第3話 志代
「すまぬが、そなたの心内を少し、見せていただきます」
蒼頡は、目の前にいる裸の女に向かってそう言うと、懐から矢立と和紙を取り出し、筆をとって、その和紙に『顕』と書いた。
その『顕』と書いた和紙を、縛られながら苦しそうにもがく、腕が何本も生えているその女の顔の上に、落ちないよう、そっと載せた。
蒼頡が口の中でぶつぶつと呪文を唱えると、やがて『顕』と書かれたその和紙が淡く輝き出し、緑、赤、黄、白、黒の腿ほどの太さのある五色の撚り糸が、和紙からするすると出てきた。
撚り糸が全て出ると、和紙は白紙となって、ひらひらと地面に落ちた。
和紙から出てきたその撚り糸は、縛られている女の頭に、くるくると蛇のように巻き付いた。
巻きついた撚り糸が淡い光を放ち出すと、やがてその女の過去の記憶が、まるで水のように、蒼頡と与次郎の頭の中へ、さー……っと、流れ込んでいった────。
────────万太の屋敷の、土間であった。
夕闇が迫っているようで、陽の光が届きにくい土間の一帯は、もうすでに暗かった。
女は、竈の前にいた。
夕餉が終わり薄闇の中、女は、竈に残る灰の処理をしているところであった。
女が灰まみれになりながら作業をしていると、ふと、背後に人の気配がした。
「 ────志代」
背中から呼ばれ、女は心臓が跳ねた。
後ろを振り向くと、そこに、佐兵衛が立っていた。
「……佐兵衛様」
佐兵衛の顔を見た瞬間、志代の心臓は更にどくん、と跳ね上がった。
その高鳴る胸の内が表に出ないよう、志代は表情を変えないように意識し、声も、震えないように注意した。
「……ここは、もう終わりか」
佐兵衛が、志代に優しく聞いた。
佐兵衛に聞かれ、志代は小さく、
「……申し訳ござりません。
もう少し、かかります」
と、俯いて言った。
佐兵衛は、それを聞いてふっ、と表情を緩めながら笑うと、
「何故謝るのだ。
何も、謝る必要は無い。
いつも見ているが、志代はよくやってくれている。
今日はもう、旦那様も戻ってこない。
ここが片付いたら、早めに休むが良い」
と、志代に囁くように言った。
「……勿体ないお言葉でござります」
志代は、顔がかーっと熱くなるのを感じた。
自分のことをこのように優しく気にかけてくれるのは、この屋敷の中で、佐兵衛のみであった。
志代は、女中の中では一番若く、下っ端で要領が悪かった。
他の女中は、すでに仕事を終えて休んでいる。
志代は、万太の屋敷の女中の中で誰よりも遅くまで働き、朝は日が昇る前に起きて、屋敷で任された仕事を必死にこなしながら、一日中休みなく働いていた。
そんな志代に、佐兵衛はいつも優しく声をかけた。
万太の一人娘、弥貴子の入婿として佐兵衛が屋敷に来たのは、ひと月程前であった。
初めは、弥貴子の婿であるというだけで、志代は特に何も思ってはいなかった。
佐兵衛が屋敷に来て二日後、朝餉の盆を運んでいる最中に、志代は足がつかえて転げそうになった。
たまたまその場を通りかかった佐兵衛が、志代の身体を腕で抱きとめ、志代が危うく転げそうになるのを助けた。
「大丈夫か」
佐兵衛が志代に聞いた。
志代は顔が熱くなるのを感じながら、慌てて、
「も、申し訳ござりません……!
