223話 香水と死臭
「エミルが……?」
まさか、もう里の中に敵の手が?俺は見誤ったのか?
「おい、どういうことだ?もう里が異種狩りの手に落ちたのか?」
「いや、ちげぇ……あいつは、エミルは。俺があの女とやり合ってるところに……」
気配を、敵の動向を。
「その女がエミルを攫った?そいつは異種狩りか?」
「わかんねぇ……」
「分からないって……エミルを攫って行ったのがその証拠じゃないのか?」
苦虫をかみつぶしたような表情のダイギリに、堂々巡りの質疑。
「あの女、俺たちに対する敵意みたいなもんがなかった……気がする」
「でも現に、お前のそのダメージ。大半がその女にやられたものだろう?」
その女の何を計りかねているのかは分からないが、短絡的思考の持ち主である彼をもってして、同じ異種族のエミルを目の前で攫われて尚、その女を『異種狩り』として断定できない引っ掛かりがあるのか。
「あんな人間、初めてだ……いや、あの感じは知ってる。あの爺さんみてぇな、底知れねぇ…」
いよいよもってらしくもない。
直情的なこの鬼人族がブツブツと思案顔で思考に耽るなんて。
「…おい」
同じ異種族を、仲間を、エミルを攫われて、平静を保っているなんて―――
「―――ぐっ!?」
らしくない。
「いきなり、何、しやがる……」
「おい。お前―――」
胸倉を掴み寄せ、瞳を覗き込む。
「―――しっかりしろ」
「……」
横っ面を殴られて、仲間を獲られて。
今、こいつの胸中に、目の中に宿るのは―――
「敵なんて、怖れるな」
恐怖。
「だ、れが……!」
「―――本当に怖いのは」
おそらく、一戦で見せつけられた圧倒的な力量差。
話を聞くに、エミルがそこに横入りし、ダイギリは見逃されたのだろう。
その敗北感は、無力感は、一朝一夕で拭えるものでは無い。
「臆した自分を、目を背けた自分を、拳を握れなかった自分を―――」
でも、気休めでも、鼓舞せずにはいられなかった。
「―――自分自身が許せなくなることだ」
「……」
俺自身の、利己的で独りよがりな、戦いの意思。
「守りたかったモノを無くしたあと、そんな地獄が続くことだ」
こうして、ある種の独白めいた激励。
この行動自体もまた、俺自身のために、というところに帰着する。
「それを思えば、今お前がビビってる敵の強さなんて。些細な事だ」
嘘だ。
敵が強大であればあるほど、死の恐怖は色濃く、何かを守れる確率は下がる。
計り間違えれば、それこそすべてを失う。
でも、その分析に精神のリソースを裂くのは―――
「……ちっ」
滾る闘志をこさえてからでも、十分間に合う。
「好き勝手言いやがって、よ!」
胸倉を掴まれるままの体勢から、俺の額に頭突きを見舞う。
「―――ようやく、頭に血が上ってきたみたいだな」
「……うっせ」
額に伝う鈍い痛み、眼前にある殺気立った眼光。
「てめ。今の事誰にも言うんじゃねーぞ」
「さて、どのことだろうな」
それらが、
戦う意志、仲間を救うための闘志を取り戻した事を、如実に語っている。
この眼ができれば、上々だ。
「ところで」
「あん?」
掴んだ胸倉を解放し。
「『竜人族』って異種族に案内された集落も、結界が消えた」
調子が戻ってきたところで、早々に情報を共有。
「……てめ、関わるなっつったのに」
「『やり合ったか?』と聞かれただけだったと思うが……今そんなことは置いといてくれ。彼らと協力できないのか?」
状況を好転させるために、提案。
(翼を持つ彼らと協力できれば、戦うにせよ退くにせよ、こっちにとって有利だ)
ギネルに持ち掛けた同じ案は、煮え切らない彼の反応から棄却した。
もっとも、ダイギリに投げたところで望み薄だとは思うが―――
「できねぇな」
「……」
やはり無駄、か。
「勘違いすんなよ。意地とか忖度じゃねぇ。奴らは種の存続ってのを尋常じゃないくらい重んじる。今の『異種狩り』みてぇのがウロウロ居やがるんなら、こっちの救援に見向きもしねぇよ」
「そう、か……」
口ぶりから、ダイギリとしてもエミルを助ける確率が上がるなら、懇願してでも救援を求めるだろう事がわかる。
けど、その選択肢を押しのけるほどか。
「ま。あちらさんは逃げ道って点じゃあ、里なんかよりも徹底してる」
「?」
「よそ様より、てめーらの心配でもしろってことさ」
「なら、俺たちと里の人たちで何とかするしかないか……」
エミルが攫われてしまった今、彼女の救出が最優先。
この山から連れ去られてしまって、唯火やレジーナのように場所も分からないような施設へ収容されてしまったら、捜索は困難を極める。
一刻も早い救出のためには、捜索の人手が必要だ。
とはいえ……
「ミイラ取りがミイラになりかねないな。半端な増援じゃ」
「―――いや。里の連中の加勢はいらねぇ」
「なに?」
ダイギリの言葉に彼を見ると、鼻頭を指で揉むような仕草。
