麻里
故郷の病院に単身赴任し、仕事をしている高村は病院サイドの経営陣からの圧力に疲れていた。夏の暑い日、彼は駅までの裏通りを歩いていた。
勤務先から逃げ出すような気分で帰路についた私は、駅に向かう裏通りを足早に歩いていた。かつて、この通りには居酒屋やバーが立ち並び、店の明かりで華やかだったが、今ではシャッターを降ろした店ばかりになり通りは殺風景で薄暗かった。
数日前まで改装工事を行っていたビルの一階が、「Oyster Bar」という青い電飾看板が光る新しい店に変わっている。「こんな海なし県の、こんな場所で、オイスターバーなんて流行るわけねえよ」と独り言を言いながら、通り過ぎようとしたが、この夏一番だという暑さに負けた。ガラスドア越しに見える涼しそうな店内に青いライトに誘われたのだ。
ドアを開けて中に入ると、ヒンヤリとした冷気が私を包んだ。右手にはカウンター席があり、反対側には四人掛けのテーブルが7つ並んでいる。店内に客は一人もいなかった。
私はカウンターの一番奥に座った。店の一番奥のテーブルの脇には破砕された氷の山があり、その上には沢山の牡蠣の殻が置いてある。飾りのつもりなのだろうが、ゴミの山にも見える。
白いシャツを来た若い女店員が私の前にやってきて「いらっしゃいませ」と言った。細い指で丸いコースターをカウンターの上を滑らすように置き、食事メニューとワインリストを差し出す。ワインはどれも三千円くらいで手頃だった。とにかく酔いたかった私は、ワインリストの一番安いワインを指さして「このワインのボトルを一本、それと本日の生牡蠣四ピースのセットを下さい」と言った。
女店員は「え、お一人で一本ですか」と目の玉が飛び出るくらい目を開けて答える。口がアヒルの口みたいだ。殆ど、酒飲みの相手をしたことがないのであろう。
「残ったボトルは持って帰るから大丈夫だよ」と言ってあげる。
すぐに女店員はワイングラスとワインボトルを持ってきた。コースターを横にずらしワイングラスを目の前に置いて、ワインオープナーを回し始めた時、注文したのは赤ワインだったことに気づいた。もう一度ワインリストを見ると、五千円で白のシャブリが飲めると知り後悔する。
酒なら何でもいいと思いなおし、ワインをグラスにドボドボと注ぐ。多めに入ったワインを一気に飲む。胃のあたりが熱くなる。職場から持ってきた怒りのせいなのか、一気に飲み過ぎたせいなのか、味や香りが私には解らない。
海なし県の生牡蠣は案外旨かった。
すぐに二つ目の牡蠣を食べる。潮の香りが口の中一杯に広がる。
体から汗が引き、熱を帯びていた怒りは、やっと収まってきた。改めて店内に目を配ると、装飾が洒落ていることに気づき始めた。カウンター前の酒棚にはあらゆる種類のブランデーやウィスキー瓶がラベルを前にして上手に置かれている。後ろを振り向きテーブル席側を見ると、アメリカン・ゴシックの絵が二つ掛かっている。天井から吊された二つのスピーカーから流れてくるのはスムースジャズで、時々挿入される英語のコマーシャルで、ネット配信のストリーミングチャンネルと解った。
夭折の詩人の詩集を鞄から出して、私は適当な頁を開く。「少年時」という詩を読み始める。
ボトルを持ち上げ、空のワイングラスに二杯目を注ぐ。マスターが作ったというカクテルソースをかけて二つ目の牡蠣を食べる。
酔いが回ってくると、一時間前にやっていた理事長との口論が頭に浮かんできた。こうなると詩に集中することが出来ない。激しい怒りが心にあって、忘れたくても頭に浮かんでくる。旨い牡蠣もワインも、怒りをおびた記憶には勝つことができない。私は文庫の詩集を伏せてカウンターの上に置いた。
故郷の総合病院に単身赴任したのは5年前である。
一人で生活する母の体が弱ってきたこともあった。先代の病院長の「高村の好きなようにやってよい」という誘いもあった。しかし、妻子と離れて母の傍で暮らしたいという思いが、故郷で診療することを決意させた。