危うく、盆から全て下に落とすところでございましたっ……」
と、佐兵衛に向かって、深々と頭を下げた。
すると、佐兵衛は志代の顔を見るなり、突然爽やかにあははっ、と笑った。
「顔が真っ赤だ」
佐兵衛は笑顔でそう言うと、志代の頭を優しくぽんと叩き、
「大事な身体なんだから、気をつけなさい」
と言って、その場を去った。
志代は、更に顔が紅潮した。
恥ずかしさで、その場に倒れてしまいそうであった。
同時に志代は、今まで感じたことの無い胸の高鳴りを、その胸の内にじわりじわりと、感じ取っていた。
その日以来、志代は一日中何をしていても、佐兵衛のあの眩しい程の笑顔が、頭の片隅から離れなくなってしまったのであった。
────辺りが暗くて良かった、と、志代は思った。
明るい所でこの顔を見られたら、きっと、ばれてしまう。
佐兵衛に対するこの想いが、きっと、目の前にいる本人に、悟られてしまう。
志代は、ぎゅっと奥歯を噛み締めると、
「……ありがとうござります。
ここが片付きましたら、お言葉に甘えて、休ませていただきます」
と言って佐兵衛に頭を下げ、後ろを向き、竈の灰の処理に戻った。
胸の高鳴りを抑えようと、自分のやるべき仕事に集中しようとした。
背後に、まだ佐兵衛が立っている。
後ろから、佐兵衛が近づいてくる気配を感じた。
心臓の音が、どくん、と鳴った。
突然、しゃがんでいた志代の後ろから佐兵衛の腕が伸び、背中から抱き締められた。
志代は、心臓が止まりそうになった。
「……惚れている」
佐兵衛は志代の耳元に口を当て、聞こえるか聞こえないか程の小さな声で、呟いた。
志代は、全身が一気に熱くなった。
同時に、頭の中に万太と弥貴子の顔が浮かんだ。
「……佐兵衛様、何を……!」
志代は真っ赤になりながら、慌てて腕から逃れようとした。
佐兵衛の腕は志代の身体をがっちりと抑えており、無駄な抵抗であった。
「……志代。
そなたを一目見た時から……」
佐兵衛が志代を抱き締めながら言いかけた、その時────。
"────がたり……"
奥から音が聞こえた。
佐兵衛も志代も、心臓が飛び出るかと思うほど跳ねた。
音がしてすぐに、佐兵衛は志代を抱き締めていた腕を解き、志代からすっ、と離れた。
佐兵衛の腕から解放された志代は、どく、どく、どく、と、鳴り止まない心臓の大きな音を、ただひたすら感じていた。
佐兵衛は、耳を澄ませて辺りの様子を伺ったあと、
「志代。なるべく早う休めよ」
と、志代に優しく言い、その場を後にした。
志代の背中に、佐兵衛の身体の温もりや抱き締められていた時の腕の感触が残っていた。
佐兵衛の言葉が、耳元に残っている。
気づくと、志代は自分の寝床に潜っていた。
佐兵衛が去った後の記憶が途切れたまま、気づいたら仕事を終えていた。
(……どうしよう。……どうしたら……)
佐兵衛と両想いであった事実を純粋に嬉しく思う反面、誰かに見られていたかもしれないという思いと、抑えることしかできない気持ちがぶつかり合い、志代は布団を被ったまま震えが止まらず、全く眠れなくなってしまった。
「────惚れている────」
志代の耳元に、佐兵衛の言葉がいつまでも、残っている。
その日の夜、志代は一睡も出来ないまま、朝を迎えた。
◆◆◆
朝。
弥貴子の元に朝餉を運び終え、女中達もそろそろ朝餉を食べ始めようかという時、志代は弥貴子に呼ばれた。
「志代。弥貴子様がお呼びだよ」
年上の女中にそう言われた瞬間、志代は顔がさーっと青ざめ、血の気が引いた。
(……もしや……昨夜のあの場を見られていたのでは……)
嫌な予感がしていた。
重い足取りで、志代は弥貴子の元に向かった。
すぐに、弥貴子の部屋の前に着いた。
「失礼致します。
志代でござります。
弥貴子様、お呼びでござりましたでしょうか」
襖の前で声をかけると、
「入れ」
と、弥貴子の声がした。
恐ろしい、低い声であった。
志代は、弥貴子の部屋の襖を恐る恐る、すうっと開けた。
部屋に入るやいなや、弥貴子は鬼の形相で、志代をぎらりと睨みつけた。
志代は、手足が震えた。
志代が震える手で襖をそっと閉めると、弥貴子が口を開いた。
「……志代。
そなたがわたくしに持ってきた、この味噌汁の中身を見てみよ」
佐兵衛のことを問われるかと思い、顔を青くしながら身構えていた志代は、弥貴子から出た予想外の言葉に、意表を突かれた。
一瞬戸惑った志代であったが、弥貴子が恐ろしい形相で見つめてきたため、はっと我に返り、慌ててその味噌汁の入った椀の中を、恐る恐る覗いてみた。
志代は、ぎょっとした。
味噌汁の中に、うぞうぞと、動くものがある。
長細い胴体に足が何本も生えた大きな虫が、椀の中でばちゃりばちゃりと音を立てている。
弥貴子の味噌汁の中に、大きな生きた百足が溺れていた。
「そなた……わたくしにこれを食えというのか」
弥貴子が、わなわなと怒りに震えながら言った。
志代は、弥貴子の言葉に驚愕した。
「な、なんとっ……!
わ、わたくしめがお持ちした際には、こ、このような虫、入っておりませなんだのに……!
