その壁の上で
「壁だ。」
「壁だな〜。」
その日は、なんてことない晴れた日だった。突如地中より現れた巨壁によって世界中が大混乱に陥り、遮断された交通網によって状況の確認すらもままならないままに各地で暴動が起こった。まだ記憶にも新しいだろう。
かく言う俺は壁の目の前にいた。その時はものを言うことすらできないほどに動揺していたように思う。ちらりと見えた壁の厚さはいうなれば街のような、街の端から端まであるような巨大な壁に見えた。
厚さは壁があってもなくても地上の人間には大して影響しなかった。だが、壁は高かったんだ。
陽は遮られ、草木は枯れた。大気の対流は二度とは起こらないのだろう。
世の研究者たちは原因を探った。とは言っても壁によって遮られた内側だけで知恵を出し合わなければならない。壁は物理的なだけではなく、情報的にも完全に遮断していたのだから。
「はぁ……、はぁ……。……あと少し。」
たとえ何もしなかろうと壁を掴む手は疲労していく。
それもあと少しの辛抱だと思えば耐えられなくもない。壁の途中にはこれみよがしに休憩スペースのような突起がいくつもあった。それがなければ流石にこんな無謀なことはしていない。
「くッ、はぁ……。」
人類で最も早く壁を登りきったのは一人の女だったらしい。俺には縁のない話だが、その後競うように壁を登るものが現れた。急速に整備された有線の通信網によって世界は再び光の速さで繋がった。壁には数センチほどの細長い穴が貫通していたのだ。どの壁にも必ず。
そしてそこから流れてくる情報は生き残った者たちの数少ない娯楽だったのだ。
壁が現れた当時、壁の直上にいた者は例外なく死亡した。当然だ、壁が打ち上がる速度は音速を越えていたのだから。
「はぁーッ!」
やっと第八の突起、通称偉大なる第八指にたどり着いた。残りの突起は二本だ、その後はひたすらに上を目指すことになる。
現在、高度は地上から100kmを越えた、だが息や温度に悩まされることはない。これもこの壁を登りきった者がもたらした情報だ。酸素濃度や大気圧、気温が地表面近くと何ら変わりないと判明させたのだ。
そしてこの偉大なる第八指も先駆者が見つけたキャンプ地点だ。ここには寝床を作れるだけの広さがある。
「ング、ング、ング、ング……ぷはぁ。」
水は貴重だ、限られた量を計算しながら計画的に使わなければ後々脱水症状と戦うことになる。敵がいるのは外だけではない、むしろ壁を登っている間は自分一人での戦いになるのだから自分のことは自分でしっかりと、管理できなければ登りきるのは難しい。ここには助けてくれる人も、いざというときの病院も何もありはしないのだから。
そして当然壁には難所がある。しかし、壁にはあらゆる物質が打ち込めないのだ。この世のどこにもありえない物質、強度で見たならば最高の高度を誇ったらしい。
つまりは、壁に元からある凹凸、突起を使ってしか登ることができないということだ。
「……正しく偉大だな。」
少し横になれるということの素晴らしさ、それをここに来る者は全員が知っている。この先も垂直な壁が延々と続いている、自分でもよくここまで登ってこられたものだと思ってしまう、それほどにここは高い。周囲の環境が運動に適した状態に保たれているからこその今のパフォーマンスなのだから。
さて、休憩もそこそこにしようか、なんの目的もなく壁を登っている訳ではないのだから。
「……やっと、帰ってきた。」
上空136km、かつて一度たどり着き、しかし何もできなかった場所だ。
当時の俺は未だ経験が浅く、それでも持ったものを利用してうまく生きていけると思っていたのだ。その時の俺の座右の銘は知識は裏切らないだったからな。
「久しいな、と言っても通じないか……。」
「グルルル。」
壁からの転落死が後を絶えず、一時は立ち入りすらも禁止されようとしていながら、それでもまだ人々を惹きつける圧倒的な未知が壁の上にはある。
幻想生物、現在でも化学、物理学あらゆる学問の観点からも説明がつかない生物的な反応を示す個体。今俺の目の前にいるのはその中の一つ、飛行型。
「ガァウッ!」
巨大で、かつ空気が唸る程の速度を持って振るわれたグリフォンの腕は、俺の鼻先を掠めて不滅の巨壁の岩を砕いた。
