第6話 独山
朽葉が大百足を喰らい尽くすと、辺り一面にいた筆ほどの大きさの小さな百足の大群は、砂のようにさーっ、と、一匹残らず、あっという間に消え去ってしまった。
大百足を喰い終わった朽葉は、磯鵯の姿から人間の姿へ、しゅるりと戻った。
「蒼頡様。
これでわたくしの役目は終わりましたので、失礼させていただきます。
……久々の御馳走でございました」
朽葉が蒼頡に向かって満足気に言うと、蒼頡はにっこりと笑って、
「うむ。
朽葉、御苦労でありました。有難う。
ゆっくり休みなさい」
と、朽葉に礼を言った。
朽葉はその言葉を聞くと、大きく黒い瞳をきらりと光らせ、長い振袖をひらりと翻して、その場から瞬く間にしゅんっ、と消え入ってしまった。
朽葉が消え去り、佐兵衛の部屋やその中庭は、今までの騒ぎが嘘であったかのように、しん……、と静まり、元の静寂な状態に戻った。
蒼頡は、佐兵衛に向かって、
「もう起き上がっていただいてよろしゅうございますよ」
と言った。
佐兵衛は、むくりと上体を起こした。
側で震えていた女中は、布団を被ったまま首から上を出した姿で佐兵衛にひっつき、怯えた目で蒼頡を見上げた。
蒼頡は腰を落とし、佐兵衛と目線を合わせてから一呼吸置くと、低い声で、ゆっくりと話し始めた。
「佐兵衛殿。
弥貴子様の病は、わたくしの式たちによって呪いの元を断ち浄化することができましたので、直に良くなるはずでござります。
ご安心なさってください」
蒼頡は、優しい声で言った。
佐兵衛は、眉間に皺を寄せた険しい表情のまま、蒼頡の言葉を聞いていた。
蒼頡は続けて言った。
「……ただ……。
ひとつ、あなた様に、助言がございます。
これから先、なによりもまず弥貴子様には全身全霊の愛情を注ぎ、弥貴子様を一番大切になさってください。
もう二度と、他の女性と、かような逢瀬を重ねてはいけません。
もし守らなければ、その癒えた傷が再びぶり返し、あなた様を永劫に苦しめることになるでしょう」
佐兵衛は、心臓がどくん、と大きく鳴ったのを感じ、ごくり、と、唾を小さく飲み込んだ。
蒼頡は次に、布団を被っている女中の方を向いた。
「あなた様は、できることならこの屋敷からすぐに出る方がよろしいでしょう。
他の奉公先を探しなさい。
もう二度と、佐兵衛殿と二人きりで会ってはいけません。
絶対に」
蒼頡がそう言うと、女中は震えながら、
「……そ、そんな……!
な、なにゆえそのような……。
……こ……この屋敷以外に行くあてなど……、わたくしにはござりませぬ……」
と、か細い声で言った。
「あなた様は、このままこのお屋敷にいてはいけません。
佐兵衛殿。
どうかこの御方の奉公先をすぐに探して、早急に手配をしていただきたく存じます」
蒼頡が言った。
佐兵衛は返事をせず、黙ったままであった。
顔から、冷汗が垂れている。
「……屋敷から出ないと、どうなってしまうのですか」
女中が、蒼頡に聞いた。
蒼頡は、月明りの刺さる部屋で女中の目を真っ直ぐ見ながら、
「……今宵起こりました出来事より、もっと恐ろしいことが起こるでしょう」
と言った。
────その時。
“……ごおおおおっ……”
と、中庭から物凄まじい気が、荒波のように蒼頡と与次郎の全身を襲った。
蒼頡と与次郎はその重い気をびりびりと感じ取り、ぐらぐらと揺れ動く身体が倒れないようぐっ、と踏ん張った後、二人揃って、同時に“ばっ”、と、素早く中庭を見た。
「……む!?」
蒼頡と与次郎が中庭を見やると、月明りの中に、大きい影が浮いていた。
それは、岩であった。
大きな岩がふわりと、宙に浮いている。
その岩は、紫色の靄を纏っていた。
その形、大きさ、そして紫色の靄を纏ったその姿から、それは、弥貴子の部屋の庭にあった、百足が這い出てきたあの大岩であることがわかった。
その岩の上に、一人の男が座していた。
黄色い服に、黄色の変わった帽子を被っている。
