第4話 幽鴳
与次郎は、先程までいたはずの幽鴳の姿が突如いなくなってしまったことに驚き、動揺した。
部屋中を見渡したが、幽鴳は忽然と姿を消し、どこにも見当たらなくなってしまっていた。
与次郎が、急いで外へ探しに行こうと襖の方へ動きかけると、
「待ちなさい」
と、蒼頡が与次郎に声をかけた。
与次郎はぴたりと足を止め、すぐさま蒼頡の方にぱっ、と向き直った。
蒼頡は、床に転がっている瓶子を、集中しながらじい……っと、真っ直ぐに見つめている最中であった。
しばらく見つめた後、やがて蒼頡はおもむろに、その瓶子の元へ、一直線につかつかと歩み寄っていった。
そして、瓶子の周りにある絵を確認し、横をぐるりと見、その後ふと、天井を見上げた。
天井を見つめていると、一枚の絵が、蒼頡の目に止まった。
蒼頡は、その絵をじっ……、と見た。
孝信と与次郎は、蒼頡のその様子を不思議に思い、二人揃ってゆっくりと蒼頡に近づくと、両脇に立ち、蒼頡が見つめている天井の絵を、恐る恐る、同じように目を凝らし、見つめてみた。
蒼頡が目に止めていた絵は、構図から内容まで全く同じであるはずの周りにある複数枚の絵と、少し違った。
その絵だけ、桜の木の側に、小さく人の影が見える。
孝信が、
「猿か……?」
と、呟いた。
与次郎がはっ、と目を見開き、
「……幽鴳様!」
と、声を上げた。
「ふむ……」
蒼頡が、声を漏らした。
絵の中に、墨で描かれた幽鴳らしき人の姿が、そこにある。
「孝信殿。何か、踏み台はござりますか。
あの絵を、手に取りとうござります」
蒼頡が、孝信に向かって言った。
◆◆◆
気がつくと、幽鴳は白い霧の中に立っていた。
「……」
声は出さず、幽鴳は慎重に、辺りをぐるりと見渡した。
周りは真っ白い霧で覆われ、一寸先まで、何も見えない。
幽鴳は集中し、ぴんと気を張りつめ、辺りの様子を窺った。
すると、さーっ……、という水の流れる音が、幽鴳の耳に、微かに聞こえてきた。
「……川か」
幽鴳はぽつりとそう呟くと、音のする方へ、ゆっくりと歩き出した。
十歩ほど歩くと、目の前の霧の中に、大きな影が見えた。
近づいてみると、それは、立派な桜の木であった。
……しかし、その桜の木に、色が無い。
白と黒、二色だけの桜の木が、そこに聳え立っている。
絵に描かれていたあの桜の木だと、幽鴳は気づいた。
幽鴳はおもむろに、自分の掌をふ、と見た。
その分厚い掌には、赤みがかったいつもの色が無い。
雪のような、真っ白い手であった。
自身も色が消え白黒の姿であることに、幽鴳は気付いた。
幽鴳は思わず口の端を吊り上げ、吐き出すように笑った。
「……っはは!
