第2話 鬼の筆
「そなた、狩野孝信殿のことは知っておるな」
泰重が、蒼頡に向かって訊ねた。
「……はい、存じております。
狩野永徳殿の、御子息でござりますね」
蒼頡が、頷いて言った。
────狩野永徳。
日本絵画史上随一と謳われた、織田信長や豊臣秀吉に仕えた天才画人である。天下人に愛された大絵師であり、天正18年、満47歳の若さで亡くなっている。
狩野孝信は、永徳の次男である。
「────……その孝信殿の御子息、
────永徳殿の御令孫にあたるのだが────、
その御子息が、実は五日ほど前から、行方知れずになっておるそうだ」
泰重が言った。
「……行方知れず……」
蒼頡が呟いた。
「うむ。采女という名で、歳は八つになる。
……どうやら、鬼に連れ去られたらしい」
「えっ」
横で聞いていた与次郎が、泰重の言葉を聞き、声を上げた。
泰重は、話を続けた。
「……采女殿は永徳殿譲りの素晴らしい画才をお持ちで、たまに町中などで自分が描いた絵を売っておったそうだ。
七日前、河原で絵を売っていると、人に化けた鬼が現れた。
鬼は人間の姿であったので、采女殿は鬼と気づかず、警戒しなかった。
その絵を見た鬼があまりの素晴らしさに一目でその絵を気に入り、喉から手が出るほど欲したが、金が無い。
そこでその鬼は、自分が持っていた一本の筆を采女殿に渡して、こう言ったそうだ。
"────その筆で描けば、もっと素晴らしい絵が描ける。
その筆で描いた絵は何十枚も何百枚も飛ぶように売れ、この絵一枚の何千倍もの金が手に入るだろう────"
采女殿はそれを聞き、あまり深く考えず、筆一本と絵一枚をそこで交換したそうだ。
鬼は喜々として、その絵を持って帰ったらしい。
その日の夕刻、采女殿はその筆で、一枚の絵を描いた。
鬼に渡した絵と全く同じ絵を、その鬼からもらった筆で描いてみたのだ。
するとその直後、采女殿は突然目を見開き、瞬きもせず、絵を何枚も描き始めた。まるで取り憑かれたかのように、絵を描くことに没頭しだしたそうだ。
孝信殿がいい加減寝るように言いつけても、全く聞こえていない様子でひたすら筆を走らせている。
あまりにも夢中で描き続けているため、孝信殿はこれ以上描くことをやめさせようと采女殿に手を伸ばし、
「いい加減、描くのを止めよ」
と言って、筆を持つ右手の腕を掴んだ。
すると、采女殿の顔が突如、みるみる鬼の形相になった。
額から二本の角が生え、目つきは鋭くなり、血走りだした。
口元から、にょきりと牙が生えた。
孝信殿が驚いたと同時に、采女殿が物凄まじい力で孝信殿を殴り飛ばした。
最早、八つの齢の童の腕力ではない。
孝信殿は頭を打ち付け気を失い、気づくと夜が明け、朝になっていた。
目を開け部屋を見渡すと、同じ絵が描かれた和紙が部屋中に七~八十枚ほど散乱していた。その真ん中で、采女殿は鬼の筆を握りしめたまま、眠っていたそうだ。
どうやら描き始めた夕刻から次の日の朝方まで采女殿は一晩中、その鬼から貰った筆で、脇目も振らず同じ絵をひたすら描き続けていたようであった。
ちなみにその日は望月であったので夜でも比較的明るかったが、それでも月明りの中で描くというのはさぞ難いことであったにも関わらず、その絵は寸分の狂いもなく、皆全く同じ絵であったとのことだ」
泰重は話し続けた。
「孝信殿はそこで、これは鬼の筆だと悟った。気を失う前、采女殿が鬼の形相に変わったからだ。
それで恐ろしくなり、手下の者に絵を全て燃やせと命じたが、驚いたことに、手下の者たちがどれだけ絵を火に焚べても、その絵が全く燃えない。
筆も、なんと采女殿の右手にぴったりとくっついて、離れない。
どうすることもできず、鬼の筆も鬼の筆で描かれた絵も手元に持っていたくなかった孝信殿は、とりあえず先に絵の方を町で売りさばくことにした。
二束三文でも構わないと思いながら手下の者に絵を売りに行かせると、なんと、その絵は町中で飛ぶように売れ、あっという間に、一枚も無くなってしまったのだ。
孝信殿が手下の者からそれを聞き、ひとまず安堵して屋敷に戻ると、采女殿が再び狂ったように絵を描き続けていた。
先ほどまで軽くなっていた孝信殿の心は、途端に陰った。
