第1話 春曙
東の空が、徐々に白んでいく。
寒さが和らぎはじめた夜明けの山中はなんとも清々しく、辺り一面、空気が澄み渡っていた。
風薫る、新緑の季節である。
山の木々とともに蒼頡の屋敷にもその曙光が射し始めると、静謐な木々の間から、やがて、
“ぴいぴぴ”
“きょろん”
“ちちちち”
といった、山に棲む鳥たちの鳴き声が少しずつ、聞こえ始めていた。
与次郎は、障子から漏れる鳥の鳴き声と、朝陽の新樹光によって、ぱち、と、目が覚めた。
田塚万太の屋敷で起こった百足騒動の一件から、七日が過ぎた日の朝であった。
月日は遡り、佐兵衛と女中の遺体が見つかる知らせを蒼頡が受ける、二十日ほど前の日のことである。
与次郎は布団からむくりと起き上がり、身なりを整えた。
すっ、と静かに襖を開け部屋を出ると、井戸の水で顔を洗い、外の縁を歩いて、与次郎は大広間へ向かった。
蒼頡の屋敷は部屋がいくつもあり広大であるが、この屋敷の中で最も大きな部屋が、中庭が一望できる、広縁がある五十畳ほどの大広間であった。
蒼頡はこの大広間が好きで、屋敷内にいる時はよくそこにいた。
与次郎もその大広間が気に入り、そこにいる蒼頡の側によくいるようになった。
たまに蒼頡が中庭に出ていき、庭の植物や池の鯉を世話している様子をぽーっと眺めるのが、与次郎は特に好きであった。
与次郎が大広間に行くと、蒼頡が広い中庭で、清々しい朝の陽光をいっぱいに浴びながら、庭の木々を見ているところであった。
蒼頡のその後ろ姿は、白い狩衣が朝の光を反射しているせいかひと際眩しく、なんとも崇高な雰囲気を漂わせていた。
「……素晴らしく心地の良い朝でごさいますね」
与次郎が、広縁から蒼頡に向かって声をかけた。
蒼頡が後ろを振り返り、与次郎に向かって、
「まことに、良い朝ですな」
と、微笑みながら言った。
与次郎が大広間に入ると、奥の襖がすすす……と開き、奥から、真っ白い小袖を着た若い女が、朝餉の盆を持ってしずしずと現れた。
女は、白く美しい髪を頭の高いところでひとつに結び、髪が腰まで伸びている。前髪は、額の真ん中で分かれていた。
蒼頡の式神の、白百合である。
白百合が蒼頡の朝餉の盆を運び入れると、いったん奥に引っ込んでから、今度は与次郎の分の朝餉の盆を両手に持ち、再び現れた。
「……かたじけない」
与次郎が、白百合に向かって言った。
白百合は軽く頭を下げ、与次郎の顔を見てにこりと微笑むと、しずしずと、奥の間へ戻っていった。
朝餉の匂いを嗅ぎつけ、蒼頡が中庭から大広間へすっ、と入ってきた。
蒼頡が床の間の前に座り、与次郎は蒼頡の右前の脇に、横を向いて座した。
蒼頡と与次郎の目の前にある盆には、粟飯、蕨入りの味噌汁、たくあんと梅干し、鰯が一尾、載っていた。
二人は手を合わせ、温かい椀を持った。
味噌汁を一口美味そうにすすった後、一呼吸置くと、蒼頡は与次郎に向かって、
「……そういえば、与次郎。急な話ですまぬが……。
実は、少し遠出をして、買わねばならぬものがあります」
と言った。
「は」
与次郎が、ぽりぽりと噛んでいた付け合わせのたくあんと粟飯をごくりと飲み込んだあと、蒼頡の顔を見て、声を漏らした。
「よろしければ、付き合っていただけますかな」
蒼頡が、にこにこと笑顔で言った。
蒼頡の心がうきうきと沸き立っている気色が、与次郎に伝わってきた。
「はい、もちろんでございます。是非、御供させてください」
与次郎は即答した。
蒼頡の様子に、与次郎まで心がわくわくとしてきていた。
「では、朝餉を食べ終わりましたら、支度いたしましょう」
蒼頡はそう言って、鰯の腹を食んだ。
「……遠出とは、どちらまで行かれるのですか」
与次郎が蒼頡に向かって聞いた。
蒼頡は、味わっていた鰯と梅干しの果肉を一緒にごくりと飲み込んでから、
「美濃と、大和です」
と言った。
「……えっ!
