第1話 陸吾
どんよりと、空が曇っている。
太陽は灰色の分厚い雲に覆われ、その姿は隠れていた。
梅雨はまだ明けておらず、じめじめとした蒸し暑さだけが日が経つごとに色濃く迫ってきているような、そんな時期であった。
その、妖雲が立ち込める暗い朝を、山奥にある蒼頡の屋敷は、いつもと変わらぬ荘厳な佇まいで、ひっそりと迎えていた。
与次郎が朝の身支度を終え、いつものように大広間に向かって外の縁を歩いていると、その大広間から、なにやらざわざわと、騒がしい声が聞こえてきた。
与次郎はぴたりと足を止め、
(む……なんだろう……。
珍しいな……)
と思い、少しの間、耳を澄ませた。
与次郎が蒼頡の屋敷に来てから二十日以上が経っていたが、いつもは静かで誰もいないはずの大広間から、このように騒がしい声がざわざわと聞こえてくるなどということは、与次郎がこの屋敷に来て以来、初めてのことであった。
与次郎が、誰がいるのだろうと胸の鼓動を少し弾ませ、止めていた足を再び動かし歩を進めようとした、その時────。
「────……いい加減にしなさいよ陸吾!
それ以上近づいたら、殺す……!
この私にもう一度、指一本でも触れたら……!
あんたの息の根を止める……────!!」
"ごうっ……!"と、空気が振動した。
大広間から、聞き覚えのある若い女の声が、外の縁に響き渡るほどの凄まじい声量で、そう叫んでいた。
与次郎がどきりっ、と心臓を跳ね上げ、歩を進めようとしたその足をぴたっ、と止めた。
直後、聞き覚えの無い男の声が、与次郎の耳に入ってきた。
「────……ま、待て! 朽葉! ようく聞け!
俺は、女がどうにも神秘的な生き物に思えてならねえだけだ!
女に興味が尽きねえのさ!
自分でもわからねえが、お前を見るとどうしても触れたくなる衝動が止まらねえんだ……、って……。
わ! 待て!」
"────……どかっ!"
"…………ばきばき────どうっ!"
────────凄まじい轟音とともに、与次郎が初めて見る大柄な男が、まるで爆風にでも巻き込まれたかのように大広間の広縁から中庭へ向かって背中から宙に飛び出し、外の屋敷の塀に思い切り背中をどうっ、と打ち付け、どさり、と、下の地面に倒れた。
与次郎はその光景を目の当たりにし、心臓が飛び出るかと思うほど驚き、身体を硬直させた。
直後、はっと我に返ると、慌ててその地面に倒れている男の元に、その俊足の脚で、"ばっ!"と素早く駆け寄った。
「だっ……、大丈夫でござりますか!」
与次郎が、倒れている男に声を掛けた。
すると、大広間の中から、
「────だっはっはっは!
……まあた、派手にやったなぁ! 朽葉ぁ」
という、耳慣れた声がした。
見ると、大広間の座敷の上で、幽鴳が横向きに寝そべりながら瓶子に入った酒を煽り、中庭へ蹴り飛ばされた男の様子を見て、けたけたと楽しそうに笑っていた。
そのさらに奥の方で、白百合、白菊、水仙が、女三人で身を寄せ合い、心配そうな表情で、こちらを伺っていた。
「……幽鴳様!」
与次郎が大広間にいる幽鴳を見て、思わず声を上げた。
幽鴳は、京にある狩野孝信の屋敷で絵の中の鬼と対峙した際、自身の腹に深手を負ってしまっていたが、蒼頡の治癒の効力と驚異的な回復力によって無事に傷が完治し、以前より元気になっているようであった。
「おう! 与次郎!」
幽鴳が与次郎に向かって右腕を上げ、ひらひらと手を振った。
すると、与次郎の目線の先──広縁の端の上に、小柄で黒目の大きな女が、まるで風に舞い落ちる木の葉の様に、ひらりと軽やかに降り立った。
「……与次郎、大丈夫よ。
その男の身体って、刀も通らないほど、無駄に頑丈なんだから」
小さな可愛らしい口が、そう言った。
蒼頡の式神の、朽葉であった。
与次郎が男をもう一度見やると、男は砕けた塀の破片をぱらぱらと落としながら、むくり……と上体を起こし、
「いててて……」
と言いながら、頭を二、三回、その大きな手で、がしがしと掻き毟った。
その後、自分のすぐ傍に来ていた与次郎にぱっ、と気づき、
「ん?」
と言いながら、その与次郎の顔を、まじまじと見つめた。
