第6話 天命
蒼頡が絵を見つめ続けていると、手に持っていたその絵から出ていた微かな魔の気が、突如消えた。
直後、絵の中にある桜の木の後ろの余白から、小さな赤い滲みが点々と現れ、やがてじわじわと、大きく広がり出した。
「む」
蒼頡は、それを見るやすぐさま筆をとり、その絵の空にあたる余白の部分に、さらさらと『顕』という文字を書いた。
蒼頡が『顕』という字を書き終えると、絵全体が、白く輝きだした。
すると、見つめていたその絵一面に、人間の頭頂部が突如、和紙の平面全体に"ぬぅっ"と現れた。
それを見た瞬間、蒼頡は手に持っていた絵をすぐさま、すっ、と静かに床に置き、その場から三歩ほど、後ろに下がった。
やがて和紙の平面から次々に、老若男女様々な人間が、蒼頡達のいるその部屋の中へ、ひとり、またひとりと、光りながら飛び出してきた。
「なっ……!
……なんと……!」
孝信が、腰を抜かすかと思うほど驚いた。
与次郎も声を忘れるほど驚き、次々と絵から出てくる人々の姿を、その目でただただ、捉えるばかりであった。
出てきた者たちは皆、絵から飛び出したと同時に"どさりっ"と床に突っ伏して倒れ、全員が意識を失った状態のまま、その場で動かなくなっていた。
中には片足が無い老人や、両目から血を流している女、片腕や鼻が無い男など、目を覆いたくなるほどの大怪我をしている者もいた。
二十人ほどが順に飛び出した後、最後に、人間の姿になった幽鴳と、幽鴳に抱きかかえられた血まみれの童子が、絵の中からぼん、と飛び出してきた。
「!! う…………采女……!!」
孝信が、飛び出るかと思うほど目を見開いて驚いた後、震えながら、掠れた声で叫んだ。
幽鴳と采女が飛び出た直後、絵が描かれた和紙は砂のようにさらさらと崩れ、さぁっと宙に舞い、そのまま跡形も無く消え去ってしまった。
何十枚と部屋に散らばっていたその他の和紙たちも、皆同じように"さぁー……っ"、と、小さな砂が風に舞い散ってゆくように、消え去っていった。
「ああ……っ!」
孝信が再び声を上げ、涙を流しながら、童子の元に“だっ!”と駆け寄った。
采女は衣服が血塗れになっており、まるで返り血を浴びたかのような姿であったが、怪我は無かった。
「……幽鴳さま……!」
采女が孝信に抱きかかえられたのを見届けた後、与次郎は幽鴳の側にさっ、と近寄り、腰を落とし、声を掛けた。
「……あ"~……。
……最悪だぜぇ……」
幽鴳が腹を抑えながら、倒れるように横向きにどうっ、と寝転び、背中をぐっと丸め顔をしかめながら、そう呟いた。
蒼頡が幽鴳の側に近づき、与次郎と同じように幽鴳の横に静かに立つと、“すっ……”とその場に、腰を落とした。
同時に、幽鴳の身体を片手でごろりと仰向けにさせ、幽鴳の腹の上に、『癒』と書いた光る和紙を、素早くさっ、と張り付けた。
『癒』と書かれた光る和紙は、幽鴳の腹の上で、"すぅ……っ"と光を放ち、まるで傷に馴染むようにそこに留まり、淡い光を保ち続けていた。
「幽鴳……。
感謝します」
蒼頡が、幽鴳に優しく言った。
「……。
……あとでたっぷり……うまい酒をくれよ……。……蒼頡様」
幽鴳がそう言って目を閉じると、気を失っていた采女が、ぱち、と目を覚ました。
「……采女!」
孝信が、采女を抱きかかえながら叫んだ。
「…………ち…………父上……!」
采女は、孝信をしばらく眺めた後、はっ、と目を見開きながら、目の前に自分の父親がいることを認識し、そう叫んだ。
そして、張り詰めていたものが解き放たれたかのように、突如采女はその場でぼろぼろと涙を流し、わんわんと、大声で泣き始めた。
「……よく、無事であった……!」
父と子はお互い涙を流しながら、ひしと抱き合った。
蒼頡は、『癒』と書いた光る和紙を手際良く怪我人全員の傷口に被せ終えた後、孝信と采女の方に再び目線を戻し、与次郎とともに、その様子を眺めた。
すると、蒼頡はふと、采女の背中と衣服の間から見えている、一枚の白い紙に気付いた。
蒼頡は少し間を置いてから、孝信と采女の方へゆっくりと近づき、二人の目の前に静かに立つと、采女の目線に合わせるため、ふわりと腰を落とした。
「……采女殿。よくぞご無事でござりましたな。
わたくしは、あなた様を探しに江戸からやって参りました、刻と申します」