人間には破壊できなかった壁をいとも容易く砕いてみせた。もしも一歩後ろに避けていなければ俺の頭は壁に咲く赤い花になるところだった。
「ヴァッ!」
轟音、次いでガラスが割れるような音、グリフォンが空気を踏み砕いた音だ。彼らに俺たちが信じてきた法則は当てはまらない。ならばこちらも法則の外の力を使わなければ勝ち目は億分の一もあり得ない。
人々が壁に登るのをやめない理由、それは未知への期待、そして人智を超えたアーティファクトの入手の為だ。
「起動、術式番号二番、六番。」
「グラァアアッ!」
「アクティベート、砕けッ!」
ドン、と腹に響く音がした。不撓かつ不屈、そして不滅の壁がビリビリと揺れた気さえした。
そして俺の前には身体の二割を失ったグリフォンがいる。
アーティファクト、Cube。六面体のサイコロのような濃い灰色をした物体だ。各面に刻まれた未だ未解明の術式が人の意思に反応して現象を起こす。
グリフォンの身体を破砕したのは二番だ、六面の中でも破壊力が高い。そして六番はなんてことない防御壁だ。だがその強度は壁を砕くグリフォンの一撃にすら耐えられる。
二番を放つのならば六番は要らないと思うかもしれないが、一撃で仕留められるとは限らない。ここでは油断した者から死に、準備を怠った者から死ぬのだから。
事実、俺の朋友は防御を怠たった結果、俺の前から姿を消した。
ヒュルヒュルと風を切る音が不気味だ、だからといってそのまま重力に従いながら落ちるのは誰だって避けたいだろう。今は壁の側面にすらいないのだから。
「今日は雲が厚い、視界が悪いな。」
帰りは地球に引かれるがままに地表に向かって落ちていく。当然自由落下などしない、毎秒9.8mずつ加速されてはたまらない。
アーティファクトは偉大だ、今の俺の落下速度はおそらく時速20km程度、まだ地表までは時間がある。ここは上空、空気が薄い。六番は壁の上からずっと張られている。
「収穫は、グリフォンの爪、鬣、毛皮、尾か。」
他にはグリフォンが守っていたアーティファクトが幾つか。これらは壁を初めて登りきった女の一党が買い取ってくれる。理由は知らない、興味もない。
役立つアーティファクトは売るつもりはないが、ほとんどは使えない物ばかりだ。今日はどうか。
「戒兎ってのは一体何者なんだろうな。こんな物まで買い取るんだから。」
手に持って眺めているのはランプの見た目をしたアーティファクトで、永久に光を灯し続ける物だ。壁のアーティファクトの中では珍しくもない一般的な物だ。俺も当然持っているが、二つはいらない物でもある。永久に光が消えないというのも考えものたが、便利なことに違いはない。
「雲に入るな……。」
アーティファクトの検分をしていたら気づけば対流圏が近づいていた。今日は地上では雨かもしれない。
「術式番号四番、探索。」
雲の下に広がる地面の形状を正確に捉えなければならない。雲が厚い日は雲を抜けてからすぐに地面がある可能性もある。場所によっては雲の中に山の頂上があるかもしれない。
つまりは、少しとはいえ落下までの時間が変わるということなのだ。
「ここだな。」
登るときに使った空き地、誰も近寄らないその場所に着地することに決めた。誰も近寄らないと言うのも、ここが壁を登るルートとして最難関だからだ。
白骨があり得ない方向に曲がり、死んでいった様が思い浮かぶ。
「……帰るか。」
見慣れた光景だ。一歩間違えれば俺もあの山の仲間入りがすぐにでもできるのだろう。
壁のルート、アーティファクトを使うタイミング、新しく見つけたアーティファクトを試してそれは起こるかもしれない。
だが、少なくとも今はそうはなっていない。簡単に何時でも足を引かれるように向こう側へと連れて行かれるこんな場所だが、少なくとも対策はできるし、俺には経験もある。
そして、何よりも先人の知恵が多少なりともあるのだ。
だとしたならば俺はそれら全てを有効に使わなければならないと思う。それが壁に登る者の責務であるだろうし、それができなかった者からあの山となるのだから。
「グリフォンはそこそこだが、アーティファクトも足せば一月は寝られるか?」
毎回だが、壁から降りたあとは二度とは行くまいと思ってしまう。俺の生活基盤が壁によって作られていると分かっていても壁と向き合うのは忌避するものなのだ。
