08-怒りの果てに生まれたもの
陽の光を浴びながら、しばしバウルは放心した。仇は取った、それでも心は晴れなかった。失ったものは二度と還らない。過ぎ去った時間は決して戻らない。ムスタファ・クガニエルの死は区切り以外の何物でもなかった。
(いや……こいつによって失われるはずだった、幾戦幾万の幸せを守ることは出来たんだ。それだけで十分……過分なほどだ。俺にとっては……)
「キミは願いを満たせて、満足かな?」
いまなお戦闘は続いている。そんな殺伐とした状況にあって、その声は不自然なほど透き通っていた。この世の穢れなどただの一つも知らないような。
「お前は……どうしてこんなところにいる?」
「キミのことが気になったんだ。でも、心配し過ぎだったみたいだね」
いつの間にか、街へと続く道路の真ん中に銀髪の少女、クオイが立っていた。彼女はあの時と全く変わらない服装で、清らかな笑みを浮かべていた。
「お前は……俺と同じ天生体なのか? そうじゃなきゃ、あんな……」
「キミと同じってことはないかな。だって、私は本当は……」
少女の背から鳩のような白い翼が生える。翼は後方から放たれたビームを受け止め、散った。白い羽がはらはらと風に舞い落ち、消えて行った。
「私は天使だから。キミたちから始まり、終わるもの」
「お前が……天使? でも、お前はあいつらとは……」
クオイはクルクルと踊るようにして移動する。続けて放たれたビームは、彼女を捕えることなくアスファルトを溶かした。熱によって膨張して爆ぜたアスファルトでさえ、彼女の動きを止めることは出来ない。クオイはビームの死角まで移動し、一息吐いた。
「東にマティウスはある。天使を生み出した天使……極光天使がいる」
「極光天使……」
「お願いバウルくん。極光天使を倒して。あれからすべての悲しみが始まった」
その声色には、切実なものが混じっていた。ほんの一瞬前まで浮かべていた余裕など、すでにそこから消え去っていた。
「そして、天生体を、あの子たちを絶対にマティウスに近付けてはいけないわ」
「なんだと? いったいどういうことだ?」
「誰も幸せになんてなれない。誰も、そんなことは望んでいないでしょう」
話を続けようとしたが、出来なかった。けたたましい銃声が響き、クオイの近くで砂煙が上がる。振り返ると、そこにはダリルがいた。
「ダリル! 待て、あいつは……」
「待てねえ! アイツが一号天使だ、チィと潰して連れて帰るぞ!」
クオイは銃弾を巧みに避け、ビルの中へと消えた。さすがのAAでも、人のために作られたビルに入ることは出来ない。どれだけ待っても、クオイが出て来ることはなかった。恐らく地下通路から脱出してしまったのだろう。
(一号天使……あの子が? 誰も幸せにならないって、いったい……)
肝心なことは何一つ聞くことが出来なかった。だからかもしれない、バウルの心に去来したのは、未来への不安。ただそれだけだった。
バウルは反省房のベッドに寝転がり、大欠伸を掻いた。これまでは訓練、座学、また訓練の連続だった。時々戦闘が入り、こうして無為に一日を過ごすことなどなかったかもしれない。だからこそ彼は、小さな幸せを噛み締めた。
(ゆっくり眠れる……幸せだな。何日かすればこれも明けるし……)
あの後バウンズに戻り、アランとラウにこってりと絞られた。独断専行、違法な武力の行使、その他諸々。殺されてもおかしくはなかった。
「お前の気持ちは分からないでもない。失ったものを取り戻したいと考えるのは、それは人間にとって当たり前の感情だからな」
それでも二人は許した。
バウルの考えていることが分かると言った。
「だが、だからこそ人は己を律さなければならない時がある。感情のタガを失ったもの、それがムスタファ・クガニエルだ。行きつく先はあそこだぞ」
己の信仰に準じたムスタファと、己の憎悪に従ったバウル。そこに違いがあるとすれば、最終的にムスタファが死に、バウルが生き残ったことくらいだ。制御出来ない感情に従い続ければ、いずれ己自身を殺すこととなる。
「怒りを受け入れろ。その上で、考え続けろ。どうすればいいのかを」
「俺があいつらに復讐したいと言えば……あなたたちは協力しましたか?」
「無理だな。せいぜいが、仲間の優秀さを説くことくらいだ」
アランは深いため息を吐いた。結局のところ、人間には出来ることと出来ないことがある。組織に属すればその幅は広まるだろうが、それでもだ。
「自分のやったことについて、考える時間が必要だろう。謹慎を命じる」
どれだけ長い期間になるかを、アランは説明しなかった。
「よっ、腐ってるみたいだねバウルくん。暇だから見に来たよ」
考え事をしていると、格子の外から声を掛けられた。イリーナの声だ。
「ああ、イリーナ。派手に機体を壊すことになったのは謝罪するよ」
「いいのいいの。キミが機体を壊し多分フェネクスは儲かるんだから」
請求書のゼロがどれだけ増えるのか、バウルは少しだけ不安になった。
「ま、冗談だよ。どれだけ壊しても、生きて帰って来てくれるのがいい」
「……ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ」
「救われちゃダメ。私にも内緒で出て行ったなんて、絶対に許さないよ」
イリーナはぷう、と風船のように頬を膨らませた。子供っぽい仕草だったが、彼女が本気で起こっているのが伝わって来た。バウルは起き上がる。
「ムスタファ・クガニエルは俺の人生にとって越えなければならない壁だった」
「知ってる。昔、いろいろあったんだよね?」
「もう絶対にあんな真似はしない。自分の命を無駄遣いするような真似は絶対」
「信じられないな。いままで散々、命を無駄に張って来たんだから」
ぐっ、と言葉に詰まる。
反論するだけの材料がなかったのが辛い。
「前々から思っていたけど、キミは無茶苦茶な真似をし過ぎだと思うの」
「俺も言われたよ、艦長からな。感情に従っていると死ぬ、ってさ」
それでもバウルは激情を制する方法を知らない。それに従うことでしか、彼は生きて来られなかったから。怒りと自分を切り離して戦えるとは思えなかった。
「いいじゃない、感情。人間だけが持っている尊いものだよ、それは」
「それが醜い、誰かを殺したいっていう怒りでもか?」
「『あんにゃろう』とか、『こなくそ!』とか、怒りがなかったら人間ってここまで生きて来られなかったと思うんだ。誰かを恨むっていうことは、もっと成長したい、あいつを見返したいって思うことじゃないかな? それは大切にしなきゃいけないことじゃないの」
イリーナは格子越しに手を伸ばして来た。
バウルもおずおずと手を差し出す。
「私から言わせると、バウルくんは感情を表に出さなさすぎだよ」
イリーナは差し出された手を取った。
温かな感触が伝わって来る。
「感じるままに生きようよ。あれこれ考えるのはそれからでもいいでしょ?」
いままではそれが許されなかった。
ずっと感情なんてものを忘れていた。
それでいいと思っていた。
だが……思い出したいと、そう彼は心から思った。




