182話 黒影
「……ん?」
落ち葉と枯れ木を踏み鳴らしながら、変わらず緩やかな山道を上り、黙々と順調に歩を進めていると。
「どうしたの?兄者」
「しっ……」
俺達がたどってきた道、後方からこちらへと向かってくる複数の物音に思わず振り返る。
規則性はあるが一度に地を踏む数が人間の二足歩行のものと異なる足音だ。
(エミルの言っていた熊や猪か?)
もしそうだとしたなら特に警戒する必要もないか。
先程、漏れ出た『竜王殺し』の圧迫感がエミルに伝わっていると唯火に忠告されたばかり。一度彼らの遭遇を挟めば彼女の懸念も和らぐだろう。
「いや、ごめん。何でもないんだ」
「そうなの?」
歩みを再開し前を向くと、特に気にした様子もなくこちらをちらりとだけ見て前を向く朱音。
目が合わないように相変わらず唯火に隠れるエミル、そしてその唯火と視線を交わすと、どことなく意味ありげにほほ笑む。
俺の耳を澄ませる癖をよく知る彼女はなんとなく察したようだ。
(助かるね)
モンスターや超人的なスキルを持つ人間と戦う俺たちにとって、野生動物は全く脅威にはならない。でも、無防備に熊に殴られたり噛みつかれたら傷にはなるだろうし、狂犬病などの感染症も危惧される。
最低限の警戒だけはしておいた方が良い。
何かの獣の接近を感知した俺に気づいた唯火が前方のカバーに回ってくれるだろう。
こうした無言のうちのアイコンタクトは、ダンジョン攻略から竜種たちとの戦いを経てより精度の高いものへとなってきた気がする。
(エミルにも、『人間』と『異種族』でもこういう関係が築けるって、教えてやりたいところだな)
今日何度目かの、余計なお世話とも思えることを考えていると。
(……足音が別れた)
一塊に入り乱れた音はこちらに向かって三方向に分裂し、それぞれの足音を晒す。
(左は四足獣か?)
狐や野犬、そういわれれば納得する気配。群れで獲物に襲い掛かるのも不思議ではない。
(けど、右のこいつは……でかいな)
逆側から進む音は大きく、大股。そして二足。
そしてその中でも、明らかな異物。
(正面。これは……人?)
狭い歩幅、規則正しく地を蹴る音。そして何より―――
(速い……!)
その速度を察知すると同時に、左右の音はさらに大きく迂回。
そして正面、俺たちが通った下方の道から迫る足音はさらに加速。
「唯火!警戒しろ!動物じゃない!」
「「「「!」」」」
前方を歩く三人に意識を向けた一瞬にも十数歩の距離を瞬く間に詰めてくる。
左右に散った気配は既に感知不可な範囲へと展開し、
「フユミちゃん!後ろへ!」
小さな手を引き寄せ、背後に庇う。だがその動作は迫る速力に対しあまりに大きな隙。
注意を逸らしたわずかなその間に、
「―――くっ!」
「……」
駆ける者は眼前に肉薄、同時に腰の剣を抜き放とうとするが。
(! 足、で……!?)
柄を掴んだ利き腕の手首に足を掛けられ抜剣の動作を封じられる。
(こいつ!)
『心慮演算』による刹那の思考加速。
身を包む痛んだ外套から伸び手首に掛けられた足。その細足から想像できない膂力、関節の位置から小柄であることが見受けられる。そして印象的なのは異様に長い黒髪。その小柄な体高と同等かそれ以上もありそうな髪。手入れなどされていないのかそこら中跳ねている。
同じく長く伸びた前髪に覆われた顔立ちは影でうまく視認できないが、一瞬だけ赤い軌跡を残す瞳のような部分と視線が交差したような気がした。
(―――誰かを背負ってる?)
その背には、ぐったりと外套に顔を埋める誰か。
それも手足と頭髪は人間の形をしている。
「っの!」
「!」
緩慢にした己の動作を断ち切るように踏みつけられた腕を振り上げる。
だがそれにタイミングを合わせるように、こちらの手を踏み台に、膂力を利用し頭上高く背後を許す。
(しまった!唯火達に……!)
腕を振り上げながら抜いた剣を投擲の構えに持ち替え、
「皆!伏せ……ろ……?」
三人が居る方を振り返るが、そこには着地していると思っていた影は無く。
「ナナシさん!上!空です!」
「……鳥型の、モンスター?」
唯火の声に木々の隙間から見える空を見上げると、大きな鳥の足に捕まる先程の人影。
「……逃げた、のか?」
「ワルイガ、逃がしても大丈夫なの?」
「どう、だろうな。そこまで強烈な敵意は感じなかった」
そう、俺たちを。
フユミちゃんを狙うという連中にしては、あまりに薄い敵意。
「エミル。今のは『里』の人か?」
「わ、分からない、けど……『獣人種』の人たちなら、あの機動力でもおかしくない、と思う」
一瞬の事で姿もろくに捉えられなかったのだろう。
だが、その可能性があるというだけで迂闊に追撃を試みるという選択肢は潰えた。
「そうか。ありがとう」
「っ!」
そう返すと、まだ解けていない臨戦態勢の気配を警戒したのか、思い出したように唯火の背に隠れてしまった。その様子に複雑な思いを抱きながらも剣を収める。
「フユミちゃんには目もくれなかったから、大丈夫だろ」
「……でも、多分だけれど。兄者の事を、よく見ていた。気がする」
「……」
確かに、フユミちゃんの言う通り、あの至近距離であの一瞬で。俺もさっきの奴も互いに視線を交わしたような気がした。
そして、わずかながら敵意を向けられた。俺はそれに反応し、
(……『竜王殺し』の『威圧』に全く動じなかった)
ある程度はこれで相手の力量が測れる。
通じなかったということは、自身と近しい力量か上回るか。
「……飛んで行った方角は、『里』がある方角か?」
「……えっと、そうみたいですね」
「なら、やっぱり『里』の関係者なのかしらね?」
「そうだと助かるな」
強くなりたいとは願うが、皆を巻き込んで戦おうとも思わない。
何にしても敵でないことを願うばかり。
(別れた二つの人のものとは思えない足音も気になるところだな)
黒髪の靡かせるあの疾走者は明らかに途中まで人外の鳴らす足音とともにこちらへと向かってきていた。
そして、俺たちと接触寸前示し合わせたように散開。左右に散った気配を逃がすように真正面から突っ込み、上空の鳥型モンスターに掴まって逃げおおせた。
(異形……モンスターとの意思疎通、連携……)
今でも幾度となく思い出す。
(あの黒髪も、【魔物使い】なのか?)