さて、町が見えてきた。名前は何だったか、壁で分けられた狭い世界にわざわざ名前は必要ではないからな。
「これを売りたい、買い取ってもらえるか?」
「立派なグリフォンですね。」
荷物が荷物だ、町に入ったからと言って寄り道はしない。まずはグリフォンを金に変えるのが、何時もの俺の行動だ。
「では2MYでどうでしょう。」
「構わない、それで頼む。」
「では書類に起こしますね。」
なんてことない書類だ、領収書のようなものだろう。手早く済ませられる。
「それからこれらも頼む。」
「アーティファクトですね、全部で0.4MYになりますが。」
「それでいい。」
今は早く眠りたい、硬くない寝床で一日中床から出たくない。
ピン、と張っていた意識が町に入ってから一気に弛緩したのを感じたが、もうここは安全だ、構わないだろう。
「これで全てです、確認してください。」
「大丈夫だ。」
「なあ、ちょっといいか?」
何だ、眠い時に。
「……はぁ、何だ。」
「休みが明けたらでいいんだ、一緒に登らないか?」
「断る。」
俺は一人でなければ壁に登るつもりはない、たとえ俺が壁を登ろうとしていても先客がいるのならば俺は登るのを断念する。
もしもどこかの指で共に寝ることになったのならば、俺はその誰かを信用して寝ることができない。寝不足はコンディションを落とす。
それに目の前で死なれるのは寝覚めが悪い、そんな心労を抱えている状況も壁では積極的に避けていきたい。
「じゃあ、勝手についていってもいいか?」
「駄目だな。」
「取り付く島もないか……。」
さっさと何処かへ行ってほしいな、俺は眠たい。今すぐ眠りたい。ここで立ったままでも眠れそうだ。
「なぜ俺だ?」
「いや、別に誰でも良かったんだが……。」
「なら他を当たれ。」
「今は!アンタじゃないと駄目だと思ってる。」
何故だ、控えめに言って俺は社交的とは言えない。それに俺よりも壁に登るのが上手いやつはいくらでもいるのだ。俺じゃなければならない理由はないように思うが。
考えられるとするならば、俺が持っているアーティファクトか。あれはアーティファクトの中でもかなり価値が高い、当然手に入れるのには相応の苦労をしたが。
「俺には一緒に登る理由がない。」
「それは分かってる、だけど俺も引けない。」
「何故だ?」
この答え如何では俺はこの男との縁を一切切ることになりそうだが。
「アンタが俺と一緒に行かない理由と、多分一緒だ。」
「他は当たれないと?」
「今まで見てきた中でアンタが一番信用できる。」
「話にならない、もう来るな。」
「……。」
俺はなんと言われようとも壁を共に登るつもりはない。どこの世に自分が不利になることを積極的にする人間がいる?或いは奉仕の精神によって彼を手伝うような者もいるかも知れないが、俺からしたらなんのメリットもない取引だ。
「アンタ、荒黒川愛美と言う名前に聞き覚えはあるか?」
何故その名前が今出てくるのだろうか、幾年月も前にこの世を去った優秀なクライマーの名前が。
「荒黒川と言えば言わずと知れた……。」
「言わずと知れたアンタの相棒だ。」
知っている人間がまだ一人でも残っていたことに驚きを隠せない。確かに、俺が一人での活動に絞る以前、共に壁を登っていた女だ。
「それがどうした?」
「荒黒川は死んでいない。」
何を言うかと思えばとんだ妄想だ。荒黒川が極限体の息吹を受け地上100kmから落下するのを俺はこの目で見ているのだから。
「それで、それがどうかしたのか?」
「会いたいとは、思わないのか?」
全く思わない、そもそもただの協力者としての関係だったのだ。俺にはアーティファクトが無く、彼女には知識が無かった。それだけだ。
「分かった、これは諦める。愛美さんも望まないだろうし。どうしたら一緒に行ってくれるんだ?」
仮に俺は何を積まれたらこの男と壁に向かうだろうか。まあ何を積まれたところでこの男に対する信頼が皆無な現状では如何ともし難い。
「あの……。すみません、お二人共少しいいですか?」
「何だ少年、この男は俺が先に交渉してる、後にしてくれないか?」
その交渉は数分前に決裂していたはずだが、聞こえていなかったのだろうか?それともはなから聞く気はないのか?
