あちらの世界で、そなたの大好きなかかが、待っております。
……一人で、逝けますか?」
与次郎がそう問うと、ちごは与次郎の腕にしがみつき、ぼろぼろととめどなく涙を零しながら、小さくこくりと、うなづいた。
その瞬間、ちごの身体に渦巻く黒い“怨”の気が、
“────……ばんっ!!”
と、弾け散った。
すると、白く光るそれぞれの木板の中から、幽鴳、狡、陸吾が次々に、
“────ぼうんっ!”
と飛び出してきた。
三人とも生きており、仰向けに倒れたまま、目を閉じている。
人形の大群の中から、消えた男たちと住職、小坊主たちの姿も次々と現れ出し、皆衰弱してはいたが無事に生きており、意識を失った状態で、その場に突っ伏し倒れていた。
与次郎の腕の中のちごが白く光り輝き、次第に、薄くなり始めた。
残りの無数の人形たちも、“怨”の黒い気が消え、一体一体が小さく白い輝きを放ちながら、薄くなっていった。
洞窟内に、星屑のような光が散り散りに浮かび上がり、一つ一つが溶けるように、儚く消え去っていく。
「……たのしかった」
与次郎の腕の中から消え去る直前、与次郎に向かって、涙を浮かべたちごが、最後に一言、そう言った。