第6話 傀儡
蒼頡は、目の前の鬼子母神像に向かって目を閉じ、そっと手を合わせていた。
やがて目を開け、像の姿をもう一度しっかりと見届けた後、鬼子母神像の足下に寄り添うように座している、ぼろぼろの市松人形に目を向けた。
その人形を少しの間見つめると、蒼頡は自身のふところから矢立と和紙を取り出し、筆をとり、和紙に『顕』と書いた。
その和紙に向かって、蒼頡はなにやらぶつぶつと、口の中で呪文を唱え始めた。
蒼頡が呪文を唱え出してから間もなく、和紙に書かれた『顕』という文字が、淡く光り始めた。
蒼頡はその和紙を持ちながら、市松人形にもう一度視線を投げかけた。
そして────。
「……すまぬが、そなたの中にある過去の記憶を、少しみせていただきます」
蒼頡はそう言うと、人形の上にその和紙をそっと、優しく載せた。
和紙に書かれた『顕』の字が淡く光り輝き、蒼頡の頭の中に、人形の過去の記憶が、水のようにすぅー……っと流れ込んできた。
蒼頡の意識は、人形の過去の記憶に、静かに吸い込まれていった────。
◆◆◆
────小さくあたたかい、こどもの腕の中であった。
そのこどもは、古くぼろぼろになった市松人形を大事そうに抱きかかえながら、河原の砂利の上に、ぼうっと立っていた。
人形を抱くこどもの身体は痣まみれで、痩せ細っていた。
河原で遊ぶ幾人かの別の子どもたちの、楽しそうな笑い声が聞こえている。
「────……こーをとろ♪ことろ♪
……こーをとろ♪ことろ♪
……こーをとろ♪ことろ♪」
その子どもたちは、子捕り鬼をしていた。
人形を抱いたこどもが、仲間に入れてもらおうと、子どもたちに近づいた。
すると、そのこどもに気づいた一人の童子が、ぎょっと驚きの顔を見せ、
「……う! うわあ!
ばけもんだ!
にげろ!」
と叫んだ。
遊んでいた子どもたちは、人形を抱いたそのこどもを一目見た瞬間、顔を顰め、皆一目散にその場から逃げ出した。
人形を抱えたこどもは、衣服は汚れ、顔から身体中が痣だらけで、見るに耐えぬ近寄り難い姿であった。
こどもはひとり、その場にぽつんと取り残された。
夕方になり、重い足取りで、こどもは家に帰って来た。
粗末な家であった。
ぼろぼろの戸を開けた先、土間の奥に置いてある水瓶の前に、女が立っていた。
こちらに背を向けて、立っている。
その肩が、震えていた。
「……かか」
こどもが、女に声をかけた。
母親が振り向いた。
振り向いた母親の顔は、瞼や頬が紫色に腫れ上がっていた。
目は死にかけていた。
……が、こどもを見た瞬間だけ、一瞬きらりと、その瞳が光った。
こどもがもう一度母親に声を掛けようとした、その時。
外から、家の方に向かって、どす、どす、どす、と歩いてくる、重い音がした。
その歩く音が次第に近づき、やがて家の前でぴたりと止まると、今にも外れそうな建付けの悪い家の戸が、乱暴に"ばんっ!"と開いた。
不機嫌そうな一人の男が、のそりと、そこに立っていた。
その男の姿を見た途端、こどもの身体と母親の身体が、一瞬で硬直した。
男は、家の中にゆっくりと足を踏み入れると、戸の目の前にいたこどもの顔を、じとり……、と、上から見下げた。
こどもは、蛇に睨まれた蛙の如く身体を強ばらせ、見つめてくる男の冷たい目から視線を外せないまま、その場で固まっていた。
「!!────……おやめください!!」
母親が突然叫び、こどもに駆け寄った。
遅かった。
男は、突如無言でこどもの顔を思い切り殴り飛ばした。
殴られたこどもは、その場から弾け飛ぶように跳ね上がり、その場に“どうっ!”、と倒れた。
弾みで、こどもは持っていた市松人形を落とした。
母親が、こどもにすぐさま駆け寄り、倒れたこどもを抱き締め、男の盾になった。
「退け」
男が言った。
「……お……おやめくださりませ……。
これ以上……手を上げるのは……おやめくださりませ……」
母親が震えながら、涙を流して言った。
紫色に腫れあがった顔に、一筋の涙が伝った。
男は無言のまま、涙を流す母親の顔に拳を入れ、背中を蹴り飛ばした。
市松人形は無表情のまま、父親に暴行される母親の姿を、その黒い瞳で見つめていた。
やがて、何度も母親に暴行を繰り返した後、しばらくしてから、母親の意識が無いことに、父親は気づいた。
母親は臓器を損傷し、呼吸が止まり、そのまま絶命していた。
父親は暴行を止め、しばらく無言でその場に立ち尽くした後、こどもと母親を放置し、奥の部屋に引っ込んだ。
こどもは震えながら母親の側に寄り添い、一晩中、冷たくなった母の横にぴたりとくっついていた。
────次の日。
こどもは朝早い時間に、父親に手を引かれ、町の男に売られた。
「童か」
こどもを買った髭を生やした男が、父親ににたりと笑いかけながら言った。
その後すぐ、こどもは市松人形を抱えたまま、売られた先で亡くなった。
そのこどもの一生はまるで、中身が空洞でできている、傀儡のような人生であった。
こどもの遺体は、市松人形とともに、この寺の階段下の横に、隠すように棄てられた。
寺の僧侶がこどもの遺体を発見し、手厚く供養し、市松人形を鬼子母神像の前に置いた。
すると、鬼子母神像の前に置かれた市松人形の全身から、黒い“怨”の気が靄となって現れ、徐々に本堂内全体に拡がりはじめた。
────どこからともなく、声が響いてきた。
(────…………おっとう…………。
……どうして……。
……どうして……。
……どうシテ……。
ドウシテ……
ドウシテ……
ドウシテ
ドウシテ
ドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ
ドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ)
「「────……ドうして!!」」
────陸吾と与次郎が、はっ、と意識を取り戻した。
末のちごの全身から、もの凄まじい黒い怨の気が、ごうごうと溢れ出ている。
洞窟内の人形たちが、ざわ……ざわりっ……、と、その怨の気に共鳴していた。
与次郎は、全身から大量の汗を噴き出していた。
同時に、目から一筋の涙が、与次郎の頬を伝った。
「……まさか……。
…………ちごとは…………」
与次郎は、宙に浮く姉妹の姿を見つめながら、豪雨のように押し寄せる、胸が押し潰されそうなほどの辛い悲しみを、痛いほどその身に、感じ取っていたのであった────。