……こりゃあ、おもしれえ。
絵の中か」
幽鴳がそう言った瞬間、突如、上空が暗く翳った。
幽鴳は、素早く空を見上げた。
すると、白い空の上に、
“幽”
という巨大な字が、黒雲のように空に浮かび上がっているのが、目に入ってきた。
幽鴳は思わず、
「……ほぉん……」
と声を漏らした。
直後、一瞬にしてその“幽”の字はすぐに、空からしゅう……と、溶けるように消えた。
「……ははっ。
……ありゃぁ……。
蒼頡様の字だな」
幽鴳は、すぐにそう悟った。
◆◆◆
蒼頡は踏み台に昇り、天井に張り付いていた、何十枚もある絵の中で唯一人物が描かれているその絵を、べり、と、慎重に剥がした。
近くでよく見ると、桜の木の側にぼーっと立ち尽くす、やはり幽鴳らしき人物が、絵となって、そこにいる。
蒼頡は、ふところから綺麗な螺鈿細工が施された矢立を取り出した。
そしてその絵の余白の部分、絵でいうと空にあたるであろう部分に、筆で、“幽”と書いた。
すると、絵の中でぼーっとしていた幽鴳が、次の瞬間、空を見上げる絵に突如、一瞬にして切り替わった。
絵が突然切り替わると、与次郎と孝信が、
「あ!」
「む!?」
と、同時に声を発した。
絵の中の幽鴳は、ちょうど、“幽”という字がある辺りを見上げている。
直後、“幽”の字は一瞬にして、しゅう……と溶けるように、紙から消えた。
「……蒼頡様、これは……」
横から絵を覗いていた与次郎が、蒼頡に聞いた。
孝信も、横から青い顔で、絵を見つめている。
「……ふむ……」
蒼頡の目が、きらきらと輝いている。
見ると、好奇心旺盛な、新しい玩具を見つけた子どものような顔をしている。
「面白い……」
蒼頡が、ぽつりと呟いた。
「これはいったい、何なのだ」
孝信が、蒼頡に聞いた。
「……この絵の中にいるのは、私の式神です。
どうやら、知らぬ間に絵の中に引きずり込まれたようですな」
蒼頡が、事も無げに言った。
「な、なに……!?」
孝信が、あまりよくわかっていない様子で、驚きの声を上げた。
「……絵の中に……式神が、引きずり込まれただと……?」
孝信は続けて、蒼頡の言葉の意味をもう一度確かめるように、反芻した。
与次郎はそれを聞き、心配そうに、絵の中の幽鴳を見つめた。
蒼頡は、先程“幽”という文字が消えた辺りにもう一度、今度は別の字を、墨でさらさらと流れるように書き始めた。
与次郎と孝信は、蒼頡の書くその文字を凝視し、どうすることもできず、ただ黙って、事の成り行きを見守っているばかりであった────。
◆◆◆
────幽鴳が空を見上げていると、また、白い空が暗くなった。
その空に、再び黒く巨大な字が一文字ずつ、合わせて四文字の言葉が、先程の“幽”と同じように、順に上空に浮かび上がってきた。
“筆”
“を”
“探”
“せ”
浮かび上がったその文字は、一文字ずつ順に空に浮かぶと、しゅう……とすぐに、出てきた順に、溶けるように消え去った。
幽鴳はそれを見ると、
「……おいおい、蒼頡様……。
さては……。
俺の心配なんか、これっぽっちもしてねぇな……」
と小さくぽつりと呟き、途端にやる気を無くし、げんなりとした顔になった。
が、すぐに、幽鴳は気を取り直した。
「……まあしかし、蒼頡様には俺の姿は見えてるってこった!
……“筆を探せ”か……。
ってこたぁ、この絵の中のどこかに、筆があるってことかぁ?」
幽鴳は、視界が悪い白い霧の中で、そこにある桜の木をもう一度確認し、辺りを見回した。
すると、突然物凄まじい殺気をその身に"ごぅっ……!"、と感じ、幽鴳は、全身にぞわりっ、と、鳥肌が立った。
直後、背後から何者かが、
"────ぐわっ!"