大学病院の精神科外来では、3時間で50人の患者を診療するという処方だけの外来が当たり前になっている。そんな時代、まともに精神療法をやらせてくれる病院は、北関東でも珍しかった。精神科は採算に合わないため、外来を閉鎖する総合病院は増えていた。時間をかける診療をやれば赤字になる。精神科医は、薬だけを出す医者になってしまう。私の勤務先も経営状態は悪化しており、非採算部門の精神科への風当たりは強くなっていた。
先代の病院長が引退し、母親が亡くなった今、故郷への未練は薄れていた。横浜の自宅にいる医学部に入った息子と大学受験を控えた娘のことも気になる。妻からは、帰宅するたびに横浜で開業して収入を増して欲しいと言われていた。
元脳外科医の理事長が脂っこい顔に薄笑いを浮かべて「精神科なんか薬だけ出してりゃいいじゃないか」と言った時、私の心と故郷を繋ぐ糸がまた細くなった。理事長の言葉に激しい怒りを感じ、私の体は熱くなった。「それなら、そういう医者を捜して下さい」と言って、私は理事長室を後にしたのだ。
そろそろ、故郷への恩返しも終わりだと思いつつ、グラスに残ったワインを飲む。
再び詩集を開く。「骨」「秋日狂乱」と読み進む。この詩人は、何故これ程の空しさと罪の意識に苛まれていたのだろうかと思う。その空しさと罪の意識が私を惹きつけていることも知っている。それは、母の反対を押し切って結婚し、母が病気になるまでほったらかしにしておいた罪悪感と、ずっと以前から抱えている心の穴が詩人の感性と共振するからだ。
何か追加しますか」と女店員が聞いてきたので、私は詩集に目を留めたまま、「野菜スティック」と言った。
「在りし日の詩」の頁になった時である。背広の内ポケットにあるスマホがブルブルと震えだした。理事長からの電話に違いなかった。詩の世界から、現実に引き戻される。
「電話なんだけどさ、ここで話していいですかね」と不快な気持ちを声に載せて、女店員に言う。女店員がマスターの方を見る。マスターはグラスを磨きながら「誰もいないから、いいですよ」と言った。
スマホの画面には勤務先ではなく、知らない電話番号が掲示されていた。
会話ボタンを押し、警戒しながら「もしもし」と言うと、女の声がする。
「高村君、涼子よ、覚えてるでしょ。夫からあなたの携帯番号を聞いたの」
電話の相手は医学部同級生の柏崎涼子であった。彼女の夫は、以前私と一緒に働いていた安西啓介という精神科医である。涼子は安西の実家の病院で内科医をしている。
「涼子先生が電話をくれるなんて、めずらしいね。安西先生とは都内の学会で会ったよ」
「やっぱり、言っておいたほうがよいと思って。ねえ、麻里のこと覚えているでしょ」
「麻里」、もうずっと心の奥に置いていた名前を諒子は平然と言い放った。
「麻里なんて女のことなど覚えてないね」
「酔ってるの?相変わらずね」
ミルク色の牡蠣が目の前で輝いている。ワイングラスを持ち上げ、クルリクルリと手で回しながら、スマホを切っておけば良かったと後悔する。
「で、こんな時分に何なんだよ」
「麻里、一年前から膵がんなの。彼女とは卒業以来会ってなかったけれど、この前、彼女から連絡もらったのよ。今、彼女とメール交換してる」
「だから、なんだってんだよ。もう、昔のことだし、関係ないだろ」
「それは、そうなんだけど。それはそうと、今でも高村君は絵とかやってる。学生時代に麻里と一緒に絵を描いていたじゃない」
「絵なんかもう三十年もやってねえよ。麻里のことなんて覚えてないし、麻里だって家族がいるだろうよ、こんな時分に、いったい何が言いたいんだ!」
理事長からの電話ではないのは幸いだったが、面倒な内容に、不快な気分がわき上がってきた。