蒼頡は、穏やかな声で采女にそう名乗った。
采女は、少しびくりと身体を震わせ、しゃくり上げながら、蒼頡の顔を凝視した。
蒼頡は、にこっ、と優しく微笑むと、
「采女殿。お背中に、何かございます。
少し、失礼いたします」
と言って、ゆっくりと采女に手を伸ばし、二つ折りになって挟まっていた一枚の和紙を、采女の背中からするりと、静かに抜き取った。
広げてみるとそれは、立派な桜の木が描いてある、采女が描いた、あの絵であった。
絵の空には、満月が浮かんでいる。
「そ、それは……」
孝信と采女、与次郎が、思わずぎょっとした顔になり、身を固くし、ぴり……と警戒した。
「……これは……。
采女殿が、普通の筆で最初に描かれた、鬼が筆と引き換えに持って行った時の、あの絵でござりますね」
蒼頡がそう言うと、采女は小さく涙を流しながら、静かにこくり、と頷いた。
そして采女は、ぽつりぽつりと、話し始めた。
「……鬼とは知らず、筆をもらったあの日の晩────。
わたくしはなぜか無性に、鬼に渡したその絵と全く同じ絵を、もう一度、描きとうなったのでございます。
筆を持ち、絵を描き始めてからすぐに、わたくしは意識を失っておりました。
気がつくと、ごつごつとした岩がごろごろと転がっている何もない場所に、筆だけを握りしめたまま、平らな岩の上で寝ていたのでござります。
すると間もなく、どこから来たのか、人々が次々にその岩場に集まってまいりました。
そこに鬼が現れ、突然一人の女の目玉をくり抜いて、目の前でその目玉を食べ始めたのでございます。
まことに恐ろしい出来事でございました。
……その時目玉を喰われたあの女の叫び声が、今でもこの耳にずっと残って、離れませぬ。
その目玉をくちゃくちゃと食べ終わった後、鬼はにたりと嗤って、わたくしに向かってこう言いました。
「……お前の絵は、なかなかに素晴らしいねぇ。気に入った……。
今から、わしがここにいる人間たちの身体の一部を順にゆっくりと喰ろうてゆくから、わしが喰ったその人間の姿を、その筆で描いてゆくのだ。
わしが納得するまで、一切手を止めてはならぬぞぅ……」
そこからは、まことの地獄のようでございました。
鬼がもてあそぶように人の身体の一部を喰らい、その人間が苦しむ様子を延々と見せられ続け、その様を、わたくしは描かされるのです。
悍ましい筆が、わたくしが描く手を休めることを許さず、わたくしの意思とは無関係に、筆が勝手に、わたくしの手を動かすのです。
鬼は、その光景を愉しんで見ておりました。
しかも、鬼はわたくしがどんなに言われた通りの絵を描き、何枚、何十枚、と枚数を重ねていっても、それに一切納得をせず、この絵も駄目、この絵もよくない、と、描いた絵を一枚も認めてはくれなかったのです。
……かような思いは、もう二度と、したくはありませぬ。
もうこれ以上、わたくしは、絵など一枚も、描きとうござりませぬ。
────わたくしは一生、この手に筆を、持ちませぬ……っ!」
采女は、これまで身の上に起こっていた恐ろしい出来事を全て語り、二度と絵は描かないという決意の胸の内を、涙を流しながら、告白した。
孝信が、雷に打たれたような顔で采女を見た。
采女の画才に一番期待していたのは、孝信であった。
采女の事を、祖父、狩野永徳の血を色濃く受け継いだ天才絵師であると、確信していた。
────二度と筆を持たないという、それほどの深い傷を、采女は負ってしまった。
一人の子どもの未来ある可能性を、人道から外れた魔物が、奪い去ってしまった。
孝信は脱力し、がっくりと肩を落として、
「……そうか……。
かような目にあったならば、誰しもがそうなることであろうよ……。
筆なぞ、もう持たなくてよい。
……絵なぞ、もう描かなくてもよいぞ……。采女よ……」
と、小さく呟いた。
蒼頡は、しばらく黙って采女の話に耳を傾けていたが、その後目線を落とし、持っていた絵をじっ……、と見つめながら、孝信と采女に向かって、
「この絵は、いくらになりますかな」
と聞いた。
「……え?」
孝信と采女が、同時に蒼頡を見た。
「この絵をぜひ買いたいのですが……。
お売りいただけますかな」
蒼頡がもう一度、孝信と采女に聞いた。
「……いや、し、しかし……!