な、何故このような虫が……!
いったい、ど、どこから……!」
志代は激しく動揺した。
すると弥貴子は、百足が入った味噌汁の椀を持ったまま、その場で突然立ち上がった。
志代は、びくりと驚き、身構えた。
「……こちらへ来よ」
弥貴子はそう言って、庭に出た。
志代は震える身体で、弥貴子の後に続いた。
弥貴子は、庭にある池の横に置かれている、腰ほどもある大きな岩の前に立った。
「この岩の下から、よく百足が這い出て来るのじゃ。
……そなた、この岩の下から出てくる百足を捕って、私の味噌汁の中に入れたのであろう」
志代は、血の気がさーっと引いた。
「そ、そのようなこと、わたくしは決していたしませぬ……!
百足がいたことなぞも、わたくしは全く知りませなんだ故……っ」
「では、盆が運ばれてからのこの短い間に、百足が自らこの味噌汁の中に入ったと申すか」
弥貴子が言った。
「……わ、わかりませぬ……」
志代が、泣きそうになりながら言った。
弥貴子の顔が、みるみる恐ろしい顔になった。
「……知っておるぞ、志代」
弥貴子が、ぞっとするような低い声で言った。
志代は、青ざめながら、大きくぶるりと震えた。
弥貴子が志代に、ゆっくりと近づいてきた。
「そなた……佐兵衛様を好いておるのだろう」
弥貴子が言った。
────きーん……、という耳鳴りが、志代の頭の中で響いた。
志代は、目の前の弥貴子の顔が急にぼやけ、意識が遠のきそうになるのを感じた。
平静を保てるよう、冷たくなっている白い右手の指先を、冷たい左手でぎゅっ、と握った。
「……そ、そんな……!
……と、とんでもござりませぬ……!
な、何故急に……そっ……そのようなこと……!」
志代は、どもりながら言った。
「……嘘つきめ。
昨夜、この目でしかと見ていたぞ」
弥貴子が凄まじい形相で言った。
志代は、ぞっとした。
足ががくがくと震え、立っているのがやっとであった。
「食え」
弥貴子が言った。
「この味噌汁の百足を食うたら、この一件も、昨夜のことも、無かったことにしてやろう」
そう言うと、弥貴子は志代に更に近づき、味噌汁の椀を突き出した。
志代は、震える足で、一歩、二歩と、岩の方へ後ずさった。
味噌汁の椀の中で、大きな百足がうぞうぞと気味悪く蠢いている。
その度に、味噌汁がぱちゃ、ぱちゃと波打った。
「……や、弥貴子様……!
お、おやめくださりませ……」
志代は、涙目で弥貴子に訴えた。
弥貴子が、志代に迫る。
「食え! 志代!
この味噌汁の中のものを食うのじゃ」
弥貴子が、志代の口に椀を押し付けた。
味噌汁と共に、百足が志代の口の中へ、勢いよく入った。
その途端、志代は、ずるりと勢いよく足を滑らせた。
志代は仰向けに倒れ、後ろにあった腰ほどの高さの岩に、思い切り後頭部をがつん、と打ち付けた。
頭を打ち付けたと同時に、衝撃で歯が思い切りがちん、と閉じた。
志代の口の中にいた百足はその瞬間、志代の歯にぶちん、と噛みちぎられ、頭と胴体に真っ二つに分かれた。
志代は、口に百足の頭を咥えたまま頭から血を流し、その場に力無く倒れ込んだ。
弥貴子は、味噌汁の椀を落とし、志代が息をしていないのを確認してから、悲鳴を上げた。
「誰か……! 誰か!」
弥貴子はその場で大声を上げ、人を呼んだ。
すると、岩から、紫色の靄が現れ出した。
その靄は、傍で倒れている志代の身体の方へ段々と流れてゆき、やがてゆっくりと、志代の全身にまとわりつき始めた。
岩の記憶が、死んだ志代の頭の中に流れてきた。
朝餉が運ばれた後、弥貴子は部屋から庭に降り、岩の前に来た。
岩の下から、紫色の靄を纏った百足が、ずるりと這い出てきた。
弥貴子はそれを箸で器用に摘むと、小さくにやりと不気味に笑い、百足を箸で摘んだまま、自分の部屋の中へ戻って行った。
その百足を、志代が持ってきた朝餉の味噌汁の中へ、ぼちゃん、と入れた。
志代の口の中で、百足の頭が黒い靄を出し始めた。
黒い靄と紫色の靄がゆっくりと同化し、徐々に、禍々しい“怨”の気が、志代の倒れた身体から少しずつ、溢れ出てきていた────。