「麻里、死期を悟ってから、高村君のことをずいぶんメールに書いてくるのよ」
死期と言う言葉で私は少し冷静になった。
「見舞いには行けないよ。ここから金沢じゃ半日がかりだ」
「それはいいの。とにかく読んであげてよ。麻里のメールをそっちに転送してもいいわよね・・・・・・・」
「麻里の了解は、とってあるのかよ」
「一昨日、金沢まで見舞いに行ってきた。彼女おそらく、あと数週で亡くなると思う。彼女が高村君に転送して欲しいと言ったのよ......」
「麻里のメールをまとめて今から送るからメールアドレスを教えてよ」
「ご自由にどうぞ、読むかわからんけどね」
「飲み過ぎないようにしてよ。夫もあなたのアルコールを心配してたわ」
「そりゃ光栄なことだ。ちなみにメールは、○○@gmail.com」
「じゃあ、すぐ転送するわね」
私は三杯目のワインをグラスに注いで飲む。にんじんスティックに小皿にのったマヨネーズを絡めて、兎のようにカリカリと食べる。そして、もう一度、ワインを飲む。
麻里・・・・・・
80年代、学生時代につきあっていた麻里との思い出は、時折、蜃気楼のように現れることがあった。病院研修にやってきた小柄な女子学生を見た時とか、学会で金沢に行った時とか、麻里のことは意識には上がってくる。しかし、そこには生命の鼓動も温もりもない。あの頃の風景は靄のかかった海上に浮かんだ現実味のない景色になってしまった。麻里と別れた後の三十年の体験が、麻里との時代を水平線の遥か彼方に運んでしまった。
ボトル半分になったワイン、そして経済原則を突きつけてきた理事長。この二つが、無邪気で希望に燃えていた医学生時代に私を引き戻したのかもしれない。
無性に学生時代の曲が聴きたくなった。
「80年代の曲はないですか」と、私と同年代と思われるマスターに言うと「チャンネル変えますね」と言い、始めて笑顔になった。笑顔の顔には髭は似合っていた。ストリーミングチャンネルからDonna SummerのHot stuffが流れてきた。そういえば、Donna Summerもがんで死んだ。
酔いが深くなってきた。
Culture Club、Air Supply 、Hall & Oates、TOTO.といった、次々に出てくる80年代の曲と一緒に学生時代の風景が浮かんでくる。ヘッセの庭、ヘルメティク・サークルにオイスターバーが変わった。来るべきことを約束されていたかのように、80年代の景色や匂いや感覚までが、この店に運ばれてくる。砂浜、傾いたアパート、ペインティングオイルの匂い、流し台にある二つの歯ブラシ、そして、麻里の笑顔、麻里の声、麻里のぬくもり・・・・・・。
ジー、ジーとメールの着信を知らせる振動音がなった。涼子が転送した麻里のメールだと察しがついた。胸に痛みのような感覚が走る。それと一緒に、あの時代に抱えていた胸に穴が空くような、空虚という言葉では簡単に括ることが出来ない、辛い感情も蘇った。
グラスのワインを一気に飲む、そして涼子から転送された麻里のメールを読み始めた。
件名:高村君 その一
日時:○○年8月2日
涼子、昨日から、また痛みが出てきているの。あのことを思いたくないけれど、もう無理ね。悪魔がやってくるみたいに頭に浮かんでくる。怖い、とても怖い。でも、やめる。もっと体が痛くなりそうだし。緩和チームの精神科の先生はわりと話を聴いてくれるけど、どこか自分に合わないの。言っておきたい事があったら言って欲しいと言われたけど、そんなこと言われたら、逆に何も話せないよね。もう両親も亡くなったし、兄弟もいないし。気になるのは、私の患者達だけど。全員、子どもだしね。先生が何かしたいことありますかと言ってくれたので、パソコンでメールを書きたいと言ったら、あっさり許可してくれた。