そして面倒そうなのがもう一人増えている、このままでは遅くまで帰れなくなりそうだ。これでは宿も取れない。
「ちょっとアンタ、帰ろうとするなよ!」
「断る、眠い。」
すぐ終わるからと彼は言うが、それは俺が承諾した場合の話なのだろう。
「きっと二人きりなのが嫌なんですよ、僕も連れて行って下さい。」
「誰か知らないが俺はお前たちと共に登るつもりはない。」
「何故、お前たちがいる。」
「一緒に登ろうぜ?」
「勝手に付いていきます。」
帰るしかないな、どうやって俺がいつも使っている場所を調べたのかは知らないが。
こいつらは何がしたいのかすら口に出さないのに、俺の信用を得ようとしているのだ、虫が良すぎるだろう。
「ほら、行こうぜ!」
「そうですね。」
あの男はともかく、少年は死ぬだろうな。見るからに貧弱な肉体と脆弱そうな精神。彼には壁を登る資格すらないように俺には思える。
まあ、壁で彼が自分の命をどう使おうが勝手だが、俺を巻き込もうとしないでほしいものだ。
ザクッ
「おはよう、あなた達も今から登るの?」
何だ!?いつの間にそこに居た?最後の一歩だけわざとらしく砂利の音がした。それまでは音も匂いも気配も感じなかった。それは二人も同じようだ。
「君、そう一番若そうな君、あなたじゃ登れないからやめておきなさい。」
「……やらなきゃ、いけないことが、あるから……。」
この女、どこかで見たことがある。確か戒兎の副リーダー、樫木香織。
単独で壁を登る俺と同じソロだが、彼女は一日で成果を持ち帰ってくる。そしてもう何十年も前から年老いていない正真正銘の化物だ。
「別に聞かないけど、それは命よりも大事なこと?」
「はい……。」
力はないが確かな意志を感じる声だった。まだ十代に見えるが、背負ったものの大きさは年相応とは言えそうになかった。もう一人は大分ミステリアスな部分があるが。
「じゃあ、わたしもついていく。ほら、行くんでしょ?」
「は、はい!」
「勿論だ!」
よかったな、心強い用心棒がついて。と言えればどれだけ楽だっただろうか、三人の視線からそれが無理なのは分かる。特に樫木は駄目だ、戒兎との関係はこじらせたくないしな。
「あなたも行くよね?」
「……了解した。」
はぁ、憂鬱だ。だがまあ、戒兎のメンバーがいるのならば、指にいるときは安心できるだろう。少なくとも眠っている間に刺されるということはなさそうだ。
「じゃあ、行こうか!」
何だ、あの動きは。どうやったら生身の身体能力で突起から突起にジャンプしながら登っていけるんだ。そしてそれでも余裕そうなのが恐ろしいところだな。
「覚悟を決めた少年主人公系のこ以外は余裕そうだね、わたしはそのこに集中してればよさそうだ。」
失礼なことだが確かに俺もあの少年だけは壁に向いていないように思える。あまりにも未熟で今も壁への手の掛け方すらままならないようだ。
「少年、名前は。」
「……僕は竹内聡と言いますけど。」
「俺は染原藍虎だ。」
「あ、ちなみに俺は小川友紀だ。よろしくっ!」
お前のは聞いてないんだが……。
「わたしは樫木香織です、よろしくお願いします。」
お前は知っている。
緩んだ空気だ、こういう時にこそ思わぬ事故を起こす。それは勘弁だ。まだ大分下の方なのだ、この先見上げれば雲に隠れて見えないところまで壁は続いているのだから。
