05-仇敵
(諸君らの魂は穢れている。文明という穢れ、悪魔のもたらした堕落の穢れだ)
ムスタファ・クガニエルの幻聴が脳裏に木霊する。地獄の日々が蘇る。
(神聖なる闘争によってのみ、神の炎によって焼かれることによってのみ、キミたちの罪は浄化される。穢れた罪人は地獄に堕ち、清らかな魂は天国へ逝く)
ギュッと唇を噛み、拳を握り締め、バウルは幻聴を振り払った。目の前にいるのは本物だ、幻覚ではない。どうにかして白の地獄を生き抜き、ムスタファはこの地にやって来た。当局の監視の目をすり抜けのうのうと生きている。
(誰かを待っているようだな。時間を気にしている、これなら……)
バウルはひとまず当初の目的を果たしてしまおうと考えた。路地を曲がり、ネットカフェの席を取り、検索を開始。フェネクス商会、イリーナについての情報を探す。十分程度の試行錯誤の末、バウルはイリーナのアドレスを見つけた。
(彼女にこれが届くまで二日か、三日か。果たして……)
彼女の目にこれが触れるかすらも分からない。スパムメールとして捨てられるか、それとも。それでも、これまでの感謝と謝意を伝えずにはいられなかった。キーボードを叩き、メールを送信。終わったことを確認し、バウルは店を出た。
(ムスタファ、何をしようとしているんだ?)
バウルの胸に、忘れていた怒りと憎しみの炎が蘇った。あの場で全員死んだ、すべて清算したと信じていたからこそ、バウルはそれを忘れることが出来た。だが、自分を地獄の底に叩き込み、多くの人を己の身勝手な闘争に巻き込んだ男が生きているとなれば話は別だ。その憎しみを晴らす術を、バウルは知らない。
(殺してやる、ムスタファ。俺は、お前を……!)
彼がいま何をしているのかは分からない。だが昨今のテロと無関係ではないとバウルは考えていた。憎しみに歪んだ思考だと、自覚することは出来なかった。
バウルはメッセージを送り、戻ってきた時も、ムスタファはまだ喫茶店にいた。とは言っても会計を終え店を出ようとしていたところなので、ギリギリだったのだが。人ごみの中に消えて行こうとするムスタファをバウルは追う。
スルリスルリと、慣れた足取りでムスタファは市街を進んで行く。一方で、バウルは久方ぶりの人波に飲まれかけていた。天生体の知覚力のおかげでムスタファを見逃すことはなかったが、追いかけて行くので精一杯だった。
(クソ、退けお前ら! あいつを、あいつを逃がしたらまた……!)
また誰かが死ぬ。自分のような犠牲者が増える。そうなれば……
ムスタファが角を曲がる。
バウルもそれを追う。
全身を痺れる痛みが襲う。
「私を尾行してくるなんてね。どこの組織だ、|FCA(連邦中央情報局)? A|IC(中央情報センター)?
……ん、お前は、もしかして……」
スタンガン、それも超強力な。
自覚すると同時に、バウルの意識は途絶えた。
顔面を襲う衝撃に、バウルは目を覚ました。
「おはよう。私が誰だかは分かるね? 分かるから追っていたんだろう」
「……ムスタファ・クガニエル」
「うん、やはりそうだ。私は人に後ろを歩かれるのが嫌いなんだよ」
クガニエルはバウルの顔面を殴った。歪む視界を必死で押さえ、バウルは周囲を見回した。色褪せた壁紙、ところどころ痛みの目立つ調度品、安っぽいベッド。バウルは安ホテルの椅子に縛り付けられていた。
「俺をどうするつもりだ……俺を、いったい」
「それはこちらのセリフだ。私を追いかけていったい何をするつもりだったんだね? どこかで見たことがある、そう……カルファのキャンプ」
覚えていた。あるいはそれはウソか。
バウルには分からなかった。
「……ああ。お前に人生を歪められて、殺された人間の、一人だ」
「生きているだけ儲けものだ。キミはそれで満足すべきだった」
バウルは自分の置かれている状況について考えを巡らせる。部屋の中にはクガニエルを含めて四人、サングラスやマスクをつけており表情は伺えない。身長はそれぞれ七十二、五十四、六十八。クガニエルが八十。小男以外は痩せていた。
拘束は後ろ手に縛られているだけ、自分の小柄な体格を利用すれば抜け出すことは出来るだろう。だが抜けられるだけだ、四人にあっという間に拘束されるだろう。近くに窓はあるが、そこまで逃げることが出来るかどうか……
「私のことを追いかけていた以上、私が何をしようとしているか知っているということだろう? そうでなければ、無害なサラリーマンを追う理由はない。違うかね、少年兵?」
違う、と言いたかったが、その前に布をねじ込まれた。
「騒がれると面倒なので水責めで殺す。心配しなくてもいい、キミの死体は今日の夕方までには発見される。それまでに私たちはここから逃げるがね」
四の五の言っている場合ではない、逃げなければ。バウルはもがくが、ムスタファがそれを押さえ付ける。三人も近付いて来る、このままでは……
カチャッ、と金属音が鳴り、四人の注意が入り口に向く。扉が勢いよく開かれ、チェーンロックに阻まれ派手な音を立てる。僅かに開いた扉から何かが投げ込まれた。ムスタファたちは口汚い叫びとともに地面にしゃがみ込んだ。
爆音と閃光が部屋の中に鳴り響いた。バウルの目が潰れ、耳が聞こえなくなる。だが、これは一瞬だけもたらされたチャンスだ。バウルは椅子ごと倒れもがき、拘束を脱する。そして出鱈目に伸ばされたムスタファの手を掻い潜り、窓に体当たりを仕掛けた。薄いガラスを突き破り、バウルは屋外へと脱した。
(ああ、そういえばここが何階か確認していなかった……!)
少なくとも四階分の距離を落下し、バウルは何かに叩きつけられた。けたたましいサイレンの音、衝突音、落ちてなおバウルの体は揺さぶられ、また地面に落ちた。数分かけてようやく治った目を開くと、車がグシャグシャになっていた。
(ああそうか、弁償……クソ、頭の痛い話だな)
物理的にも、精神的にも頭が痛かった。しばらく起き上がる気になれず転がっていると、自分の体に影が差した。
「相変わらず派手にやってるみたいだね、バウルくん」
聞き慣れた声。思わずバウルは上半身を起こした。
「……イリーナ!? どうしてこんなところに」
少女、イリーナ・フェネクスは屈託のない、太陽のような笑みで答えた。