涼子、私ね、ずっと後悔してることがある。涼子は覚えている?高村君。彼、あんまり目立たない学生だったでしょ。私が付き合ってたことを知ってるのは、涼子だけだよね。涼子、高村君、今どうしているのか知ってる?彼、精神科医になったのかなあ。同窓会名簿じゃ何科をやっているかわからないし。
1年の浪人生活を終えた私は、地元の国立大学を落ちて、神奈川にある私立大学医学部に進学した。開業医をしていた祖父が残した遺産の全てが私の学費に変わった。
1979年、「いとしのエリー」がチャート一位の連続記録をつくった年に私と麻里は出会った。私たちは1980年代の前半の殆どを一緒に過ごしたことになる。日本がバブルに向かって走り、誰もが景気に酔っていた華やかな時代だ。
当時の新設私立医大は、しばしば週刊誌ネタにされた。「新設私立医大の学生駐車場外車占有率と偏差値の相関」といった記事が週刊誌に掲載され、「某党党首の息子が無試験で入学できた」とか、「医学部予備校に入試問題が漏洩し、塾長が多額の金を教授に払った」だの、そういう話題には事欠かなかった。私の出た医学部もこうした医学部の一つだ。入学ガイダンスの父兄席に座る親たちは、いかにも金持ち開業医夫婦といった装いで、仕立ての良いスーツを着た父親や、流行のニュートラで若作りの母親ばかりであった。私の田舎に住む足の悪い母は入学式には来られなかった。親が一緒に来なかった学生は、私だけであった。
医学部の女子学生は派手な子が多く、シャネルのバッグを持っている子もいた。男子学生は、都内のお嬢様大学と派手な合コンを行った。要領の良い学生は進級し、要領の悪い学生は留年を繰り返し、数人が毎年辞めた。
私は私立大学医学部の雰囲気に馴染めなかった。同級生の話には車や海外旅行の話が多く、そういう世界を知らなかったからだ。田舎くさい自分の装いと、金のない生活が貧相に思え、文学部や工学部のある二駅先のアパートに隠れるように住んだ。
母親から「一つくらい医学部のクラブに入らないと、友達ができないだろうがね」と言われ、一番地味な医科芸術部という仰々しい名前のクラブに入った。亡くなった祖父が絵を描いていて絵心が昔からあったからだ。その時、一緒に入部したのが石川麻里である。
麻里の記憶は殆ど消えても、最初の印象は、はっきりと覚えている。白いワイシャツとブルーのスカート、紺のカーディガン、洋服には全く関心がないといった装いで、私は故郷の素朴な高校生を思い出した。
私は自分と他の学生との違いを「劣等感」と名づけた。当時は、麻里も同じように体験していると勝手に思い込んでいた。
今から思えば、その時にいた世界が特殊だったにすぎない。私には医学部に親しい友達はいなかったし、麻里が親しかったのは同郷の涼子だけだ。そして、私には父がいなくて、麻里には母がいなかった。私のアパートは傾き、隣には同棲している工学部の学生がいて、麻里が住むアパートは築30年を超え、隣には足の悪い老婦人が住んでいた。
麻里は私の下宿に毎日のように泊まるようになった。私が彼女を誘ったのだ。私は女を知り、麻里は男を知った。隣の学生に声が漏れないように、Starshipの「愛は止まらない」を大きな音で流し、孤独を埋めるように私は麻里を求めた。愛とか恋とか、そんな一言で語れるものではない。生物が生きながらえるために空気や水が必要のように、私は麻里を求めた。
件名:高村君その二
日時:○○年8月5日
そっかあ、やっぱり結婚してたんだ。そりゃそうだよね。じゃあ、メール出せないね。でも、地元に戻って病院に勤めているのを聞いて少し安心した。私が小児科で彼が精神科という約束だけは実現したね。私ね、小児科だったけど、結構、お母さんや、時々、お父さんの会社の悩みも聞いてあげてたの。少し、精神科の勉強もしたしね。高村君の影響なんだと思ってる。父が亡くなって家族が誰もいなくなって、名前をファミリー・クリニックにしたの。クリニックの患者さん、みんな私の家族と思って仕事してたんだ。