与次郎は、その男と目があった。
よく見ると、男の顔は眉がふさふさと太く、力強い眼力をもっており、鼻と口元が大きかった。
両端の口角が上がっており、どことなく、愛らしい顔をしていた。
その愛らしい顔とは対照的に、身体は大柄であり、腕も足も筋骨隆々で、見事に発達していた。
刀も通らないと言われると納得するほど、頑強な姿であった。
与次郎がその屈強な男の姿に目を奪われていると、広縁に立っている朽葉が、口を開いた。
「与次郎が来たから、一安心だわ。
女と見るや、私だけでなく花たちや瑠璃にまでしつこくちょっかいをかけようとするんだから……。
与次郎。あとはよろしく頼むわね」
朽葉はほっとしたようにそう言うと、しゅんっ、と一瞬で、その場からあっという間に消え去ってしまった。
与次郎がきょとん、としていると、男は与次郎に向かって、
「……ははぁ。
お前が噂の与次郎か!」
と言った。
与次郎はその言葉を聞くと、大柄な体格の男にすっ、と向き直り、
「────あ……はい、左様でございます。
蒼頡様の式神として、この屋敷にやってまいりました。
与次郎と申します」
と、慇懃に自分のことを名乗り、男に向かって軽くぺこりと、頭を下げた。
「おう。おぬしのことは知っているぞ。
……しかし、噂通りの男だな! はっはっは!」
陸吾が、豪快に笑った。
陸吾の様子に心が軽くなったと同時に、与次郎はほんの少し、驚きの表情を見せた。
「……いや、初対面で驚かせて、悪かった。
俺の名は陸吾ってんだ。
崑崙の丘から、この国に来た。
ま、蒼頡にこき使われるもん同士、仲良くしようや」
陸吾はそう言うと、大柄な体格を大きく揺り動かし、ぱっ、と明るい笑顔で、再びはっはっはっは、と爽やかに笑った。
与次郎は、初めて会うこの陸吾にまで自分の存在が知られていることに驚いていた。
与次郎がこの屋敷に来てから、少しずつ蒼頡の他の式神たちと会うようにはなってきたが、まだまだ与次郎が会っていない、知らない式神も多い。
広い屋敷とはいえ、蒼頡の他の式神たちが自分と同じように屋敷内で暮らしているという気配を、与次郎は全く感じていなかった。
……にも関わらず、なぜか自分の噂は蒼頡の式神たちに、しっかりと行き届いている。
自分の知らないところで、式神たちの間に何か会合や交流など、集まりのようなものがあるのだろうか。
そもそも、自分の噂とはいったい、どんな噂が流れているのだろうか。
それに、陸吾様がいう崑崙の丘とは、いったいどこにあるのだろうか……。
……などと、与次郎がぐるぐると思考を巡らせていると、突如、陸吾が与次郎にぐっ、と身を寄せて近づき、その大きな腕と手で、与次郎の肩を自身の方へ“ぐぐんっ!”と、力強く抱き寄せた。
「……!?」
与次郎は大柄な男に突然引き寄せられ、驚きのあまり、声も出なかった。
すると、陸吾が与次郎の耳元にそっと口を近づけ、与次郎に向かって、小さく囁きかけてきた。
「……ところで、与次郎よ。
おぬし……。
どんな女が好みだ」
陸吾が、ぼそりと言った。
「……え!?」
突然の質問に、与次郎は一瞬ついていけず、目を白黒させた。
直後、今まで出会って惚れてきた様々な女たちの顔を急に思い起こし、胸をぎゅっと、熱くさせた。
「……女だよ、女!
男なら誰だって、好みがあるだろう?
俺から言わせりゃあ、女ってのは神秘的で、どんな女でも興味が尽きないもんなのさあ!
与次郎。お前はどんな女が、好みなんだ?」
陸吾が、その強い眼力をきらきらと輝かせながら、与次郎に向かって聞いた。
「お! 俺も気になるぜぇ。
与次郎の好みの女!」
幽鴳が、突如ぱっと明るい表情になってそう言うと、大広間で寝そべっていた身体を、むくりっと起こした。
そのまま中庭にぴょんっと飛び出し、陸吾と同じように目を爛々と輝かせ、興味津々といった表情を浮かべながら、与次郎と陸吾の側に、軽やかにすとんっと降り立った。
「……こ、好みの女、でございますか……」
与次郎は、妙に身体を近づけてくる二人の異様な気迫に圧倒され、たじたじになった。
「何かあるだろう!
