第5話 一縷
蒼頡、与次郎、孝信が絵を見つめていると、突如、絵の中の幽鴳が姿を消した。
幽鴳が消えたあと、その絵は周りに落ちている他の複数枚の絵と、全く同じ絵になった。
絵を横から覗いていた孝信が、突如絵の中の人物がいなくなったことに驚き、
「き、消えたぞ……!」
と、蒼頡に向かって言った。
蒼頡が、こくりと頷いた。
「……おそらく、私の文字を見て筆を探しに行ったか、あるいは……」
蒼頡はそこまで言ってから、少し間を置き、
「……鬼と、会っているかもしれません」
と言った。
孝信が、ぶるりと身を震わせた。
「お、鬼が、絵の中におるということか……!?」
孝信の問いに、蒼頡は、
「……はい。
おそらく、この絵の中におります。
……そして、采女様も……」
と言った。
「…………!」
孝信は、言葉を失った。
蒼頡が絵を見つめ続けていると、絵の中にある桜の木の後ろ側から、墨汁を一滴、二滴程垂らしたかのような黒い滲みが突如、静かにそこに、じわりと広がった。
「蒼頡様!……黒い滲みが……」
横から覗いていた与次郎が、蒼頡に言った。
蒼頡が、そのきらきらと輝く大きな瞳を見開き、突如現れた黒い滲みを凝視した。
すると、その黒い滲みは一瞬にして絵からふっ、と消え去り、また元の余白に戻った。
「む!?
……消えた……。
蒼頡様、今のはいったい……」
与次郎が言った。
「……ふむ。
桜の木の裏に……何か隠れておりますな」
蒼頡が、静かに言った。
◆◆◆
巨大な白猿姿となった幽鴳は、その場に漂う妙な違和感に、神経をぴん……と研ぎ澄ませていた。
地面には、鬼の角を持つ能面の首が、鋭い牙二本を剥き出しにし、ごろりと転がっていた。
首が無くなった、巨大な熊のような鬼の胴体はぴくりとも動かず、頭が無いまま、その場に立ち尽くしていた。
「…………は。
……どうも……きな臭えぜぇ……」
幽鴳は、転がっている能面の首をちらりと見たあと、微動だにせず立ち尽くす頭の無い熊のようなその巨躯を、もう一度睨んだ。
すると突然────。
「……う、うわあああ!!」
という子どものつんざくような叫び声が、奥から聞こえてきた。
幽鴳は、声のする方へ素早くその目を向けた。
見ると、岩の上で泣きながら悍ましい絵を描いていたあの童が、その筆を持つ右手を天に掲げ、空に向かって叫んでいた。
その筆の形状は、人の筋肉を剥き出しにしたような筆管で、どくん、どくん、と脈打つように動いている。
その右手に持っている筆管が、脈打ちながらぐねぐねと蛇のように、不気味に動き出した。
「ん!?」
幽鴳が、筆を凝視した。
次の瞬間、頭の無い熊のような巨体が、凄まじい速度で幽鴳の方に"ずぁっ!"と近づき、筆に気を取られていた幽鴳の背中に、ふっ、と回り込んだ。
そして、後ろから幽鴳の両腕を恐ろしい獣のような腕でがっちりと抑え、身動きが取れないよう、固定した。
「あ"!?」
突然の出来事に驚き、腕から逃れようと幽鴳がぐっ、と力を入れようとしたその時。
不気味にぐねぐねと動いていた筆が、その筆管を勢いよく“ずおおおっ……!”と、まるで如意棒のように、幽鴳の身体に向かって伸ばしてきた。
“────どむっ!”
幽鴳の腹に、筆管の先が直撃した。
「────ぐぅっ……!」
筆管の先は、いつの間にか日本刀のような鋭利な形状に変わっていた。
その筆管の鋭い切先が、幽鴳の腹の中心を、ずぶりと貫いていた。
筆管は、幽鴳の腹を刺したまま、ぐねぐねと蛇のように動いた。
筆管が動くたびに、幽鴳の腹から血がぶしっ、ぶしっと、飛び散った。
「────があっ!!」
幽鴳が、痛みで呻いた。
筆が、どくん、どくん、と脈打っている。
筆が、幽鴳の血を、吸っている。
「ほほほほ……。
美味じゃ」
転がっている能面の首が突如、笑って言った。
首だけでまだ、生きている。
幽鴳は、後ろから羽交い締めにしているその腕を振り払おうともがいたが、腹に穴が開き、血を吸われ、思ったように力が入らなかった。
「くっ……」
幽鴳が、痛みに耐えながら腹に刺さっている筆管を見、歯を食いしばりながらぐっ、と顔を上げ、童の姿を、険しい表情で見つめた。
その童の姿を見た瞬間、幽鴳はふと、何かを感じ、その童児が掲げている右手に張り付いている筆の穂先を、鋭い目つきで、じいっ……、と見つめた。
幽鴳は、ぱっ、と目を見開き、脳内に閃光が走ったかのような衝撃を受け、そこで、気づいた。
直後、吐き出すように「……っは!」と笑った後、口の端をにいっ……、と吊り上げた。
「……意味がやっと……わかったぜえ……蒼頡様……。
“筆を探せ”。
────筆が……本体ってえ……ことだなぁ……!」
ぐっ、と、幽鴳の身体に力がこもった。
しかし、身体から血を大量に奪われ、力が入らない。
幽鴳の意識が、朦朧としだした。
幽鴳は、薄れゆく意識をもう一度ぐっ、と奮い立たせ、童児の方を、"きっ!"と凄まじい形相で睨んだ。
「────おいっ!……童あ!!」
ごうっ……!と、その場に突風が巻き起こったかのような大声が響き渡った。
泣いていた童児が、びくっ、と身を震わせ、幽鴳を見た。
幽鴳が、童児に向かって言った。
「────筆の喉を切れ……!」
腹の底に響くような、低くはっきりとした声で、幽鴳が叫んだ。
笑っていた能面の顔が突如、驚いたような表情に変わり、首を童の方へ、ぐんっ、と向けた。
「……意味は……分かるはずだぜえ……。
────やれ! 童!!」
幽鴳が、渾身の力を込めて叫んだ。
今にも倒れそうなほど、ふらついている。
童児はそれを聞くと、ぶるぶると震えながら、筆の穂先を、ちらりと見た。
血のような赤い液体が滴っている。
童児の心臓が、ばくん、と鳴った。
「むうっ!」
能面の顔から、血の気が引いている。
童児はぶるぶると激しく震え、涙を流した。
「────やれ……!