あーあ、彼は今はきっと、お母さんと一緒に住んでいて、奥さんや子どもがいて、きっと幸せにしてるんだろうなあ。でも正直、悔しい。海が見える大学、懐かしい。でも、思い出す場所は教室や病院じゃないんだよ。涼子は知らないだろうけど、グランドの裏のプレハブの二階にある部室。あそこから遠くに見えた相模湾、綺麗だった。私、海の見える故郷で育ったからね。海をどこかに求めていた。
あの頃、私は淋しかったんだ。きっと高村君も淋しかったんだよ。私、運動部の学生の声が聞こえる部室で夜になるまで絵を描いていた。
「いつも淋しい目をしてる」と麻里は言った。私の淋しい心を麻里は見透かしている。私は麻里のやわらかい膝に自分の頭をのせる。麻里は子どもの頭をなぜるように私の髪の毛をなぜる。「淋しいんだよね」と麻里はつぶやく。
私達2人はいつも一緒だった。私は医学部に少し馴染んで、友達も増えた。軽音部に入ってバンド活動も並行して始めた。しかし、麻里は、少しも変わらない。講義が終わるといつも部室で絵を描いていた。
麻里は子どもが好きだった。ぬいぐるみ病院というサークルにも入り、近くの児童養護施設や保育所のボランティアに出かけたりしていた。母親のいなかった麻里は、小児科になると言い、みんなの家族になってあげるのと、夢を語った。
6年生の春、麻里から「生理が来ない」と打ち明けられ、二人で隣駅の産婦人科に行った。もしも妊娠していたら産めばよいと思った。私達はもう6年も一緒にいたし、私も麻里も大学に残って研修医をやり、私は結婚するものだと確信していたからだ。
「どうだった」「どう思う」「どうなんだよ」「外れ」「よかった」でも、あの時の麻里の淋しそうな顔は今でも心に残っている。
卒業が近くなった時、進路決定書類を二人で書いた。麻里は大学病院の小児科、私は精神科を希望し、良い医者になろうと誓い合った。
卒業式の謝恩会が横浜の高級ホテルで行われた。
田舎から出てきた貧相な装いの母は、麻里のことは全く知らない。母はうつ病で私が高校時代に二回入院していた。それも私に精神科を選択させた理由の一つだ。私は母が傷つくことを恐れたし、貧相な母には、麻里でさえ、会わせたくはなかった。麻里のことは隠し通した。麻里もそうだ、父が傷つくことを恐れ、私のことは隠していた。足の悪い母は自分で裁縫してきた服を着て、周囲の派手な親から好奇な視線を向けられている。不思議なことに麻里が母を精神科の岩野教授のもとに連れていった。母が傍にいた彼女に聞いたのであろう。背の高い俳優のような風貌の岩野教授の前で、小さな母は頭を下げていた。私は少し離れてそれを見ていた。
故郷に戻る電車の中で母が「優しい子がいたがね、ああいう子は育ちがいんだよ」と言った。それでも、私は麻里のことを母に言えなかった。
件名:高村君 その三
日時:○○年8月12日
少し熱が出て、返事を出せなかったの。心配かけてごめん。本当は、高村君が結婚したことを聞いてショックだったの(笑)。
そうそう、夕べ、高村君のお母さんの夢を見たのよ。亡くなった父もいて、家族のように仲良く話している。ものすごくわかりやすい夢でしょう。もう少しで父に会えるってことかな。そういう世界があると信じるようにした。
僕らが大学を卒業する1987年の3月、スキーツアーから帰った私は、土産をもって麻里のアパートに行った。麻里が「部屋で待っている」と言っていたからだ。
ドアを叩くが、どうも人の気配がない。近くの公衆電話に行き麻里に電話をいれる。しかし「お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません」と機械的な声が響く。何度もドアを激しく叩いていると、隣に住んでいる老婆が出てきて「石川さんなら、一作日、引っ越していきましたよ」と言った。
