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05-転機

 緩いウェーブのかかった薄い赤髪が動きに合わせてふわりと揺れた。ハーフフレームのメガネの奥から覗く瞳は優しげで、しかしそれでいて油断が一切感じられなかった。グレイホワイトのレディーススーツの袖をまくった女社長がバウルに手を伸ばした。


「初めまして。メルティオ・アルタイル、いまは社長をしています」

「よ、よろしくお願いします」


 自然と声が上ずった。つい先ほどまで話していた男もそうだが、メルティオもまたバウルにとっては圧倒的上位者だ。雇用関係にあるだとか、薙いだとか、そういうものは一切関係がない。立ち振る舞い一つを取ってみても、まったく違う世界の人間だと分かる。


「さて、彼が今日から配属されることになる?」

「ええ。詳しくは戻ってから話させる予定ですが」

「面倒ですので、ここでやってしまってはいかがですか?」


 あくまで提案という体だったが、彼女に逆らえるものはいないだろう。


「馬頭閏賀くん、細かい誓約等も確認することになるから少し長くなると思うが……いいかね? キミの将来を決める、大事な書類だからね」


 給与体系、勤務規則、社内規則などなど。


「……前線で働く以外にも道を用意しているんですね、意外でした」


 中でも意外だったのだが、配属先に対して希望を出すことが出来る、ということだった。いままでの話ぶりで、兵士しか道がないと判断していたのだ。


「それはもちろん。キミは未来ある若者ですからね。技能や経験を持った人間は貴重ですが、これからを紡いで行ける人もまた貴重であると考えています」


 メルティオが笑い、男が渋面を作る。そういえば、あのスーツの男はいままで自分の名を名乗っていないな、とバウルは今更ながらに思った。


「天生体の生体組織観察は前線にいなくても出来ますし、むしろそうした方がいいかもしれません。緊張状態におけるデータも重要ですが、平時のデータもまた大事ですからね。少しばかり不自由な生活を強いることになるとは思いますが」


 提示された就職先は、どれも魅力的なものにバウルには思えた。少なくとも、殺し殺されを繰り返しているよりもずっといいはずだった。


「どうするかはあなたの自由です。あなたには自由を謳歌する権利があります」


 それでも、バウルの答えは初めから決まっていた。


「戦います、この部隊で。俺は天使を倒すため、ここで戦いたいんです」


 そしてもう一度、あの少女に、本当の天使に出会うために。それが始まりであり、終わりだ。区切りをつけなければ、一歩も踏み出せない気がしていた。


(キミのおかげで分かった、イリーナ。区切りは自分のためにつけるんだ)


 メルティオは少し寂しそうに笑い、契約書の自書欄を指した。


「ようこそ、馬頭閏賀くん。私たちアルタイル社は、キミを歓迎します」


 バウルは迷うことなく――少し書くのには手間取ったが――自分の名前をそこに書いた。バウルは天使を殺すものに、この時なった。




「しかし、よかったのか? 後方勤務を願い出ることも出来たのに」


 社を出るなり、ラウは懐から煙草を取り出し火をつけた。


「俺が拾われたのは、元々天使を殺す能力を買われたからでしょう?」

「それはそうだが、アルタイル社は人手が足りないからな。どこへの配属を願っても、まあ通っただろう。俺だったらあんな辞令が来たら二つ返事で受けるが」

「この子はお前ではない。決まったことをグダグダ言う必要はないだろう」

「しかしなあ、後悔してからじゃ遅いですよ艦長。殺し殺され転地転戦を繰り返す兵隊家業なんて、それが好きじゃないととてもやってられませんわ」


 ラウは深く煙草の煙を吸い込みながら言った。紫煙がバウルにかかる。


「後悔せずに生きていくことは不可能だ。いまの選択、いまの心境、そうしたものが積み重なっているんだからな。満足したって後悔するのが人間だ」


 ラウの懸念を、アランは跳ねのける。そうなるとラウはもう何も言えなかった。ただ少し、困ったように笑ってタバコを吸い続けるだけだ。


「いずれ後悔する時が来るだろう、バウル」

「そんな時は来やしません、艦長。俺は俺の意志で選んだんですから」

「聞け。どいつもこいつも後悔だらけの人生を歩んでいる……やむを得ない選択があったことも確かだが、それだけじゃない。自分で選んでこのザマだ」


 アランは右足をさすった。

 いまもなお、引きずり続けている足を。


「後悔しないように生きることなんて出来ないし、そうする必要だってない。大切なのはその時選んだ自分を否定しないようにすることだけだ」

「その時の、自分を?」

「それもまたお前の一部なんだ。何を否定しても、お前だけはお前を否定するな。それだけがあれば、どんな後悔塗れの人生だって楽しんで生きられるさ」


 その言葉の意味を、バウルは理解出来なかった。

 少なくとも、いまは。


「さて、時間を取ってしまったが戻るぞ。数日間停泊することになるが――」


 アランが顔を引き締め、二人に指示を出そうとした時。港湾の倉庫が爆発した。


「のぁっ!? あんだ、事故でも起こったのか……!?」


 ラウは驚きタバコを取り落す。

 不純な黄の混ざった黒煙が空に昇って行く。


「アレは……あの煙は、まさか……!」


 あの煙に、バウルは見覚えがあった。何度も、何度も、何度も、それを見た。吹き飛んで行く人を、それでもなお続けられる愚考を、バウルは何度見た。

 反射的に、バウルは駆け出していた。アランとラウが制止するのも聞かず、ただがむしゃらに走り続けた。どうして二本の足が動いているのか、当のバウル自身にも分からなかった。ただ、そこに向かわなければいけないという意志があった。


 爆発現場となったのは、アルタイル社の敷地でもある倉庫。港から欧州に送る荷物をストックし、また送られて来た荷物を検品する場所だ。平時であっても騒がしい場所ではあるが、爆発のせいでより一層騒がしい。


「これは……同じだ。あの時と、同じだ……!」


 倉庫の中央で爆発があったのだろう。施設そのものに損傷はなかったのか、入り口や窓から朦々と黒煙が立ち込めている。煙に巻かれて咽ながら脱出する人々が大勢いる一方で、全身に重度の火傷を負った作業員が運び出されたりもしている。


「まだ、こんなことを続けているのか……解放同盟……!」


 こうした非装甲化目標(ソフトターゲット)に対する、市販の農薬や薬剤を使った爆破テロは、かつてバウルが所属していたグラディウス解放同盟のお家芸だった。

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