孝信殿も屋敷の者たちも、どうすることもできないまま、また夜が明けた。
そして次の日の朝、孝信殿が夢うつつとなっていたところを目が覚めると、部屋はやはり同じ絵が何十枚も散乱しており、そこにいた采女殿の姿が、筆とともにいなくなっていたそうだ。
────その日以来、采女殿だけでなく、その絵を買った者達も、どうも今次々と、行方知れずになっておるらしい」
「……絵を買った者達も、でござりますか」
蒼頡が聞き返した。
「左様。
絵だけがそこに残され、この五日で二十人ほどだが、持ち主が次々に消息を絶っておるらしい。
絵を買った未だ無事な者たちは、その話を聞いてもなぜか皆自分の手元からその絵を頑として手放さないらしく、家にいる他の者たちが恐々としておるそうだ」
泰重はそこまで話し終わると、蒼頡の顔を改めて見つめ直して言った。
「……そこで、そなたに孝信殿の元へ行って、絵について確かめてもらいたいのだ。
消息を絶った采女殿や絵を買った者たちがどこへ行ったか、そして鬼の筆についても、調べてほしい。
私は別の仕事が立て込んでいるため、京には行けん。
それに、鬼の筆とあらば、そなたはきっとその目で見たいだろうと思ったのだよ。
蒼頡。そなたが適任だろう」
泰重の言葉に、蒼頡は頷いた。
「……なるほど。承知いたしました。
確かに鬼の筆……どんなものか、一度この目で見てみとうございますな。
────そうと決まれば、では急いで、孝信殿の元へ伺いましょう。
……与次郎。すまぬが、京まで私を連れて行ってくれるか」
蒼頡に聞かれ、与次郎は、
「勿論でござります。
今から出立すれば、夕刻には京に着きます」
と言った。
それを聞き、泰重が、にっ、と笑った。
「よし。
────では、蒼頡。
……あとは頼んだぞ」
泰重はそう言うと、桜の幹に留まっていた巨大な鬼蜻蜓に向かって、
「青竹、行こうか」
と言った。
青竹と呼ばれたその巨大な鬼蜻蜓は、美しく大きな四枚の翅を優雅に動かし、今までひっそりと留まっていた幹から離れ、泰重の頭上で翅だけを小刻みに動かしながら、静かに宙に浮いた。
泰重は去る直前、与次郎の顔を見た。
目が合った与次郎は、少し、どきりとした。
泰重は再びにっ、と笑って、
「……任せたぞ」
と言うと、頭上の六本ある青竹の脚の一つを、左腕を上に伸ばし、左手でぐっ、と掴んだ。
青竹は泰重に脚を掴まれると、泰重が落ちないかを確かめるように一呼吸置いた後、そのままゆっくりと、空へ昇った。
泰重は地面からふわりと浮き上がり、青竹とともに、空へ昇っていった。
木の上まで浮き上がると、青竹は飛びながら、器用にくるりと後ろを向いた。
青竹の脚を掴んでいる泰重も、同じくくるりと背を向け、縹色の袍をひらりと靡かせた。
泰重と青竹は、そのまま屋敷の外の森の中へ、すぅっ、と消えて行った。
泰重と青竹の姿が見えなくなると、与次郎は、
「……あの御方はいったい……」
と、蒼頡に向かって訊ねた。
「……うむ。
あの方は、右近将監、及び蔵人の、土御門泰重様だ。
まさかこの屋敷まで式を連れて参られるとは、驚いた。
……あの方に直々に頼まれては、断れまい。
────すぐ支度をして行くぞ、幽鴳!」
蒼頡は、持っていた五色の縄の先をぐっ、と握って、声を上げた。
幽鴳は縄に巻かれたまま、
「……こんな姿じゃ、支度なぞしたくてもできませんぜ……蒼頡様……」
と、げんなりとした顔で、蒼頡に向かって、ぽつりと呟いた。
◆◆◆
「────俺は、邊春山って山からこの国にやってきたのよ」
巨大な白狐の背に乗った幽鴳が、腰につけていた瓶子を右手で持ち、中の酒を一口ぐびりと飲んでから、与次郎に向かって、意気揚々と話し出した。
幽鴳の前に座している蒼頡が、背から聞こえてくる幽鴳の話に耳を傾け、微笑みながら黙していた。
白狐の姿の与次郎は、蒼頡と幽鴳を背に乗せながら、凄まじい速度で、道なき道を飛ぶように駆けていた。
「山はまあ居心地が良かったが、永く住んでると外の国が気になり出して、ちょいと抜け出したくなっちまったんでさぁ。
そしてまぁ、海を渡って、この国にきた。
そうしたら、この国に来てから、酒がうまい! と気づいたのさあ!