み、美濃と、大和でござりますか!」
与次郎が驚いて言った。
与次郎が思っていたより、だいぶ遠い地であった。
「一体、何を買うのでござりますか」
与次郎が問うと、蒼頡はたくあんと粟飯をぽりぽり、もぐもぐ、と味わい、味噌汁とともにゆっくりと飲み込んでから、
「和紙と、筆です」
と言った。
(あっ!)
と、与次郎は思った。
────美濃和紙と、大和の奈良筆。
その品質は素晴らしく江戸でも有名であり、与次郎も耳にしたことがあった。
蒼頡はその両方を気に入っており、たまに直接買い付けに行くとのことであった。
「……そういうことでござりましたら、しっかりと旅の準備をせねばなりませぬな」
与次郎は、粟飯を鰯と梅干しとともにかき込んで、もぐもぐとよく噛み、飲み込んだ。
「実は、与次郎ともう一人、幽鴳を連れて行こうと思っています」
蒼頡が、味噌汁を飲み干して朝餉を完食した後、与次郎に向かって言った。
「は」
与次郎は再び、返しの言葉を漏らした。
“幽鴳”。
与次郎が初めて聞く名であった。
「わたくしの式の一人ですが……まだそなたは会ってはおりませんね。
よく喋る男なので少し五月蠅く感じるかもしれませんが、与次郎なら、すぐ打ち解けるでしょう」
蒼頡はそう言って、ふふっ、と軽やかに笑うと、突然手を大きくぱんっ、ぱんっ、と、二度叩いた。
直後、
「幽鴳、おるか」
と、天井に向かって声を掛けた。
しかし、しばらく経っても、返事が無い。
────すると、やがて外の庭の方から、
「────……やめろやめろ!
────わかった、わかった! 行くから……離せ!
────……狛! ちょっと待て……────!」
と、若い男の声が聞こえてきた。
与次郎が声のする中庭を見やると、
“……ざっ”
と、蒼頡の式神である、白い狛犬の狛が、見知らぬ男の襟元を咥えて、その男の体をずるりと力強く引きずりながら、中庭に現れた。
「……離せ、狛!」
男は、じたばたともがいて狛から逃れようとしていた。
しかし、男の襟元が狛の口にがっちりと咥えられていたため、無駄な抵抗であった。
もがく度に、男が腰に下げている瓶子が、地面にごとごとと音を立てて跳ねた。
狛に捕えられたまま、男は、蒼頡と与次郎の方を、ちらりと見た。
その男は背が少し低く、顔は赤ら顔で、まるで猿のようであった。
与次郎と目が合うと、男は両目をぎゅっ、と瞑った。
そして、狛に首元をがっちりと咥えられたまま、突然その場で“すぅー……”と息を吐き、寝たふりをした。
与次郎は、ぽかん、とした。
「狛……連れてきてくれたのか。有難う」
蒼頡が、にこにこと笑顔で言った。
どうやら幽鴳は先程まで大広間の近くにいたらしく、蒼頡と与次郎の話が聞こえた直後、その場から逃げ出したようであった。
「幽鴳。寝たふりはわかっております。
美濃と大和の旅路に、付き合ってもらいますぞ。
与次郎を紹介するから、起きなさい」
蒼頡が、男に声を掛けた。
猿顔の男はそれを聞くと、ぱちっ、と目を開けた。
狛が、ぱっ、と口を開き、引っ張ってきた男を解放した。
狛から解放されると、男はどてっ、と頭を地面に打ち付け、「痛てっ」と小さく呟いてから、何事も無かったかのように突然その場にすくっ、と立ち上がり、着ている小袖についた土を、ぱんっ、ぱんっ、と払った。
「……ふっ。
ばれちまってんなら、しょうがねぇ……」
猿顔の男が、観念したように、芝居じみた口調で言った。
「紹介なんざいらねえさ、蒼頡様よ。
その旦那のことは、この飛耳長目の幽鴳様の耳に、とっくに入っておりやすさぁ!」
幽鴳が、饒舌に言った。
「千里を十日で駆け抜ける噂の飛脚たぁ、その旦那のことでございやしょう。
素晴らしい才をお持ちでさぁ。
しかも、蒼頡様に仕える式神たちの中でその旦那だけは、蒼頡様の側から片時も離れないと聞いておりやすぜ!
なんて忠義に厚い旦那だ」
幽鴳が、目頭を押さえ、頭をふりふりと振って言った。
「ぬしとは大違いだな!」
蒼頡がそう言って、はっはっはっ、と笑った。
「違ぇねえ!」
幽鴳がそう言って、はっはっはっ、と笑いながら、その場から離れようとした。
「これ!」
蒼頡がそう言ったと同時に、和紙から飛び出した五色の縄が幽鴳の上半身に"ぎゅっ"、と巻き付いた。
縄に捕らえられた幽鴳は、「ぐぇっ」と蛙のような声を出した。
「……っだぁー! 畜生っ。
わかった、わかった!
