170.5話 霧に巻く矢
「―――いい朝」
清新な早朝の山の空気。温かな陽光。
すべてが私を包み込んでくれて、それらを体内に取り込む。
それだけでその日一日が素敵なものに色づく予感を感じる。
「さて……」
肺一杯に冷たい空気を吸い込むと、緑豊かなこの山々で保護色となるローブの留め具を締め、フードを目深にかぶる。
こんな清々しい天気、いつもならのんびりとお散歩でもしたいところだが、この日ばかりはそうもいかなかった。
「あのバカ鬼ッ!」
気持ちを切り替える様に悪態をつきつつ駆け出した。
木々の逞しい枝たちをしならせ飛び移りながら樹海を進む。
樹木が生い茂る山で、地上を走るよりもずっと速い移動法。もっとも、木々たちに道を開いてもらわなければただ障害物が多くなるだけの、私たちにしかできない芸当。
「『異種狩り』を逃したなんて……!」
思わず強めに枝を蹴ってしまう。
「あっ!ご、ごめんなさい!」
後方で強くしなりながら葉を散らす樹木に謝罪を投げると、自分の行いを悔いるとともに怒りを俯瞰に見る冷静さを取り戻す。
「……情報では、異種族の女の子が二人。『人間』の男女に同行してるはず」
『めちゃくちゃ可愛い女の子が二人もいたんだ』
『片方は異種族でもう片方は人間の匂いだって言ってた』
『小さい女の子も異種族だったって』
『『『でも君の方が美しいです!付き合ってください!』』』
毎度毎度少し頭が足りないような三鬼の昨夜の話しぶりを思い出す。
「おまけに『里』を探してる」
あまりに危険すぎる。もしその異種族の女の子たちを人質にでもとられ交換条件を持ち出してきたらどうするというのだ。
「私が助けないと……!」
もう、手の届くところで誰かが連れていかれるなんて言うのはごめんだ。
背に差した弓に意識を向け闘志を燃やす反面、
『野郎に挑んだところで無駄だ……お前じゃ勝てねぇ』
里でも腕利きの男の言葉が頭をよぎる。
昨晩、むざむざ帰ってきたところを問い詰めた時は自分の足で歩くのも困難なほどの負傷を負っていた。
「あいつが、あんな風にされるほどの『異種狩り』……」
確かに私では手に余るかもしれない。
けど、それほど危険な人間なら尚のこと放っておくことなどできない。
里の危機。同行している二人の異種族の危機。
何より、仲間を痛めつけられた報いは受けさせなければならない。
「私が……私がやるんだ」
里を守る。同胞を助ける。仇を討つ。
『止めて聞くお前じゃないのは知ってるが……偉そうな事並べても、そりゃお前の『復讐』なんじゃねぇのか?』
「……分かってるよ。バカ鬼」
連ねた大義の中に、『人間』という『種』に対する憎悪があることを、私は否定しない。目を背けない。
これが私闘だとしても、その時まで私は私の思う強い自分で居続ける。
「だから、『異種狩り』に。『人間』に背を向けることはしない……!」
きっとあの人と会えるその時までに、誇れる自分であるように。と、
「覚悟しなさい……」
大木から見下ろす眼下に見える二つのテントを睨みつけながら、自分自身にそう言い聞かせ。
「―――『ブロウミスト』」
外界の認識を阻害する濃霧の結界魔法を発動させる。
その効果は霧の内側から結界外のあらゆる認識を遮断、そしてその結界内の気配を術者は感知できる。
(ある程度、だけど)
シルエットだけが浮かび上がるイメージ。
けどそれで肉体的特徴を捉えることは十分に可能。
交戦した彼らにも四人の特徴は聞いてある。
(誤射のリスクはあるにはある。けど、それでもやらないと)
強いと分かっている以上、こちらも相応の覚悟で挑まなければならない。
それに攻撃の精度には自信があった。
「―――動く」
背の弓を手に取り矢筒から矢を引き抜く。
こちらの殺気が漏れたところで結界の中では感知できない。
「森に……」
好都合だ。この開けた川原より木々が生い茂る中の方が射角を特定されにくいはず。
移動する気配に霧の結界を追従させ、木と木を跳びながらそれを追う。
「今度は止まった……」
河原から森に入り緑が濃くなってきたところで歩みを止める一行。
「ふーー……」
先頭を歩く……身体的特徴から男。人間だ。
そいつの正面の高い位置にある枝に陣取ると、一息吐き集中。淀みなく矢を番える。
的が止まるというならその方が狙いやすいのは自明の理。
初手を投じるなら、今。
「――――」
呼吸を止め完全に静止した直後。弓弦が空を弾く。
「……よしっ」
気配の揺らぎ。狙い通りに人間の男の足を射ることに成功した。
二射目以降は警戒される。一射目で外す確率の高い急所を狙うより機動力を削いでしまった方が成功率は高い。
「次は……あなた」
回り込むように枝を飛び移り、肉付きの薄い方の女性の気配。人間の女へと狙いを定め――――
「! 何、この反応速度?」
一瞬で男の位置が切り替わり、どうやら二射目にして矢を叩き落したようだ。
「どこから来るかもわからない、見えたとしても体に届く直前の矢に反応するとか……!」
忠告通り、かなりの実力者のようだ。
「だからって、引けない!」
追撃に男の頭部へ矢を射るも、やはり落とされる。
「だったら……!」
驚かせるようで心苦しいが、異種族の女の子の足元へ矢を射る。
狭まる視界と感覚の中、目に見えない攻撃によるストレスに彼女たちの動揺を誘い『異種狩り』の二人を混乱させる策。
だが、
「これにも反応するの!?」
未来でも見えているのだろうか、牽制の矢すら潰されてしまう。
「くっ!この……ッ!」
予想以上の敵の脅威に乱れた動作で矢を番えると。
「イタっ!?」
弓弦から矢筈が弾かれ跳ねた矢が頬を掠める。
「もうっ!なにして―――」
動揺からくる凡ミスに苛立ちを隠せないまま矢筒に手を伸ばしていると、結界内で何かが膨れ上がるような妙な動きと、男の気配が上昇するのを感知。
「!? え?気配が、消え、た?」
だがその認識は、気配が上昇した先に視線を上げると、間違ったものだったと気づく。
「―――なに、あいつ」
上空、拡がる青空。私が立つ木々よりも高く。
霧の結界を突き破り、翼を持たないまま重力から解放されたような浮遊。
「ぁ……」
見上げたその『人間』と視線がぶつかり。
私は、一瞬先の敗北を直感した。