月明りの逆光で顔はよく見えないが、白く長い髭が生えており、老人のようであった。
その老人が、浮いている岩の上にちょこんと、乗っている。
「……くっ、くっ、くっ……」
岩の上に座している老人が、怪しく笑った。
蒼頡と与次郎が、佐兵衛と女中を残し、中庭に飛び出した。
岩は蒼頡の頭二つ分ほど上で、落ちる気配など全く無く、空中でとどまっていた。
蒼頡が、岩の上の老人に向かって、
「あなた様は……」
と言った。
すると老人は、にいっ……、と歯を剥き出して、嗤った。
「……なんとも愉快。
良い興であったぞ」
しわがれ声が響いた。
蒼頡の瞳が、きらりと光った。
蒼頡が、紅い唇を薄く開いた。
「……あなた様はもしや……。
独山の、鯈䗤様でございますね」
蒼頡が、月明りの逆光で怪しく浮いているその老人に向かって言った。
「む」
岩の上の老人が、蒼頡の顔を凝視した。
「……ほぉ。
そうじゃ……いかにも。
儂は、独山の鯈䗤である」
老人が、感心したように言った。
「最近の旱続きでうっすらと予感はしておりましたが……。
その岩をこの国に持ってきたのは、やはりあなた様でござりましたか」
蒼頡が言った。
「くっ、くっ、くっ……。
いかにも。
暇潰しにちょいと、この国にこの岩を持ってきてみたのじゃ。
この国の、貧相な寺の人間に化けてな」
老人が言った。
「独山の岩から発する強力な霊気が、岩の下に棲みついた百足に宿ってしまったのでございますな」
蒼頡がそう言うと、鯈䗤は蒼頡をまじまじと見つめ、
「……ふむ。
この国で儂を知っておるとはな……。
名は」
と、蒼頡に向かって名を聞いた。
「……“刻”と申します」
蒼頡は、仮名を言った。
「仮名であろう。
諱を申せ」
低いしわがれ声が、そう言った。
蒼頡はそれに答えず、口を閉じ、微笑んだまま、鯈䗤を見つめ返した。
「む。まて……。
そなたの顔、見覚えがある。
“刻”か……」
鯈䗤が、月光の中、蒼頡の大きな瞳をじぃっ……、と、見つめた。
蒼頡の大きな瞳が、再び、きらりと光った。
何もかも見透かすかのような、濁りのない、輝く瞳であった。
「……おぬし……。
蒼頡か」
鯈䗤が、蒼頡の瞳を見て言った。
蒼頡は、鯈䗤の言葉に表情を変えず、微笑を浮かべたままであった。
しかしその輝く瞳の奥には、静かにめらめらと燃えるような深い光が、秘かに宿っていた。
「蒼頡の生まれ変わりか」
鯈䗤がもう一度、何かを確信したかのように言った。
その途端、鯈䗤は弾けるように、突然笑い出した。
「あっはっはっは!!
なんと……そうか。
そのような人間の姿に生まれ変わってまで、わざわざこのような狭い国で、何をしようというのじゃ」
鯈䗤が言った。
二人の会話を後ろでただ黙って聞いていた与次郎は、鯈䗤の言葉を聞き、話がうまく呑み込めないまま、蒼頡の後ろ姿をふ、と見た。
与次郎は蒼頡の表情を窺い知ることができなかったが、その蒼頡の背中は、月光の中、なんとも崇高な光に包まれ、息を呑むほど凛としていた。
「……鯈䗤様。
直に夜が明けます。
その岩を持って、すぐに独山へお帰りください。
……もう充分、愉しみましたでしょう」
蒼頡が鯈䗤に向かって、淡々と言った。
「……嫌だと申したら、どうする気じゃ」
鯈䗤が、にま、と笑って言った。
「……全力で、あなた様を斃します」
蒼頡が、懐にすっ、と右手を入れた。
鯈䗤は、
「ふっ、はっ、はっ、はっ!」
と、大声で笑った。
「まぁ、よい。
ひとまず、そなたの言う通りにしよう。
この岩とともに、今宵は独山に帰ろうぞ」
そう言うと、鯈䗤の身体がしゅぅ、と、黄色く光り出した。
すると、鯈䗤の身体は突如、人間の姿から黄色い大蛇の姿に変わった。
その長い胴体の背中には、魚のひれが二つ、羽のようについていた。
鯈䗤は、岩とともにさらに空へ高くふわりと浮き上がると、
「また、来る」