鼻腔内の血を抜いているところだった。
「言っただろ。俺は鼻が利くって」
「まさか、エミルの匂いを追えるのか?」
確かに、鼻が利くとは聞いていたし、そう言った場面に居合わせたが。
「いや。『獣人種』連中なら分かるかもしんねぇが、流石に俺もそこまで利くわけじゃねぇ……攫った女の方だ」
「……そうか。今朝お前と別れた時に言ってた香水の」
あの直後、その香水の主と戦闘になっていたわけか。
「この香水……山ん中に居りゃどこに居たって分かる」
「そうか、じゃあ―――」
「てめぇの加勢も、いらねぇ」
そう言って、目を閉じ空を仰ぐ。
嗅覚に神経を集中し、大気に揺蕩う匂いを嗅いでいるのだろう。
「一人で行くのか?勝算は?」
「あ?まぁー……死ぬな」
ぶっきら棒にそれだけ答える。
発破を掛けたのはこちらだが、少々自棄にでもなっているのだろうか。
「おい。さっき俺が言ったこと、勘違いして―――」
「だぁから、何度も言わせんな!テメェこそ勘違いすんなって!」
「……自棄になってなけりゃ、何だっていうんだ?」
何か思惑があるならもったいぶらず、単刀直入に言ってほしいものだ。
「―――あの女。爺さんのとこに居やがるぜ」
「! エミルの爺さんのことか?」
ああ。と短く答え、眉間にしわを刻みながら鼻先を拭う。
「あの爺さんも、嫌な匂いしやがるからな。間違いねぇ」
「確かなのか?」
「こんな何百人分の人間の死臭なんざ、あの爺さんしかいねぇよ……」
「なるほど、な」
確か、結界の媒介に、と、人体を収集しているんだったな。
俺自身も、体の一部を差し出すという契約を交わしたことを思い出した。
「爺さんが何者かと会敵しているのは分かっていたが、エミルを攫ったやつとはな」
「戦ってるかまでは知らねぇよ……うっぷ……エミルも一緒にいるかは知らねぇが、居ても居なくても、余所者をあの爺さんが生かしておくわけがねぇ」
香水と死臭に酔ったのか、軽い吐き気を訴えるダイギリ。
エミルを攫った事実を知っても、エミルの仲介なく会敵しても、どちらにせよ、ということか。
「そこで問題は二つだ。一つはエミルが攫われた事に気が付いていない場合だ。香水の女を始末されちゃもう追えねぇ。もう一つは―――」
「……もう一つは?」
いや。と、記憶を探る素振り。
何か、確証を得ない、不確かな気がかり、と言ったところか。
「想定でいいんだ。聞かせてくれ」
「……あの女と戦ってる時、あいつが言った言葉が気になってんだ」
【催眠】
「――――は、ぁ?」
その二文字を口にすると、ダイギリの顔から表情が消え、瞳も虚ろなものに。
その、両の眼からは、魔力を帯びた独特の波形を刻む何かが発せられる。ように感じた。
(これは……!?)
以前感じたことのある感覚。
視覚から脳へと、外的な何かが作用してくるような奇妙なこの感じ。
(女……)
目の前にいるダイギリの虚ろな瞳。これも以前に見たことがある。
今感じるこの感覚と、同じタイミングで、俺は以前に―――
(香水の、女……!)
片目を同じく虚ろにしながら、涙を流す―――
「――――おい!ナナシ!」
「……」
一時、意識に空白がある。
瞼を閉じずにして、視界を閉ざし、眼前にはがなり立てるダイギリの顔。
その目は、すでに元の闘志を滾らせている。
「……悪い。俺はどうしてた?」
「どうって……数秒ぼさっとしてっからぶん殴ろうと思ったところだ」
「……そうか」
……多分、大丈夫だ。
俺は知っている、聞いている。
一度、それを破られると、同一の人物に対しての効力は激減する。そんなことを仄めかす言葉を、交わした。
ステータスにも、異常は無い。
「おい。いきなりステータスなんざ開いてどうした」
「急ごう。ダイギリ」
画面を引っ込めると、彼の追求を断つように言う。
「あ?俺の話聞いてなかったのか?てめぇは―――」
「ああ。俺は、続けて里の防衛に回る」
『……あの女と戦ってる時、あいつが言った言葉が気になってんだ。『催眠』。俺様に対して、随分と掛けやすそうだ、とか……他人を意のままに操る、そういうスキルがあるのは、聞いたことがある―――』
(その使い手である場合、エミルを操れる状態であったなら。爺さんの弱みになる……)
意識に空白がありながらも、ダイギリの言葉は最後まで聞いた。
さっきの会話の中に、発動のトリガーとなる何かがあったんだろう。
「行ってくれ、ダイギリ。」
「お、おぉ……?」
そういう使い方ができると、俺は聞いた。
「その女、そう簡単には死なない。速く爺さんと合流して、エミルのために動け」
「……言われなくてもそうするっつの」
最早、疑いの余地もない。
確信。
「美弥子……さん」
決別し、棄てたはずの敬称が、口を衝いてでたのは。
「一体、どうなってんだ……」
直前に追憶した彼女の最後の、歪な泣き顔のせいだろう。