「樫木、戒兎とは一体何だ。」
「秘密だよっ。」
一体長い生の中でどれだけのものを彼女は見てきたのだろうか。恐らく言葉では語れないほどに感動的で残酷なものだったのだろう。十代程に見えるその見た目に相応の可愛らしい笑顔で、しかしその目には老成した深い虚しさを孕んでいる。
「でも、わたしが何かなら答えられるよ?」
「聞けるものは聞いとこうぜ。」
おい、茶化すな。この男は、人の感情に疎いのか?
だが、俺も小川の意見には賛成だ。
「聞いてもいいか?」
「いいよ、わたしは異世界で戦った元勇者、だよっ!」
「えーッ!?そうなんですか?」
「ハハハッ、面白いな!」
そんなに受けることでもないだろうに、二人共子供のようにはしゃいでいる。
いや、俺もこんなふうにはしゃいでいた時代があったのだろうが、徐々に薄れていった。異世界だとかそういうものに憧れる余裕はいつしかなくなっていたのだから。
「割と本当なんだけどね。」
「冗談は置いておくが、実際どうする?このままでは壁上に辿り着くのはいつになるか。」
樫木は言わずもがな早い。俺たちの誰よりも早いのだ。だが、問題は竹内だ。彼が圧倒的にペースを落としている。
「確か、cube持ってるよね?」
「ああ。」
「五番を使ってあげれば早くなると思うけど。」
五番、身体能力を底上げする術式だが、体への負担は相応に大きい。未だ未熟な少年の体で耐えられるかどうか。
「負担は考えなくてもいいよ、わたしがそれは無効化してあげる。」
「そんな事が……。」
あり得ない、とも言い切れなくなったこの時代だ。未知の力で少年を容易く癒せる可能性はある。ましてやアーティファクトを収集している戒兎の副リーダーともなれば、相当のものを持っていてもおかしくはない。
「分かった、使おう。」
「お、お願いします。」
「起動、術式番号、五番。」
灰黒い六面体が仄かに光りだす。俺の意思に反応を示している証拠だ。
「アクティベート、強化。」
「うわっ!?」
「危ない危ない、手は離すなよ聡少年。」
驚いて手を離したか、小川が支えて事なきを得たが、やはり危うさが拭えないな。輝きが移ったくらいで驚かれてはこの先長い時間集中力が続くとは思えない。
「力が湧いてきます。」
「それはお前の体を蝕みながら、能力以上のものを出している。」
その意味を彼が十全に理解してくれることを願うしかない。どれだけ他人が口うるさく言ったところで、本人が理解していなければなんの意味もない。
「そして、死滅していく体細胞はわたしが回復させるよ。」
優しい光に包まれた樫木の左手が竹内の体に触れ、そこからみるみるうちに全身に広がっていく。
「徐々に回復させるから今の状況にちょうどいいかな?」
やはり戒兎はどこかおかしい。アーティファクトなしでは今のような事ができないと分かっているのにやってのけるのはもちろんだが、これほどの反物理現象だ。一体どれ程の意思で法則を捻じ曲げたのだろうか。
「どうしたの?染原さん。」
「……何でもない。」
なんにせよ、樫木が化物なのは間違いない。ならば精々怒りを買わないようにしておくとしよう。
旅路は順調だ、ある程度の経験者とアーティファクトによって超強化された者、そして化物が一人いるのだから当然とも言えるだろうが、それにしても何故彼女はついてこようと思ったのだろうか。一人で行けば間違いなく早いのだ、俺たち三人が彼女の足を引っ張っているのは間違いないのだから。
