2話 目覚めと喪失
「……」
不思議なもんだ。
今俺は目を閉じているんだろう。けど、意識が『戻った』という自覚のようなものがある。
俺は、死んだのか?
億劫だが、確かめるすべはこの重たい瞼瞼を開けるしかないらしい。
「……ぅ」
ぼやけた視界に、僅かに動く白い影。
鼻につく薬品の香り。
どうやらここは……
「病、院……生きている、のか……?」
俺のかすれた声に反応したのか。白い影、看護服に身を包んだ女性がこちらを振り返る。
「っ!落ち着いて、横になっていてください!担当医をお呼びします!」
そう言って慌ただしく退室する背中を見送ると、俺は生き永らえたのだと理解した。意識が途切れる直前の記憶は曖昧だが、車に派手にはねられたのは覚えてる。
が、その割には痛むところがない。何日こうしていたかは知らないが、体が凝り固まったのを感じるくらいだ。
「……死のうとする事さえ、途中でやめさせられるのか」
どうしろというんだ。
逃げることも許されないってのか?
「―――失礼します。担当医の中川ともうします」
暗い思考に耽っていると、控えめなノックと共に、中川と名乗る医者が顔を出す。
失礼。と、軽く断りを入れるように一言いうと、俺の体を触診し始めた。
「……体の経過は、よろしいようですね」
その後、瞳孔と心音を診た後。
「いくつか、質問をさせていただきます。お身体がつらくなったらすぐ言ってください」
「……はい」
あなたの性別は?国籍は?年齢は?生年月日は?血液型は?家族構成は?このペンの使い方は?etc……
要は記憶障害の診察だ。
「では、あなたのお名前は?」
残念ながら体も記憶もすこぶる調子がいいんだ。
いい加減答えるのもうんざりしてくる。
「俺の名前は――」
―――……は?
「名前…?自分の、俺?の、名前?」
「どうなさいました?お名前を教えてください」
「―――」
いつの間にか口の中はすっかりカラカラだ。知っていて当たり前の自分の名を言葉にしようとするも、パクパクと口が開くだけ。
「なるほど……ご自身の名前だけ記憶にない、と」
目の前の医者はどこか得心の言った様子で唸った。
俺はすがる思いでなまり切った体を起こし問い詰める。
「せ、先生!俺、名前が……今までの自分を全部ちゃんと覚えてるのに、両親のこともちゃんと覚えてるのに、名前だけが、俺のっ……!」
自分でもなにをそんな取り乱すことがあるんだと思う。
生への執着を絶つなどといって、死のうとすら思っていた人間が、今更名前を思い出せないのが何だというのか。
物事に執着する感情を自ら閉ざしたなどと、自虐気味にのたまった人間が、今、名前ひとつにこれだけ執着している。
「落ち着いて、といっても無理でしょうね……ですが、あなたはこれから受け入れていかなければならないことが、山ほどある……今から話すことを、気をしっかり持って聞いてください」
「な、なにを……何を聞くって……」
「これは、あなたの所持品ですね?」
目の前に差し出されたのは俺が愛用している、革製のカードケースだった。
「は、はい。免許証とか資格証、とか入っているはずですが……」
「確かに。かなりの数が入っています。そこにも驚きましたが……」
医者……中川先生は、断りもなく無造作に中の証明書を一枚抜き取ると、目の前に広げて見せ。
「ないんですよ。ここにあるはずのものが、この中のすべてに」
「? なんの、話をして……?」
「名前だけがすべて消えてしまっているんです」
いまいち驚いていいのかどう反応していいのか。
確かに言う通り、名前の部分がごっそりない。
けど―――
「えっと……ただのいたずら、としか」
「これだけではないんです、あなたはこの病院に通院歴があります。診察証を照会し判明しました。ですが、病院内のデータベース内にあるあなたの情報は全て、名前が消えてしまっているんです」
「……」
「あなたが事故にあった経緯で、警察の方も身元を割り出しました。住居の登録情報、戸籍、携帯電話の契約情報。あらゆる個人情報から、名前だけが全て消えていました」
驚きを通り越して絶句してしまった。
そんなことがあり得るのか?
世界から俺の名前が消えたから、俺の記憶からも自分の名前が消えたのか?
俺の記憶から自分の名前が消えたから、世界から自分の名前が消えたのか?
訳が分からない。
訳が分からないが、そうなってしまったという事が確定したのなら、もうさっきまで抱えていた不安は俺の中から消えていた。
それどころか、何か。
なにか漠然とした……そう。光明のようなモノに触れたような気がした。
「原因は、分かりません。医師として専門外の事態です。が、このような不可解な事象が起きうる、という事だけは言えます」
「? 先生はこの怪談みたいな状況が、そんなに珍しいことでもない、と?」
「えぇ。世界は一変しましたからね」
……この人は何を言っているのだろうか。
もしかして、そういうちょっとあれな患者さんが通院する病院なのかな?診る側の医者もそんなでどうするよ……あ、でもさっき俺の通院歴有るって言ってたし、ここは多分一番近いあの病院だろう、そんな科はなかったな。
「えーっと、それってどういう……?」
「こちらが本題、といっていいでしょうね。あなたが事故に遭ったその日から、意識を失っていた約半年間。世界で何が起こったのか」
「半年!?お、俺はそんな長い間…!?」
「ええ。そして私の言う世界の変化、最たるものがこれ―――ステータス」
中川先生が何事か横文字らしき言葉を発すると、彼の目の前に液晶画面だけを切り取ったような半透明の板が浮かび上がった。
「え?なん、ですか?その、タブレット……ステー、タス?」
その瞬間、俺の目の前にもどこからともなく同じものが展開され。
そこには画面いっぱいに、身に覚えのある四文字熟語が記されていた。
《器用貧乏》
「……は?」
暗い雰囲気はそう長く続きません