私は慌てて「麻里がいないんだ」と涼子に電話した。
「お父さんと一緒に金沢に帰ったの、手紙を書くと言ってたわ」と涼子は言った。
私は麻里に捨てられたと思った。その後の私は、淋しさをまぎらせるように、適当につきあった女と適当に寝て、酒を浴びるほど飲んだ。麻里からの手紙は一年待ったが、結局、来なかった。医師になった私には沢山の金や人が集まるようになり、大学附属病院の生活に麻里との思い出は氷の溶けていくグラスのウィスキーのように、その存在は希釈された。私は違う世界を求め始めるようになった。麻里とつきあっていた時に経験した満足感や安堵は、どこを探しても見つからなかったからだ。
研修医が終わった時、友人の紹介で山手育ちの社長令嬢と知り合った。つきあっている間に子どもが出来た。事情を説明したが結婚に母は猛反対した。家柄が合わなかったし、母は二回の精神科入院で人間関係に劣等感を持っていた。私が神奈川で婿養子のような生活になることも予想していたのだ。実際、その後の生活は母の言う通りになった。今でも、母を無視して結婚したことを後悔している自分がいる。しかし、生活や仕事に追われていれば忘れることができた。
30年はあっという間に過ぎた。子どもが2人生まれ、その二人は妻の意向で私立の小中高に通い、横浜にローンでマンションを買った。30代と40代は土日に当直を入れ、私は学費とローンのためにがむしゃらに働いた。突き上げてくる罪の意識を贖うかのように、時折、突風のように吹き荒れる空しさを追い払うように、そんな時は、浴びるように飲むしかなかった。
母と妻子は、母が死ぬまで、一度も会うことはなかった。何度か母を説得したが、その話の度に母は「やめておくれよ」と言った。私は母を傷つけることはできなかった。
私は、母の前では、一生息子でいようと決心したのである。
月に2回だけ1人で母の家に帰っていたが、年が経つにつれて母の足腰は弱った。押し車を使って買い物に行っていたが、それもできなくなった。
私は単身で故郷の病院で働くことを決め、大学講師の立場を捨てて、母の傍で過ごすことにした。母を車に乗せて買い物に連れて行き、母の家に泊まり、母の手料理を食べ、週末になると横浜に帰り夫と父親に戻った。その母は、2年前に血液が造れない病気になって死んだ。
件名:高村君 その四
日時:○○年8月16日
6年生の秋だった。高村君の部屋に、お母さんの手紙が置いてあった。高村君はパチンコに行ってたし、彼、殆どお母さんの話をしなかったし、もしかしたら近い将来、会うかと思っていたので、どんな人か知りたくて読んでしまった。
便箋一枚に「いつ帰ってくるんかね。卒業したら戻ってくるんかね」と鉛筆で書いてあって、その字がとても弱々しかった。それを読んでいるうちに、とても悪いことをしているような気持ちになった。私、研修医が終わったら高村君を金沢に連れて帰ろうとか勝手に思ってたしね。
これから会うかもしれないし。高村君に秘密でお母さんに手紙を書いたの。「一年生の時からつきあっていました、ごめんなさい......」みたいな内容だった思う。しばらくしたら、お母さんから私に返事がきたのよ。お母さんの返事を私は今でも持っている。これだけは捨てるわけにはいかない。私には母がいなかったし。いつか自分が母親になって息子ができたら、こんな母親でいたいと思った。でも結局、結婚できなかったけどね。手紙を高村君に返せないから、メールに書いておく。私のことを、お母さんはまんざら悪く思っていなかったの(笑)。
「石川麻里さんへ