と物凄まじい勢いで、幽鴳に襲い掛かってきた。
大きな口ががばりと開き、にょきりと生えた鋭い歯が、幽鴳の首元に噛みつこうとした。
幽鴳はその身の軽さで、"ばっ!"と、その攻撃を咄嗟にかわし、横に"だんっ"と倒れた。
攻撃をかわす瞬間、噛みつこうとしてきたその口から出る生臭く嫌な臭いが、幽鴳の鼻を突いた。
幽鴳は、襲い掛かってきた化物の姿をしっかりと確認しようとしたが、辺りの白い霧が濃く、姿が見えなかった。
しかし、確実にすぐ側に、それはいる。
霧の中から、腹の底にずしん……と響くような不快な声が、幽鴳の耳に聞こえてきた。
「……ほお……。
ただの人間じゃないねぇ。
さっきの文字といい……。
ありゃ仲間かぇ……。
興味深いねえ……。
ここには私の筆以外で、
……何も書けないはずだがねぇ……」
女の声であった。
ぞっとするような女の低い声が、辺りに響いた。
幽鴳は、絵の中に入る直前に見た、白い能面のような女の顔を思い出した。
すると、上からぼとっ、と、何かが落ちた。
幽鴳が足元を見ると、そこに、人間の腕が、落ちていた。
その腕は肩から下の部位で、腕の肉を喰い千切ったような跡があり、血肉と骨が見えていた。
幽鴳は、桜の木を素早く見上げた。
桜の木の枝の上に、人影が見えた。
すると、
「……うぅ……。
うぅぅ……」
という、男の呻き声が、うっすらと耳に入ってきた。
霧が少し、晴れてきた。
「……うぅ……。
うぅう……」
「……ああ……。
誰か……。
……ああぁ……」
桜の木の幹の後ろから、男の呻き声とともに今度は女の泣き声も、幽鴳の耳に入ってきた。
幽鴳は、"だんっ!"、と白い地面を蹴り上げ、勢いよく駆け出し、桜の木の幹の後ろへ、ぐるりと回った。
その、桜の木の後ろに広がっていた凄惨な光景を、幽鴳は見た。
桜の木の裏側は、絵の雰囲気とは全く別物であった。
霧が消え去り、色が戻り、ごつごつとした黒い岩肌しかない風景が、どこまでもそこに、拡がっていた。
その岩肌の上に、十人程の人間が、苦しみの声を上げながら、皆倒れている。
岩肌には、血の跡がそこいら中についていた。
一人の男は、左の肩から喰い千切られたかのように腕が無く、血を大量に流し、地面に倒れている。
一人の女は両目を潰され、痛みで「うう……」と呻きながら、その場で悶えている。
一人の老人は膝から下の片方の足が無く、やはり喰い千切られたような跡があり、歩くことができず、ずるずると地面を這いながら動いていた。
まだ無事である一人の男が突如、霧の中に向かって必死の形相で、勢いよく走り出した。
すると、桜の木の中から、巨大な獣の腕がぬうっ……、と伸び、その鋭い爪で、その男の顔をざくり、と抉った。
幽鴳が絵の中に入る直前に見た、あの悍ましい腕であった。
男の顔から、"ごりっ……!"、という鈍い音とともに、そこにあった鼻が、その鋭い爪によって削ぎ落ちた。
幽鴳の目の前で、男が、
「ぎゃあ!!」
と叫び、顔を抑えてその場にどう、と倒れた。
残りの、まだ身体が無事な他の者たちが、その光景を見ないよう必死に目を閉じ、震えながら端の方で身を寄せ合い、そこに固まっていた。
ざわり……、と、幽鴳の身体中の毛が逆立った。
「……うっ…………うっ……」
今度は、子どもの泣き声が聞こえてきた。
見ると、重症を負い倒れている人間達のいるさらに奥の岩肌の中に、もこりと、平らに盛り上がる岩がある。
その上に、一人の子どもが、胡座をかき、泣きながら座していた。
子どもの周りには、百枚以上の和紙が散乱している。
その和紙には皆、人間が苦しむ様子、地獄絵図の端のような絵が描かれていた。
子どもは和紙を岩の上に置き、右手に筆を持って、泣きながら、ひたすら筆を持つ手を動かしている。
目の前の凄惨な光景を、そのまま、描いている。
……というより、無理矢理描かされているようであった。
子どもが持っている筆は、筆の先が赤黒く、血のようである。
持ち手は長く、まるで人間の筋肉を剥き出しにしたかのような形状をしており、どくん、どくん、と、脈を打って、子どもの手の中で、心臓のように気味悪く動いていた。
獣の手が、削ぎ落ちた男の鼻をぐちゃりと持ち、桜の木の中に消えた。
直後、くちゃ……、くちゃ……、という鼻を食べる音が、その場に響き渡った。
「……お前は、どの部位を啖うとしようかねぇ……」
桜の木の上からまたしても、幽鴳に向かって、どろどろとした怪しげな女の声が聞こえてきた。
「……おお! そうだ……。
見ておると、金玉がうまそうだ……!