と言い残し、満月に被ろうとする雲の中へ一瞬で飛び立ち、瞬く間に消え去ってしまった。
鯈䗤の姿が見えなくなった直後、満月が再び雲の中に隠れ、辺りはまたしても、明かりのない暗い夜闇の世界に包まれていった────。
◆◆◆
「お知り合いだったのでございますか」
与次郎が、目の前の蒼頡に向かって聞いた。
蒼頡の屋敷の、中庭が一望できる一番大きな広間の畳の上で、与次郎と蒼頡は向かい合って座していた。
百足騒動から一夜明けた、時刻は真昼九つの正午のことであった。
「何がですかな」
蒼頡が、式神の水仙が淹れて持ってきたお茶をすすりながら言った。
「あの、ご老人と……」
与次郎が遠慮がちに聞くと、蒼頡は、
「……まぁ、そうですね」
と、歯切れの悪い返事をした。
与次郎が、蒼頡をじぃっ……、と、見つめた。
蒼頡が、お茶が半分入った湯呑を、下にそっ、と置いた。
「……遥か昔に、一度だけ会ったことがあります」
蒼頡が、静かに言った。
「できればあまり会いたくなかったのですが……。
知られてしまいましたな」
蒼頡が苦笑してそう言った、その直後であった。
蒼頡の懐の隙間から、白い人形の和紙が、手足に見立てられた部分を動かし、まるで生きている人間かのような動きをして、勝手にするりと出てきた。
その和紙には、『田塚佐兵衛』と書かれている。
『田塚佐兵衛』という字が書かれたその和紙は、蒼頡の目の前の畳の上にひらりと降り立つと、人間のように仁王立ちになり、その後ぷるぷると、小刻みに震え出した。
震えるたびに、その人形の和紙が“ぴらぴらぴら”、と、小さくはためいた。
すると、その和紙から白い靄がふわり、と出てきた。
そのまま、その靄は部屋から広縁にすぅっ、と出て行き、蒼頡の屋敷の中庭から晴れ渡った青空の中へ、すぃっ、と飛んで行ってしまった。
白い靄が飛んでいくと、『田塚佐兵衛』と書かれたその人形の和紙はへたりと畳の上に倒れ、元の通常のぺらぺらの紙へと、戻っていた。
「……今のは……」
与次郎が聞くと、蒼頡は、
「弥貴子様の、生きた魂です。
そろそろ、肉体の意識が戻るのでしょうな。
主の元へと、帰って行かれました」
と言った。
与次郎は、あの時頭の中に流れてきた志代の記憶を、ふと、思い出した。
志代、弥貴子、佐兵衛のことを順に思い浮かべ、しばらく思いを巡らせた後、顔を少し下に向け、俯いた。
蒼頡は与次郎のその様子を見、与次郎に向かって、
「与次郎」
と声を掛けた。
与次郎が、はっ、と顔を上げて蒼頡を見た。
「志代様の魂を、あの時そなたは見事、救いましたな」
蒼頡が、笑顔で言った。
「え」
与次郎が目を見開いた。
「そなたの言葉で、縛られていた志代様の魂が解放され、昇天なされました。
────与次郎。
そなたは自分が思っている以上に、素晴らしい力をその身に、持っておりますぞ」
蒼頡は微笑みながらそう言うと、もう一度、お茶を美味そうにすすった。
与次郎は、蒼頡に向かって、なんとも言えない表情を向けた。
蒼頡の言う自分の力とはいったいなんなのか、いまいちぴんときていなかった。
ただ、蒼頡のその一言によって、胸の奥になぜかじんわりと熱いものが込み上げていることだけは、その身にひっそりと、与次郎は感じ取っていたのであった────。
◆◆◆
────ひと月後。
蒼頡の中庭に、一羽の美しい深山烏揚羽が、ひらひらと舞い込んできた。
黒い翅がはたはたと動くたびに、その美しい翅が陽の光で青く光り、また緑色にも輝き、そしてまた、青く光った。
蒼頡の式神の、瑠璃であった。
瑠璃が、庭木の世話をしていた蒼頡の肩にひらりと舞い降り、その美しい翅を、閉じたり開いたりした。
「……そうであったか。
瑠璃、有難う」
蒼頡が、肩に止まっている瑠璃に向かって言った。
与次郎が、綾瀬川下流の川沿いで佐兵衛とあの時の若い女中が遺体となって発見されたことを蒼頡から聞かされたのは、その日の日が暮れてからの、夕餉の席でのことであった。