「ここが最後の休憩場所だね、聡くんよく休みなよ?」
「……はぁ、……はぁ、分かりました。」
かなり強化されているとは言え、少年には基礎的な体力が足りていない。どれだけ強化しようが元が少なければ伸びる量も少なくなる。
「ここで一泊だな、それでいいか?」
「いいよ。」
「お願いします……。」
「構わない。」
登りきった後に何がいるか分からない、どれだけ経験を積んだとしてもこれだけは予測が効かない。ここで体と気を休めておくのは大事なことだ。
「見張りはやっておくから三人とも寝てくれていいよ?」
「おお!じゃあお言葉に甘えて。」
「ありがとうございます。」
「そういうわけにもいかない、俺も起きている。」
いくら一番強者とは言え、女性である。一人で見張りを任せるのは問題だ。
「いいから寝なよ。」
「あなたがいざという時に万全でなければ俺たちが困る。」
クスクスと笑われた。二人は既に寝る準備に入っていてこちらの話は聞いていないようだ。
笑うのは構わないが、腹を抱えて大爆笑するようなことだっただろうか。
「いや、ごめんね。染原さんも本当はわたしや聡くん、小川さんの事を大事に思ってるんだなぁ、と思って。」
「それは面白かったのか?」
「どうなんだろう、分からないかも。」
何だそれは、答えになっていないな。だがまあ、不快にも思わない。
「ねぇ、染原さん。藍虎さんって呼んでもいいかな?」
「いいがどうした?」
「だって仲間でしょ?」
仲間、そうか仲間か。
『染原、仲間は良いだろう?』
「ふふッ、そうだな、仲間だ。」
悪くないな。
「何話してんだ?」
「見てください、こんな物が落ちてました。」
いつから光を恐れていたのだろうか、俺には眩し過ぎると。
いや、分かっている。俺の相棒が死んだ時に、俺は仲間を作ることを恐れた。いつか失うのだ、どれだけ才能があろうと、どれだけ経験を積もうとも、壁は容赦なく俺たちの前に不動たるその姿を示し続ける。
「……忘れられていなかったか、荒黒川。俺は……。」
それは光に目が眩んでいただけだ。
「竹内ッ!」
「……すみ、ません、……聞こえ、ないです……。」
極限体ッ、今は樫木が一人で相手をしているが、彼女でも余裕がないらしい。
「何で最強種がこっちにまでッ!?」
振り下ろされた剛腕の一撃が壁を砕いて破片を辺りに撒き散らす。咄嗟に張った六番も衝撃だけで砕け散った。
人間という種族では敵わない圧倒的な差。
「グラァァァアアアアッッッツツツツ!!」
「六番ッ!耐えろッ!!」
途轍もない衝撃に攫われて吹き飛ばされる、壁の中心に向かって。
「染原ッ!無事か!?」
「問題ない!」
右脚と右手が見たことない方向に曲がっているくらいだ。
竹内は俺より数段ひどい、もう呼吸も微かだ。止まるのも時間の問題なのだろう。
「俺は、また失うのか?」
「染原どうした。」
いや、そう簡単に失うつもりはない。
そんな俺の気持ちを嘲笑うかのように俺の真横に剣が刺さる。光でできた輝く剣だった。
「樫木さんッ!?」
「大丈夫!」
剣が弾かれ、その鱗に一条の傷もつけられない状況にありながら樫木香織は頬を釣り上げていた。
既にその両の手には光の剣が握られていた。
ザクッ!