ぬしの顔は、金玉がうまそうな顔をしておる……!
ひひひひ……!
……決めたぞ。
金玉を啖うぞぇ……」
女がそう言い終わった直後、桜の木の上から白い能面のような顔の女が突如"ざっ!"と飛び降り、幽鴳の目の前に現れた。
白い装束を着ており、口の周りは、血まみれであった。
その不気味な顔が、幽鴳をじっと見据え、にたり、と怪しく嗤った。
一見すると人間の身体に見えたその立ち姿であったが、やがてその身体はぼこり、ぼこりと音を立て、みるみる膨れ上がり、着ていた白い装束はべりべりと引き裂かれ、能面の顔を残して、六尺ほどの大きさの毛むくじゃらの熊のような身体に、それは変化した。
同時に、頭からは角が二本生え、牙も二本、にょきりと生えた。
腕は地面に着くほど長く、先程逃げ出そうとした男の顔を抉ったその腕と同じであった。
幽鴳は、ぐっ、と腹に力を込め、鋭い眼光で、能面の女を射るように睨み付けた。
能面の顔を残したその鬼は、ずん、と重そうなその巨躯を驚くほど素早く動かし、突如目の前にいる幽鴳に向かって、再び勢いよく、
"────ぐあっ────!"
と襲い掛かってきた。
"────────カッ!!"
能面の長い腕が伸び、鋭い五本の爪が幽鴳の下半身を抉りそうになるその瞬間、幽鴳の身体が白く光り出し、鋭い閃光を放ち、能面の目を一瞬眩ませた。
"────ぶしゅっ"
その閃光に怯んだ能面の首が、次の瞬間、血しぶきを上げながら胴体と離れ、宙に飛んだ。
能面の首は、ごつごつとした岩肌の上にどんっ、と落ち、一度跳ね、その後重い音とともに、ごろり……と、地面に転がった。
幽鴳の身体から発していた閃光が、徐々に収まってきた。
幽鴳がいたその場所に、光の中、十尺はあろうかという巨大な影が、ずぉぉ……、と凄まじい気を放ち、そこに"ずん……"、と立っていた。
それは、巨大な白い猿であった。
猫のような小さい耳が、頭の高い位置についている。
顔は赤く猿そのもので、瞳はきらきらと黒く大きく、丸い。
よく見るとひょうきんな顔で、愛嬌がある。
尾は狐のように太く、ふさふさとした毛に覆われ、長い。
全身が白く、美しい毛並みであった。
巨大な猿はその白い全身の毛を逆立て、怒りの気を鋭く放出しながら、転がっている能面の首に向かって言った。
「…………反吐が出るぜぇ…………。
蛆虫以下の下衆女よ……。
……そんなに俺の金玉が喰いたきゃあよぉ……、
────仙姿玉質!
天女にでもなって……、
出直してきなぁ……!」
"ごぅっ!"と、桜の木が倒れるかと思うほどの激しい突風が、その場に巻き起こった。
瑞獣の姿になった幽鴳は、全身の毛を逆立て、白く美しい巨大な身体を怒りで激しく震わせながら、能面の首を一瞬で刎ねたその鋭い爪を持つ右手をぐっ、と力強く握り締め、かつてないほど、激昂したのであった────。