そこで俺は、この国のあちこち、いたるところの酒屋を回って、根こそぎ酒を盗んでは、仰ぐように呑むようになっていった。
そうしてそんなことを繰り返していたある日、蒼頡様が、俺の目の前に現れたってわけさぁ!
いやぁ、あの時のことは忘れもしねえぜ……。暴れたら和紙から出た縄で縛られて、そこで蒼頡様が、あいつを出してきたんでさあ……!」
幽鴳が、腹の底に力を込めながら言った。
「……あいつ?」
与次郎が、駆けながら聞いた。
「狡のことか」
蒼頡が言った。
すると幽鴳は、頭をふりふりと振って、
「……悪いが蒼頡様よ……その名は聞きたくねえんですよ。
俺は初めてあったあの日あの時から、奴だけはこの俺の手で斃すと、この身に固く誓ってるんでさあ!」
と言った。
「聞け与次郎。
奴は俺がそれまで必死にかき集めた大事な酒一石を、全て、丸ごと、駄目にしちまったんだぜ……!」
幽鴳は、悔しそうに顔をしかめてそう言った後、奥歯をぎりりっ……と噛み締めた。
すると蒼頡が、
「……しかし、そなたもその時、狡の大事な生きた牛五頭を全て、跡形も無く燃やしてしまったではないか。
狡はそれに怒って、今のおぬしと全く同じことを言っておったぞ。
“奴だけは、絶対にこの俺が始末をつけてやる”とな」
と言った。
幽鴳は、
「蒼頡様!
牛五頭なんか、すぐ手に入りますさあ!
俺が各地で集めた酒一石分の価値とは、わけが違えますぜ!!」
と鼻息を荒くし、顔をさらに真っ赤にして、声を上げた。
蒼頡はそれを聞き、
「狡も、そなたと全く同じことを言っておったぞ。
一石分の酒など、すぐ手に入るとな。
……そなたたち、実は仲が良いのではないのか」
と、少し楽しそうに言った。
幽鴳は酒を一口含み、再び頭をふりふりと振って、
「やめてくだせぇ、蒼頡様。
酒の恨みは、根深いですぜ……!」
と、目をぎらぎらさせながら言った。
「……そなたは飲み過ぎです。
何事も、ほどほどにしておかねばなりません」
蒼頡が諭すように、幽鴳に言った。
与次郎は、背中に乗せた二人の会話を聞きながら、不思議と心が満たされたような気持ちになり、自然と顔がほころんだ。
京にある狩野孝信の屋敷に着くまで、幽鴳はこの調子で、酒を飲みながら息つく暇無く、ひたすら話し続けていた。
────暮れ六つ。
夕闇が迫り始めた頃、蒼頡、与次郎、幽鴳の三人は、京にある狩野孝信の屋敷の前に辿り着いた。
与次郎は屋敷を見た瞬間、ざわざわと、心臓が騒ぐのを感じた。
屋敷全体に、不気味な黒い靄がごうごうと覆い被さり、肌にびりびりと不吉な魔の気が突き刺さってくる。
与次郎は、屋敷の前でしばらく立ち尽くしたまま、その不穏な空気を、その身に痛いほど、感じ取っていたのであった────。