第1話 入梅
梅雨である。
雨がしとしとと、途切れることなく降り続いている。
蒼頡の屋敷の庭には美しい紫陽花がいくつも咲き乱れ、奥には梔子の花や山法師の白い花々、露草や半夏生、花菖蒲たちが、恵みの雨を皆一斉にその身に受けて、生き生きと雨粒を弾き返していた。
蒼頡の式神である雌の雨蛙の苗は、紫陽花の葉の上で雨粒を全身に浴び、その緑色のからだを、つやつやと輝かせていた。
蒼頡と与次郎は、中庭が一望できる大広間の中から、二人揃って外の様子を眺めていた。
二人ともしばらく、特に会話することは無かったが、雨音が響くその穏やかな空間はなんとも居心地が良く、与次郎はその心の内に灯る小さな幸福感を染み入るように感じながら、贅沢な時を過ごしていた。
蒼頡は、紫陽花の葉の上でじっとしている苗をしばらく見つめたあと、ふと口を開き、沈黙を破った。
「……こうして、雨が降り注ぐ庭を何ともなしに眺めていると……、苗と初めて出会った時のことを、たまに思い出します」
与次郎は、蒼頡の横顔をふ、と見た。
蒼頡は澄んだ瞳で、雨に濡れて生き生きと輝いている苗の姿を、じっ、と眺めていた。
「……あれは、わたくしが五つになった年の、ちょうど今ぐらいの時期のことでございました……────」
蒼頡は珍しく、幼少の頃に起きた自分の昔話を、与次郎に向かってぽつりぽつりと、語り始めた。
◆◆◆
蒼頡がこの世に誕生した際、両親は産まれたばかりの蒼頡の行動に、いきなり度肝を抜かれた。
まだ臍の緒も切れていない状態の赤子が、ふぎゃあ、おぎゃあと泣きながら、近くにあった筆を突如、穂先を上にして掴み、その腕を動かし、自分の額に大きく、数字の『一』と、書いたからである。
産まれて三日後には、すでに蒼頡は目がはっきりと見えていた。
一歳と半年が経った頃に、書物を真似て、字を書いた。
三歳を過ぎた頃には、陰陽道、儒教、朱子学などの学問を自ら進んで父に学び、幼児でありながら、凄まじい速度と理解力で、その知識を見事に吸収していった。
蒼頡が五歳になる年の、雨がしとしとと降り続く青梅雨の時期。
とある農村で、蛙やお玉杓子の大量の死骸が田んぼの至る所で次々に見つかる、不審な事件が起こった。
原因は全く不明であった。
蛙やお玉杓子だけが、一度に百匹以上、あちらの田んぼでも、こちらの田んぼでも、大量に死んでいる。
蛙やお玉杓子が激減したせいで、その農村にある田んぼの生態系が崩れた。
蛙が捕食していた稲を食べる害虫が、蛙がいなくなったために激増し、稲があちこちで食い荒らされるようになった。
稲が全く育たなくなっため、村の農家にとってこの蛙の大量死は、非常に深刻な問題になった。
この原因について、村人たちの中で様々な憶測が飛び交った。
蛙を捕食する生物たち────田亀や、鷺などの鳥類、あるいは蛇、穴熊、狸……などが蛙を食い荒らしたのではないか。
しかし、死骸を見る限り蛙やお玉杓子に食い荒らされた様子はなく、それについて村の人々はいまいち納得ができなかった。
田んぼの水に毒があるのかとも思ったが、田んぼで生きている蛙とお玉杓子以外のその他の生物たちに、特に異常は無い。
村の人々は様々な意見を交わしたが、どれもこれもあまり納得がいくような内容は出てはこなかった。
すると、一人の村の男が、
「これは神の祟りか……それとも、もしかすると……あやかしかもののけの仕業かもしれん」
と、ぼそりと呟いた。
村長はそれを聞き、男の言葉を真に受けた。
神の祟りか、あるいはあやかしかもののけが原因であるのかを探るため、意を決し、藁にも縋る思いで、陰陽師であった蒼頡の父の元に、村長は駆け込んだ。
村長の依頼を受け、蒼頡の父が一人で出掛けようと支度をしていると、五歳の蒼頡が、
「父上」
と、声を掛けた。
そして、
「わたくしも、連れて行ってください」
と、続けて言った。
「……何故だ」
父が尋ねると、蒼頡は、
「今朝、光る蛙の夢を見ました」
と言った。
そして、五歳の蒼頡は父に向かって、夢の内容を淡々と、話し始めたのである。
◆◆◆
────蒼頡は夢の中で、気がつくと辺りが何も見えない、真っ暗な暗闇の中にいた。
その暗闇の中に、一筋の小さな光が、遠くの方から射し込んでいるのが、目に見えた。
蒼頡が促されるように光の方へ歩いていくと、その光が、段々と大きくなってきた。
光に向かってさらにしばらく歩き続けると、やがて、光の元に、蒼頡は辿り着いた。
近づいてみるとそれは、暗闇の中に浮かび上がる、竹でできた、光る檻であった。
蒼頡がその光る檻にぐっ、と近づき、柵の隙間を躊躇無く覗くと、どこかの奥深い山中と、山の中ならどこにでもあるような一つの小さな祠が、そこから見えた。
蒼頡がその祠をじっ、と眺めていると、突如背後に気配を感じた。
蒼頡がすぐさま後ろを振り向くと、そこに、蒼頡とほぼ同じ背丈の巨大な美しい雨蛙が、緑色の体を艶々と輝かせながら、蒼頡をじい……っ、と見つめ、そこに座していた。
雨蛙は、その黒々と澄んだ大きな瞳でしばらく蒼頡を見つめ、その後ちらりと、檻の方を見やった。
そしてもう一度、蒼頡の目を真っ直ぐに凝視した。
直後、目の前の雨蛙の光る体が、“ぶわっ……!”と、散り散りに爆ぜた。
よく見ると、その爆ぜた雨蛙の体の肉片は全て、小さな光るお玉杓子であった。
何千匹という小さなお玉杓子が、暗闇の中光りながら散り散りに宙を泳ぎ去り、最後、後ろ足が二本だけ生えた、手のひらほどの大きさの小さく光るお玉杓子が、一匹だけその場に残った。
蒼頡がそのお玉杓子を拾おうと手を伸ばすと、そのお玉杓子はするりと蒼頡の手をかわし、檻の隙間から飛び出して、そこにあった祠の中に、すいっ、と、入り込んでいった。
蒼頡はそこで、目が覚めた。
◆◆◆
「────……夢の中で、あの蛙はまるでわたくしを呼んでいるかのようでございました。
だから父上。わたくしを是非、一緒にそこに連れて行ってください」
蒼頡が、父の顔を真っ直ぐ見て、そう言った。