地獄から……抜け出せる……。
親の元に……帰れる……ぜえ……」
童児に声をかけながら、幽鴳の意識が、遠のきかけた。
童児はぐっ、と歯を食いしばり、覚悟を決めたような表情に変わった。
能面の首が青ざめながら、
「ま、まて────!」
と、叫んだ。
童児は、ぎゅっ、と目をつむった。
“────────ぶちぶちぶちっ!!”
音が響いた。
童児が、筆の穂先の少し上の辺り────
筆ののどの部分を、思い切り、自分のその歯で、噛み千切った。
直後、噛み千切った筆の穂先から、真っ赤な血しぶきがどどどうっ、と勢いよく溢れ出した。
「「ぎ……ぎいやあああああ!!」」
能面の口と筆の両方から同時に、けたたましい叫び声がこだまし、辺り一面に響き渡った。
幽鴳を後ろから羽交い絞めにしていた頭の無い巨体は、力を緩め、その場に勢いよくどう、と倒れた。
童児は、口に含んだ筆の穂先を、苦虫を噛み潰したような顔で、べっ、と吐き出した。
筆と能面、そして胴体はすべて、溶けるようにどろどろになって消えてゆき、幽鴳の腹に刺さっていた日本刀のような筆管も、氷のようにじゅぅ……、と溶けて腹から消え、無くなった。
直後、どおおうんっ……、という地響きとともに、地震のようなぐらぐらとした大きな揺れが、その場に残った者たちを襲った。
すると、辺りの岩肌の地面が突如、ぼろぼろと土塊のように脆くなり、その地面が奥の方から手前に向かって、がらがらと崖の底へ崩れ落ち始めた。
「……くっ……!
まずい」
血を吸われ朦朧とした意識の中、幽鴳は自由になったその巨大な身体を"ばっ!"と俊敏に動かし、怪我をして動けない者たちを抱きかかえ、桜の木の下へ避難させた。
「こっちだ!」
幽鴳は、身体がまだ無事な者たちにも声を掛け、激しい揺れと恐ろしさで動けなくなっている人間たちを全員抱きかかえた。
そして、がらがらと崩れゆく地面から一番遠い桜の木の下まで連れて行き、童児以外のその場にいる人間たちを全員そこへ、避難させた。
桜の木の下に避難していない人間は、童児ただ一人となった。
「……童あ! 何してる!」
ごごごご……と大地が揺れ動く中、童児は放心状態となり、平らな岩の上から動けずにいた。
静かに、涙を流している。
その時、童児の座している平らな岩の周りが、まだその位置まで到達していないにも関わらず、突如“ぼこり”と穴が開き、がらがらと崩れ落ち始めた。
大きな穴がみるみる広がり、ぼろぼろと崩れ落ちる岩とともに吸い込まれるように、童児もその穴へ、無抵抗のまま、静かに落ちていった。
身体が穴の中へ落ちる、その刹那、童児は、溢れ出す涙が止まらないままのその目を、そっと閉じた────。
"────────がしっ!!"
「!」
ふわりと、身体が宙に浮くその不快感が、童児の中から消えた。
幽鴳が、落ち逝く寸前の童児の左腕をひし、と掴まえて、ぐんっ、と上に引き上げた。
「この世にいる限り────。
生きることを……!
あきらめちゃあ、いけねえぜぇ……。
────────腹に力入れろ……!……童!!」
そう叫んだ瞬間、巨大な白猿は童を掴んでいる自分の腕を勢いよく振り上げ、その童児の小さな身体を、桜の木の幹の方に向かって、思い切りぶんっ!と投げた。
投げた反動で、脆くなっていた足元の岩がぼろりと欠け、幽鴳は崩れゆく岩とともに、背中から巨大な穴の中へ、そのまま真っ逆さまに、転落した。
────その時であった。
どんよりとしていた薄暗い空から、凄まじく大きな光が、さー……っ、と、差し込んできた。
その光る空に、『顕』という巨大な文字が一文字、浮かんでいる。
次の瞬間、『顕』という文字から発するまばゆいほどの大きな輝きが一瞬にして辺りを照らし、童子やその場にいる人間たち、そして、落ちゆく幽鴳、そのすべてのものを、あたたかい光で優しく、包みこんだ。
直後、その場にいる者たちは皆、その優しい光に包まれながら、まるで安らかな眠りにつくかのように、意識をふっ……、と、一瞬で、失ったのであった────。