この絵は鬼が持って行った……、呪われた絵であるぞ……」
孝信がそう言うと、蒼頡は、
「いいえ。違います」
と、首を左右に振って言った。
「この絵は、呪われてはおりませぬ。
鬼も惚れた、誰もが一目で心を揺さぶられるほどの、素晴らしい絵にござります。
長年に渡り画壇を牽引する狩野派の血を見事に継承している、まことに尊き、宝にござります」
蒼頡が、孝信の目を真っ直ぐ見て言った。
孝信が、はっとした。
「鬼が無理矢理描かせた悪しき絵なぞに、描いたものの魂が宿るはずがござりません。
鬼が納得しないのも、至極当然!
描く者が一筆一筆を丹念に、心を込めて描くからこそ、その清い魂が絵に宿り、念となって他者の心に届くことで初めて、見る者の心を動かすのです」
蒼頡が、力強く言った。
「采女殿」
蒼頡は続けて、きらきらと光るその目を采女の方に向け、ゆっくりと、話し出した。
「余程恐ろしく、辛い目にあわれたことでしょう。
孝信殿の言う通り、今はしばらく絵からも筆からも離れ、いっそ忘れてしまう方がよろしいかもしれません。
────しかしわたくしは、あなた様がいつの日か再び、その手に筆をとる日が必ず来ると、確信しております。
なぜなら、この世に生まれてきた全ての者には必ずその身に、この世で果たすべき天命があるからでございます。
天命とは、人がこの世で成し遂げるべき使命でござります。
それは、子どもを産み育てることかもしれません。
それは、天下を統一することかもしれません。
それは、一生をかけて主人に忠義を尽くすことかもしれません。
この絵を見る限り……わたくしには、采女殿の天命が絵を描くこと以外にあるとは、正直思えませぬ。
齢八つにして、溢れんばかりのその絵の才能。
狩野一派という、将軍家に認められるほどの素晴らしい画才を持つ血筋で生まれてこられたこと。
この深い深い縁は、鬼に襲われどんなにくじかれようとも、決して、揺るぐことはないと、わたくしは確信しております。
あなた様の絵には、人の心を動かす不思議な力がございます。
……今、たとえ御心つらく、好きであったものから離れることになっても……。
時が経てば必ずや、再びその神の手が、自然と筆を持つ日が来ることになるでしょう。
その時になれば、まるで蛹が蝶に生まれ変わるかの如く、采女殿が持つ溢れんばかりの絵師としてのその才能が、いつの日か素晴らしい形で発揮されることとなるでしょう。
そして必ずや、采女殿は一生をかけて、ご自身の天命を全うすることになると、わたくしは、信じておりますぞ」
蒼頡は、孝信と采女に向かってそう言い終えると、にこ、と優しく微笑み、持っていた銀二十匁を、輝く瞳で自分の事を見つめ続けている采女の右手の上に、す、と乗せた。
────────蒼頡の言った通り、わずか一年も経たない内に、采女は自然とその手に筆をとり、再び絵を描き始めるようになる。
鬼の筆騒動から約二年後の慶長十七年、采女はわずか十歳で、駿府の大御所となっていた徳川家康と謁見し、その才能を幕府に認められることとなる。
七年後の元和三年、十五の歳に、采女は江戸幕府の御用絵師となり、のちに京から江戸へ、本拠を移すことになる。
さらにそこから十八年後の寛永十二年、三十三歳になる年に、采女は剃髪し、名を変える。
その名は、狩野探幽。
城や有力寺院の障壁画といった数多くの絵画制作に携わり、三〇〇年に亘る狩野一派繁栄の土台を確立し、のちの狩野派の絵師たちに多大な影響を及ぼした他、歴史的にも偉大な功績を残した。
探幽が『画壇の家康』と呼ばれるようになるのは、それから更に、二百年以上先の話のことである────。