「ギャァアアッッ!!?」
耳障りな声だが、今の俺たちにはその声に希望を感じていた。何故ならばそれが傷をつけられたドラゴンの悲鳴だったからだ。
「まだまだッ!」
樫木香織が切り込むたびに悲鳴が上がり壁を新鮮な血で濡らす。一方的な虐めだ、これでは屠殺と何ら変わりない。
「すげー、強過ぎる。」
「ああ、……戒兎とは一体何なんだ。」
やがて無敵とも思えた極限体の命も底をついた。その巨体が倒れる衝撃で壁が再び揺れているが、今はそれも気にならない。
「……流石に、無理……。」
「香織さん!?染原は竹内を頼む!」
「分かった。」
樫木が突然倒れた。恐らく気絶しているだけだろうが、小川はそれを分かっていて行ったのだろう。そういうものに疎いと言われる俺だが、小川が樫木に好意を持っているのは分かった。
問題はこちらだ。ドラゴンが倒されるまでの間に心臓の動きも止まってしまっている。
壁は中心に向かえば向かうほど高価で貴重な物が手に入る。無茶をするだけの価値のある物が幾らでもあるのだ。そしてそこに向かった者のほぼ全てが地上に帰れずそこで死体を晒すことになる。
「ギィィアァアアッ!」
「藍虎ァーッ!!」
ガキンッ!
ひどく金属的な音がして小川が弾き飛ばされる。樫木はまだ意識が戻っていない。硬質かつ金属的な輝きを持った凶器が赤い飛沫の尾を引いて振り上げられた。
「香織さんを連れて壁を下りろ藍虎!ここは受け持つ!」
「無理だ、死ぬぞ!」
小川は答えなかった。言葉が見つからない訳でもないのだろう。
だが、俺は小川の体を、小川の体から溢れる鮮やかな赤を見て全てを悟った。臓物が溢れ出ないのが不思議なほどなのだ。
「済まない。」
「いいよ別に、……なんとか竹内は弔ってやらねぇとな。」
俺は彼らを置いて行く、後で悔いると知っていて置いて行くのだ。
「あの二人は?」
「……殿だ。」
生き残った二人の間に重い沈黙が落ちた。
これ程重い空気に包まれたのはいつ以来だろうか。記憶の中にはそんな状況はないが、或いは俺が今まで通ってきた人生の中で誰かをこの状況に落とし込んだことがあったのかも知れない。
もう俺は三人の命を背負っている、樫木はもっと多くの命を背負って来ているのだろうが、これは数ではないのだ。
「聡くんは、あの時既に……。」
「ああ、死んでいた。……俺が、確認した。」
息も心臓も停止していた。あの場にある物ではどうやろうとも救命どころか延命も難しい。
「……小川さんは、どうして?」
「あなたの事が好きだったんだと思う、合っているかは分からないが。」
答え合わせはもう二度とできない、答えを知っている者はこの世から去ってしまったのだから。そんなどうでもいいと思えるようなことも、今は途轍もない喪失感が付いて回る。
「……わたしなんか、お婆ちゃんだよ……。」
「俺なんて、気づけば俺のために三人死んだ。……だが、だからこそ生きなくてはならない、と思う。」
その重みは消えはしないだろうからこそ、背負いながら生きていかなくてはならないのだ。ときにはその重さに膝を折ることもあるだろうが、たとえそれでも足を止めることは許されないのだろう。
「それが生きている俺の、やるべき事だと思う……。思うだけだが。」
「そうだね。」
その日は、なんてことない晴れた日だった。突如地中より現れた巨壁によって世界中が大混乱に陥り、遮断された交通網によって状況の確認すらもままならないままに各地で暴動が起こった。まだ記憶にも新しいだろう。
俺はその壁の前にいる、沢山の命を俺のために使ってもらった俺は、俺のためにここにいる。
「さて、今日も登るか。」
生きるために、生きていく糧を得るために。
とまあ、こんな夢を見たわけです。見上げるほどの建物、山は誰もが見たことがあるでしょう。しかし、この壁は違います。大気の流れ、そのすべてを遮るほどの大きさなのです。