顔の好みから、胸がでかい、いや、小さい方がいいとか……。
尻が小さい、いや、でかい方がいいとか……」
陸吾が、さらに与次郎の肩をぐっと引き寄せ、目をぎらぎらとぎらつかせながら、詰め寄った。
与次郎がなんとも困り果て、
「……え、え~と……」
と、口を開こうとした、その時。
「────これ、陸吾。
そなたたち、何をしておるのだ」
大広間から、与次郎の心がふわりと跳ね上がるほどの、耳慣れた声がした。
与次郎、幽鴳、陸吾の三人が一斉に声のした大広間に目をやると、そこに蒼頡と、その後ろに、頭の後ろで両手を組んで立つ狡の姿が、目に飛び込んできた。
蒼頡は、澄んだ瞳をきらきらと輝かせながら三人を興味深げに見つめ、狡はその後ろで、まるで蛆虫でも見るような目つきで、陸吾と幽鴳を見ていた。
幽鴳は狡を見た瞬間、びりっ……、と嫌悪感を剥き出しにし、全身からその敵意の気を狡に向けて放った。
狡もその気を感じとり、目を吊り上げ、幽鴳に向かって“ごうっ……!”と、威嚇の気を放った。
「……三人ともそんなところで、何を団子のようにくっついておるのだ」
蒼頡が三人の様子を見ながら、何とも愉快といった表情を浮かべ、そう言った。
「……蒼頡さま……!」
与次郎は蒼頡の顔を見て思わずそう言うと、天の助けかと思うほど、ほう……と、深く安堵した。
「また、女の話だな。
花たちか朽葉にまたちょっかいをかけて、懲りずに朽葉に蹴られたのであろう、陸吾」
蒼頡が、塀の崩れた有様を見、表情を緩めながら爽やかに笑って、そう言った。
「与次郎の女の好みを聞いていたのさ」
陸吾が、抱き寄せていた与次郎の肩から腕を離し、与次郎を解放したあと、蒼頡に向かってそう言った。
陸吾が自分から離れた瞬間、与次郎は心底ほっとし、ふぅ……と、深く息を吐いた。
「女のことしか考えてねぇのか、お前は!」
狡が陸吾に向かって、呆れたように言った。
狡にそう言われると、陸吾はその強い眼力を、狡に向けた。
「ああ! 女のことしか考えておらん!
なぜなら、大好きだからな!!」
陸吾は全く躊躇せず、狡にそう言い放った。
「……そんなことより、蒼頡様。
そんな役立たずなんか連れて、どこに行ってたんでさぁ。
珍しくねえですかい」
幽鴳が、狡をちらりと見てから、蒼頡にそう聞いた。
「……あ゛?
誰が役立たずだあ?
その腹の傷と無くなった金玉をしっかりその目で見定めてからものを言うんだな、猿!!」
"……ざわり────"と、周囲の空気が一変した。
「…………今、なんつったぁ?
おい」
"────────ごうっ……!!"
幽鴳がそう言った瞬間、もの凄まじい憤怒の気が、幽鴳の身体から噴出した。
「……てめえら!
二人とも、会う度にいちいち喧嘩すんのはやめろや!
めんどくせぇ!!」
陸吾が、幽鴳と狡に向かって叫んだ。
すると、
「……ん?
待て、幽鴳。お前……。
なんだ、玉が無えのか」
と、陸吾が狡の言葉を真に受け、目を丸くして、幽鴳に聞いた。
すると幽鴳は、
「……だぁかぁら、喰われてねえってんだ!
危うく玉無しになるところだったが、鬼がこの金玉を狙ってきたところを、俺が軽くこの手で、返り討ちにしてやったのさぁ!」
と、声を荒げた。
直後、
「……まあ、あの鬼の女に言わせりゃぁ、俺は金玉が美味そうな顔をしているらしいぜぇ。
男冥利に尽きるってもんさぁ!
どうだ陸吾。うらやましいだろう」
と、幽鴳が陸吾に向かって、自慢げに言った。
「いやいや……それで男としての大事な命が無くなっちまったら、元も子もねえだろうが!
……ふん。まあ、しかし……、金玉が美味そうな顔か……。
おもしれえ!
別嬪さんに一度、言われてみてぇもんだなあ!
あっはっはっはっは!!」
陸吾がそう言って、なんとも楽しそうに大笑いをすると、狡が、
「良かったなあ、金玉が美味そうな顔に生まれてきてよぉ!
狙われ放題じゃねえか。鬼の女に」
と、にやりと笑いながら、幽鴳に向かって言った。
その言葉を聞くや、またしても、幽鴳の全身に怒りの気が"ごうっ……!"と立ち込めた。
顔が真っ赤になり、毛は逆立ち、怒りの形相で拳を握り締め、ふるふるとその手を震わせた。
徐々に、ぐるぐる……と牙を剥き出し、ふー、ふー、と息を荒らげながら、狡をぎろり、と激しく睨み、今にも飛び掛かっていきそうな勢いで、幽鴳は怒りを露わにした。
狡も、来るなら来いやと言わんばかりの形相で、ぎろり、と、幽鴳の顔を睨み返した。
蒼頡は、
「……おまえたち、いい加減にせぬか」
と、少し呆れた様子で、二人を窘めた。
「……喧嘩している場合では無い。
実は、お前たち四人を連れて、今から行きたいところがあるのだ。
すぐ、支度して行くぞ」
蒼頡が、与次郎、幽鴳、陸吾、狡の四人に向かって、そう言った。
「────あ……?
どこに行くってんだよ?」
陸吾が問うた。
蒼頡がそれを聞き、少し、間を置いた後、
「……ぬしが大好きな、四人の若い女姉妹が住んでいる、人形寺だ」
と、陸吾に向かって、そう言ったのであった。