正直、最初は驚きました。見たことも会ったこともないあなたに怒りも感じました。二週間ずっとぼんやりと過ごしていました。息子に連絡することも考えましたが、辞めました。息子があなたを連れてくることを待っています。あなたがこうして手紙を書いてくれたことで、あなたが、とても優しい人だと知りました。あの子は小さい頃から、淋しがり屋です。きっと、あなたが大学生活を支えてくれているのでしょう。近い将来会えると思っています。何もないところですが、こちらに来た時には、おきりこみという郷土料理を教えてあげます。高村邦子」
この手紙を読む度に、私は辛くなった。結局、父には高村君のことを伝えることができなかった。私も高村君も一人っ子で片親だし、どちらかの親が不孝になる。
私は、高村君と別れるなら卒業の時しかないと思った。
高村くんのお母さんを謝恩会の時に始めて見たわ。地味な感じで優しそうだった。足が悪いと聞いていたから、すぐにわかった。わざと近くにいたのよ。そしたら声をかけてくれた。もちろん自分のことは黙ってた。岩野教授に会いたいというので、お母さんを連れていった。岩野教授と話すお母さん、その向こうに見える高村君を見て、「ありがとう、さようなら」と小さな声で言った。
そして彼は翌日からスキーに行き、私はこっそり故郷に戻る準備を始めた。ずっと泣きながら部屋を片づけた。そして、大学のある町には二度と戻るまいと心に誓い、父と故郷に帰った。淋しいよ、涼ちゃん。高村君と、きちんとお別れしておくべきだった。今、とても彼に会いたい。最後にまた、あの頃みたいに二人で一緒に砂浜で絵を描きたい。
曲はCareless WhisperからChicagoの「素直になれなくて」に変わった。気がつくとボトルは空になっていた。ボトル一本のワインは遠い昔の記憶に変わり、麻里と過ごした風景は、もう蜃気楼ではなくなった。
思い出したよ麻里・・・・・・
大学三年の時に私と二人で海辺に行って描いた水平線に沈む夕日の絵だろ。薄っぺらで人がいない殺風景な絵だったよね。私と麻里の空しさを描いたんだ。
私はタクシーを頼み、母が住んでいた家に向かった。ドアを開けると、いつもの懐かしいカビ臭い匂いした。蛍光灯の明かりをつけて、母が寝ていたあたりの畳の上に仰向けになる。天板の一部が剥げ、雨漏りの染みのある天井が見える。麻里の顔と母の顔が重なる。哀しみ、淋しさ、空しさ、後悔、言葉に出来ない感情が、押し寄せる津波にように私を襲ってくる。
麻里、駅前の定食屋が好きだったね。詩集を教えてくれたね。そう、さっき読んでいた中原中也だって、麻里が好きだった詩人だ。麻里の丸い字で書いたノートがなかったら医者になれなかったよ。必ず会いに行くから、生きているんだ麻里、生きているんだ・・・・・・。
あの頃、母と離れた淋しさや空しさを埋めてくれたのは麻里だ。麻里が別れた本当の理由を知らなかった。麻里が一人で生きていたこと、小児科医になる約束を守ったこと、私のことをずっと心に置いていたこと・・・・・・、何も知らなかった。
「もしかしたら・・・・・・」
私は倉庫にしている自室に積み上げられた段ボールを思い出した。ふらつく足で廊下を歩き自分の部屋に入った。いくつもある段ボールの中から、大学時代の品々を詰めた段ボール箱を夢中で探した。それは二十個程ある段ボール中の一番下の一番奥にあった。蓋を開けて、学生時代の古い内科の教科書、古い画材道具を取り出していく。一番下に、五号の小さな絵があった。二人で一緒に描いた海の絵だ。でも私の記憶は間違っていた。砂浜には水着の女の子と、日焼けした男の子が二人で砂遊びをしている絵だった。
「子どもは男と女、一人づつだよね」と二人で笑いながら、私が女の子を描き、麻里が男の子を描いた。青い海を背景にして、二人の子どもは本当に楽しそうに砂遊びをしている。
そう、あの頃は空しい時代だったんじゃない・・・・・・私と麻里は暖かい時間を過ごしていたんだ。
そんな大切なことをずっと忘れていた。
私は、母のいない家で五号の絵を抱きしめ、そして泣いた。
了
感想あれば、藤村 邦のホームページからください。