縄を解いてくだせぇよ、蒼頡様っ」
幽鴳が再び、観念したように言った。
与次郎はそれを見て、なんだか幽鴳のことを気の毒に思った。
「……行くのを嫌がっていらっしゃるのでは……」
と、与次郎が蒼頡に聞いた。
「幽鴳、嫌なのか」
蒼頡が、幽鴳に聞いた。
「……嫌に決まっておりやすさぁ!」
幽鴳が、縄から解放されないまま、赤ら顔をさらに赤くして叫んだ。
「何故だ」
「何故でござりますか」
蒼頡と与次郎が、同時に聞いた。
幽鴳は、
「同時に聞くなっ」
と喚いた。
そして、
「……俺はよう、毎日気ままに酒飲んで、ぐっすり寝ていたいんでさぁ!!」
と言った。
与次郎は悟った。
幽鴳は、行くのが面倒くさいのだ。
「大体、なんで俺なんでさぁ!
他のもんに頼んでくだせぇよ!」
幽鴳がそう言うと、
「おぬしは、何も言わねばずっとぐうたら酒を飲んで寝ているだけだからな。
たまには、わたくしの用事に付き合ってもらいますぞ」
と、蒼頡が笑顔で言った。
「それに、人数が増えた方が楽しいだろう」
蒼頡が楽しそうにそう言った、その時。
「────それはそれは……話が早いな」
中庭から、男の声がした。
与次郎は、心臓が跳ねた。
蒼頡、与次郎、幽鴳が、声のした方へ、一斉に振り向いた。
するとそこに、蒼頡の身長ほどはある、一匹の巨大な蜻蛉が、中庭の桜の木の幹に、息を潜めるようにとまっていた。
立派な四枚の翅と緑色の大きな目、黒と黄色の縞模様が入った長い尾を持っている。
鬼蜻蜓である。
なんとも素晴らしい、立派な姿の鬼蜻蜓であった。
その、巨大な鬼蜻蜓がとまっている木の幹の後ろから、縹色の袍を着た、一人の品のある男が、すっ、と現れた。
「……よう、蒼頡よ。久しぶりだな」
男が、爽やかな笑顔で言った。
「……泰重殿!」
蒼頡が、目を見開いて言った。
珍しく、驚いている。
「おぬし、また式が増えておるではないか」
泰重がそう言って、からからと笑った。
────その瞬間、与次郎は泰重と目が合った。
泰重に、与次郎の姿が見えている。
一瞬、泰重は蒼頡の式なのかと、与次郎は思った。
しかし服装やその所作から、この世の高貴な身分の人間であることと、蒼頡の泰重に対する態度によって、式とは違うとわかった。
この世に生きる人間の中で、自分の姿が見えるのはもはや蒼頡ただ一人だと思っていた与次郎であったが、目が合ったそのたった一瞬で、泰重がただものではないということが、与次郎は即座にわかった。
「こちらへ直接いらっしゃるとは、珍しいですね。
……どうぞ、中へ」
蒼頡が泰重に向かって、大広間へ上がるよう促した。
「いや、ここで結構。用件を伝えたら、すぐ戻る。
……すまぬがお前に一つ、頼みたいことがあって来たのだ」
泰重が、声を低くして言った。
「なんでございましょう」
蒼頡が聞いた。
「実は、すぐに京へ発ってほしいのだ」
泰重が言った。
「……京、でございますか」
蒼頡が聞き返した。
「うむ。
すまぬがこの件については、そなたにしか頼めん。
聞けば、美濃と大和に行くというではないか。
……いやなに、立ち聞きするつもりはなかったんだが、耳に入ってきたもんでな。悪気はなかった、許せ。
……それを聞いて、ちょうどよいと思ってな。
美濃と大和にほど近いし、京もそのついでに、行ってきてはくれぬか」
泰重がそう言って、にっ、と笑った。
「……いったい、何があったのでござりますか」
蒼頡が、そっと逃げようとする幽鴳に巻かれた五色の縄の先端をぎゅっ、と握りしめて、泰重に訊ねた。
幽鴳は、縄からも蒼頡からも逃れられないまま、苦虫を噛み潰したような顔をして、与次郎の顔をその場で為すすべなく、見つめ続けていた────。




